姫の生きる時代
「徒然なり、じゃの」
葉子は深夜にパチリと目を覚ました。
夜番の女房はいるが、姫の希望で部屋の外に作られた隣室のような小部屋に座している。
この小部屋を通らねば誰も入れぬ。
それならば良い、と葉子に甘い道長があっさりと裁可したものである。
内親王宣下以降、葉子の部屋は屋敷の中心に近い場所に移され、外の様子は見えない。
が、かすかに檜皮葺の屋根を打つ雨音が聞こえる。
檜の樹皮の赤褐色は、赤を好む葉子のお気に入りだった。
見上げる屋根が年々赤味を失っていくのが残念でならない。
とと様は、時がすぎるとはそういうものよと笑っていたが。
「しゅしゅは帰って来ぬし……徒然なり、じゃ」
葉子は再び退屈だと小さな声で、独り言を漏らした。
葉子は女房に気取られぬよう、そっと身体を起こした。
誰にも言っていないが、葉子はかなり妖術を操れるようになっている。
妖狐であるしゅしゅが師なのだから、当然の帰結。
父親である安倍晴明は気付いているだろうが、知らん顔をしている。
妖狐の系譜である姫にとって、陰陽術と妖術を組み合わせるのは容易いことであった。
系譜といえば、その力の使い方は──
安倍晴明という、生きた見本がいる。
姫はそっと術符に息を吹きかけ、遮音の結界を張った。
部屋の隅あるお気に入りの美しい水盆には、毎日水が張られている。
葉子は静かにその前に座し、集中し始める。
ゆら、と青白い光が姫から立ち上がる。
それはすぐに消えうせ、部屋はまた昏い静けさを取り戻した。
「偽道、おるか?」
ややあって、水面に人影のようなものが映った。
《あ、姫。久しぶりだなー》
のんきな声が部屋に響く。
葉子はちらりと女房のいる方向に目をやったが、気取られた様子はない。
姫はこの秘密の友人を存外気に入っている。
(偽道ならば、妾が何を言っても他言できぬ)
姫は姫なりに、貴族の秘密というものを重要視している。
言ってはならぬことを言えば家の大事になる。
なので、この水盆の友人は安心して話せる相手でもあった。
「うむ、久しいの」
《そう言えば、道長公の様子はどうだ?》
「みちなはちょっと元気になったぞ。今は陰陽寮に善き日を占わせておる」
《あのさ、姫……祈祷も大事なんだけど、ひとつ試して損はない案があるんだよ》
「申してみよ、偽道」
《そんな偉そうな──いや、偉いのか。まあいいや、まず道長公は運動不足だ》
葉子は少しの間、思案した。
(確かに、歩いてすぐの御座所にも牛車で行っておるの。……貴族とはそういうものよ)
「確かにあまり歩くことはないのぅ」
《だろ? 毎日ちょっとでいいから散歩させた方がいいぞ。あとは食事だな》
「…………? 運動に食事、とな」
《どんなもの食べてるんだ?》
「そうじゃの、みちなは蘇が好きじゃ。毎日を食しておるぞ。あとは獨酒、鯛、鮎、雉──」
《そ? んー、ああチーズかぁ。だくらう……ちょい待ち。なるほど、にごり酒か》
「ちいず? なんぞ」
葉子は聞き慣れぬ言葉に首を傾げた。
《いいか、姫。道長公は何といったらいいか……アレだ、栄養の取りすぎだ》
「ふむ……」
《野菜だ、姫。野菜とキノコを食事の前に食べるといい》
「みちなは野菜は食べぬぞ」
《やっぱりかぁ。そこは姫の愛らしさでなんとかならん? お願いしてみて》
「妾が言えば……」
《そう! 一番大事なのだからな、姫は!》
「そうじゃな! 妾は一番じゃ!」
《野菜とキノコだぞ。あとは味の濃いものは少なくする》
「朝に厨房のものに聞いてみようぞ」
姫は道長の食事風景を思い返した。
野菜、野菜──
「塩漬けの瓜と蕨なら食べておるぞ」
《塩漬けは……うーん、そのままか蒸したり煮たりが良いと思うんだけど》
なるほど、塩辛いものは辞めたほうがいいのか。
理由は分からなかったが、試してみるのは悪くない。
「毎日庭を歩いて──食事の前にキノコと塩辛くない野菜、じゃな?」
《うん、損するわけじゃないからしばらく試してみなよ》
その後、水面は何も言わなくなった。
シンとした部屋で葉子はしばらく座っていたが、眠気が差してきたので布団に戻ることにした。
(塩辛くない野菜。妾は蒸した野菜が好きぞ。みちなと一緒に食すのも悪くはない……)
葉子はあっという間に眠りに落ちていった。




