拐かし
拐かし
──葉子がその視線に気付いたのは、ここ最近のことだった。
(誰かが、見ている……)
周囲を見回しても、見知った女房と母しかいない。
「…………?」
けれど、チリチリと射るような視線を感じる。
それは大抵、葉子が京都御所の庭や回廊を歩いているときに起きる。
遠くには道長と同じような出で立ちの貴族たちが見える。
顔が見える距離ではないので、葉子はすぐに道長を探すのを諦めた。
そもそも葉子が立ち入りを許されているのは彰子おばの周辺のみ。
ややこと彰子おば、母を含む女房たちしかいないのだ。
視線は庭の向こうから、と葉子は考えた。
「どうしました、姫」
土御門殿から付き添ってきた女房が、落ち着きなく周囲を見回す葉子に優しく尋ねた。
「誰かが見ておる」
「姫は北家の姫ですから、皆気になるのでしょうな」
「さようですな」
見られるのには慣れている。
が、何かがおかしい。
間の悪いことに朱刕は晴明と出かけており、夜まで帰らぬということで帯同していない。
葉子は袖の中の呪符をそっと指先で確認し、もう一度周囲を見渡した。
彰子おばは、母の涼子の妹であるので葉子にもとても優しい。
勧められるまま菓子を食べて香の物語を聞き、迎えの牛車に向かうべく回廊に出た葉子。
少し進んだところで異変が起こった。
ぼん!
大きなくぐもった音が響き、火が上がる。
同時に鈍い音がして、振り返ると女房が二人昏倒している。
残りの女房は悲鳴をあげながら、衣に着いた火を消そうとお互いをはたきあう。
そして。
騒ぎが収まった時、姫の姿はどこにも無かった。
数刻が過ぎた頃、葉子は頭から布で巻かれた状態で揺れる牛車に押し込められていた。
視界が全く無いので確信は無いが、知らない女房がすぐそばに座している。
もぞもぞと動いてはみたものの、しっかり巻かれた布を幼い姫がほどける訳もない。
(知らぬ女房がいるとなっては、術を使うは無しじゃ……)
いよいよとなれば、相手は女房一人。
妖術を使って脱出は可能だと考えた葉子は落ち着いて考えを巡らせた。
(あまり良い牛車ではない……揺れが酷いのぅ。牛車は貴族のもの。なれば貴族の仕業……)
どの方向に向かっているかもわからないが、既にかなりの距離を来ているはず。
そばにいる女房はひと言も発さない。
時折、袖の衣擦れの音が聞こえるだけだ。
(どうしたものか。女房一人のうちに、逃げるが良いのか……)
姫が考えあぐねていると、大きな音とともに牛車が傾いた。
どうやら車輪が壊れたようだ。
牛車を引く牛飼童の悲鳴が響き渡り、一際大きく揺れた牛車からバリバリと木の裂ける音がする。
一瞬、女房の細い悲鳴が上がったがすぐに周囲は静かになった。
葉子は布に巻かれたまま、誰かに抱き上げられその場から連れ去られた。
ややあって地面に降ろされ、布をほどかれた葉子は盛大に文句を言った。
「遅いのじゃ!しゅしゅ」
「そう言うな、ちゃんと迎えに来ただろう」
「あんなに揺らしおって……」
「ああ、車輪を吹き飛ばしたからな」
月の光に白髪を輝かせた少年が、ぶっきらぼうにそっぽを向いた。
「乱暴なのじゃ、妾、痛かったぞ!」
「悪かったな。しかし、思ってたより遠くにいたな」
「そうか、ここは──」
「もう京の外だ」
(血の匂いがする……)
妖狐からは、濃密な血臭がしていた。
「聞くな。お前は知らなくて良い」
「そうか」
「帰るぞ」
朱刕はそう言って、大きな狐へと姿を変えた。
「しゅしゅ、そち本当は大きいのじゃな」
葉子は驚いて、目を丸くした。
早く乗れと言わんばかりに伏せた朱刕の背に、意気揚々と跨り赤い衣をはためかせ、葉子と妖狐は暗い道を走り抜けた。
京に入ってしばらくすると、前方から新たな牛車が現れ二人の目の前で止まる。
そして、涼しい顔をした晴明が降りてきた。
守り狐は伏せて葉子を立たせた後、いつもの通り小さな狐に変じた。
「九尾の子よ、見事なり」
そう言って安倍晴明は葉子を抱き上げた。
「さ、皆が心配しておるゆえ戻ろうぞ」
守り狐は先触れを出すため走り去り、葉子は晴明と共に居心地のいい牛車へ。
さすがの姫も安心したからか、うとうととし始める。
心地よい揺れが、眠りの世界へと姫を誘った。




