呪か病か
偽道との話の翌日。
葉子はいつもより早く朝の支度を整えてもらい、出仕前の道長に飛びついた。
「おお? 早起きじゃの」
「みちな、出仕の前に妾と庭の散歩をしようぞ!」
「散歩とな?」
「妾、みちながずっと歩けるようにいて欲しいのじゃ」
「……」
黙り込む道長。
「これだけ愛されている祖父は他に見ないでしょうな」
「ほんに」
「大殿はまことすべてを持っておられる」
倫子や女房たちの口添えもあり、すっかり気を良くした道長は思わず笑い出した。
それからというもの、道長は葉子と朝の庭歩きを楽しむようになった。
そして、葉子がお願いしたのはそれだけではなかった。
いつの日からか、土御門殿の膳には最初に蒸した野菜やキノコが供されるようになった。
最初は渋っていた道長だったが、肌艶が良くなったと倫子や女房が喜んでいるのを見てからは、苦笑いで自らも食するのだった。
「菓子も膳も味が変わったのう」
「ですが慣れてしまえば美味」
「ほんに。最初はなんと薄い味かと驚きましたが──」
「大殿も、奥方様も身体が細くなりましたな」
「あら、私たちも。肌がこんなに」
しばらくすると、道長は葉子と蹴鞠を楽しむほどに色艶が良くなった。
相変わらず、夕餉の後や宴での獨酒は辞められなかったが──量はかなり減っている。
理由は、道長の変わりように公卿たちがしきりに秘訣を聞きに来ていたからだ。
最初はただの自慢話。
が、意図せずとも節制を語る側になった道長。
後に退けなくなって、自制せざるを得なくなったようだ。
葉子は女房たちの噂話でそれを小耳に挟み、してやったりと微笑んだ。
そんな穏やかなある夜のこと。
機嫌良く歌を詠む道長の横にちょこんと座した葉子は、ずっと気になっていることを尋ねてみた。
「のう、しゅしゅはいつ戻ってくるかの」
道長は筆を置き、葉子の不安そうな小さな顔を見つめた。
「守り狐か。……あれは怪我をして、山におるがじきに戻ってこよう。案ずるでない」
「怪我とな!」
「少々厄介事に巻き込まれたと聞いた。近々晴明と戻ると文が来ておったぞ」
「そうか、しゅしゅは痛い思いをしておるのじゃな。あれは椿餅が好物じゃ、食べさせたいのぅ」
「ほほ、はぁこはほんに守り狐が好きなのじゃな。よいよい、椿餅を届けさせようぞ」
しばらくして、硯から手を離した葉子は呟いた。
「──みちな、妾は赤い色が好きなのじゃ。歌を詠むに、色は難しいな?」
「ふむ。歌とはそのままを詠むではなく──赤ならば山裾の夕焼け、椿の咲くさまでも良いのじゃ」
「確かに、赤いものじゃ! 彰子おばと香が申しておったぞ、みちなはほんに歌がうまいと」
「ほほ、さようか」
道長は暫し葉子と歌の話に興じたが。
夜も更け、女房たちがまだ眠たくないとゴネる葉子を連れ出すのを名残惜しそうに眺めた。
それから数日後、道長が言った通りに晴明と朱刕が戻って来た。
「とと様! しゅしゅはもう治ったのか」
晴明は眉を上げ、朱刕に目をやる。
守り狐の輪郭が揺らぎ、幽かな風と共に人の姿に変じる。
「俺は大丈夫だぞ、姫」
「一体何をしていたのじゃ」
むくれる姫に晴明が淡々と告げる。
「なに、妖狐にも御家騒動があるゆえな。見事に朱刕は生き残り、尻尾も増えたものぞ」
「御家騒動……妖狐にも、あるのか」
朱刕は大仰に頷き、あると答えた。
「それは、」
女房の衣擦れが聞こえ、朱刕は一瞬で狐に変じた。
葉子はそれ以上聞くことができなかったが、守り狐の尻尾が一本から三本に増えてるのを目にして、それに夢中になった。
「増えておる!」
「いずれもっと増えよう」
晴明が、微笑みながら葉子の髪を撫でた。
「とと様、妖狐の御家騒動とはなんなのじゃ」
ふむ、と晴明は少しの間思案した。
「そうよの、妖狐にも色々な考えを持つ者がおる。我が母葛の葉は、中庸を重んずるものぞ」
葉子は晴明を見上げ、言われるままに横に座した。
「人間と関わらず静かに山に生きる者、人間に奪われた山を争いを起こし取り返したい者──」
「争い……」
「貴族と同じよ。それぞれに考えることが違う故な」
「同じ妖狐なのにのぅ」
「藤原も同じであろう? 同じ北家であっても敵になる者はおる」
確かにそうだ。
みちなには敵が多い……同じ藤原であっても、だ。
葉子は真面目な顔で頷いた。




