真実の表と裏
表と裏
葉子姫は中宮のところで菓子を食べたあとで女房である母、涼子が土御門殿に連れ帰った。
つまり、何も起きなかった。
──事件など、無かったのだ。
納得がいかない葉子は、祖母倫子に食い下がったものの……。
「どうして聞いてはならぬのだー!」
「詮無きことじゃ」
当事者であるというのに、葉子は道長にも倫子にも相手にすらされなかった。
もちろん、女房たちも知らぬ存ぜぬだ。
だが葉子はおとなしく引き下がる姫ではない。
ならば、と噂話に興じる女房たちをこっそり見張り、少しずつ、断片的ながらも情報を集めていく。
「京の外れで高階の女房が妖に惨たらしく殺された」
「酷い有様だったとか」
「あれ恐ろしや」
「牛車が裂けていたと聞きましたぞ」
「辺り一面、血の海だったそうじゃ」
「しばらく出歩くは控えるよう、大殿が──」
「御所で香炉が倒れて火がついたそうじゃ」
「何人か火傷しましたな」
「幸いすぐに消し止められて、中宮には及ばなかったらしい」
「火元は登華殿の側だったとか」
「妖の件、高階の……」
「嫌だ、妖に食われたは乳母殿の女房ではないの」
「敦康親王が狙われたと?」
「いえ、あちらには定子殿のお子たちもおりますゆえ、どちらとは……」
葉子はいつもの松の木の上で、思案した。
(事件はあった。妾は……)
あの女房は高階家の者となると、登華殿にいる敦康親王の乳母の手の者。
しゅしゅは人間を食べてしまったのかのう?
「詮無きこと、とな。妾、知らないままは嫌なのじゃ」
葉子は引き続き情報収集をすると決めたが、そんなことは大人たちにお見通しである。
結局、周囲を困らせ続けた葉子は部屋から出ることを禁じられた。
そして、安倍晴明が久しぶりに姫の部屋を訪ねて来た。
珍しく、母の涼子も一緒である。
「まあ、なんというお顔」
涼子が膨らんだ葉子の頬をつついた。
「ほほ、鼻より高い口じゃの」
晴明が袖で口元を隠し、肩を震わせた。
葉子はますます仏頂面になった。
「おはは、ひどいのじゃ! とと様もじゃ」
「そう膨れなさるな。ほれ、菓子を持ってきたぞ」
涼子が菓子を差し出すと、葉子はしっかり両手で受け取り小さなため息をついた。
「あまり大殿を困らせてはなりません。何もなかったことになったのは──北家と姫を守るためでもあるのですよ」
「妾を?」
葉子は首を傾げた。
北家の為、ならば理解出来る。
道長は常にそのように言っていたし、動いているからだ。
「さよう。姫が妖憑きだと噂が立たぬように、じゃ」
「真でもないのにか?」
葉子の問いに、涼子は頷いた。
「大殿を引きずり下ろしたい者は数多いのです。北家の姫に瑕疵があってはならぬのですよ」
「…………」
ふう、と晴明が息を吐き口を開いた。
「かと言って、何も知らぬでは身も守れぬ。少しばかり秘密を教えようぞ。だが、誰にも言うてはならぬぞ」
「秘密、じゃな!」
葉子はようやく笑顔を見せた。
「御所では香炉が倒れたという火の不始末じゃ」
「あれは呪だったぞ! 妾、見たもの」
「うむ。呪である」
「そして葉子を拐かしたのは、中宮宣旨である高階光子殿の子飼いの女房でした」
涼子が静かに付け加えた。
「中宮宣旨の裏には、伊周がおる」
「? 伊周おじが?」
ますます首を傾げる葉子。
無理もない、伊周殿も北家の者であるからだ。
「いずれ、葉子にも理解出来よう。今は気をつけるべき人間を覚えておくことだ」
「そうか、覚えるは容易いことぞ」
「登華殿におる者、藤原伊周殿には気を許してはならぬ。特に高階光子殿は敦康親王の乳母であり近しい血縁ゆえ、近寄らぬようにな」
「…………」
「もう乳母など必要な年ではないとはいえ、実の叔母であると言う権力は大きい。それにあちらの内親王たちは、定子殿がかくれた後は彰子とも親しいのが……」
「よく遊びに来ておるぞ、二人とも。みちなは登華殿の内親王と遊ぶは良くないというから、あまり話せぬのじゃ」
「葉子とは年が近いゆえ、大殿は心配されているのでしょう」
「なにを?」
「その女房たちが葉子に近付いても、誰もおかしいとは思わないからですよ」
「なるほどのぅ」
「しばらく御所に行くのは禁止じゃ」
「ええー、嫌じゃ」
涼子は怖い顔をして、ため息をついた。
「いいですか。葉子が居なくなったと聞いて大殿は卒倒したのですよ。それだけではなく……」
「みちなが……」
「今でも夜中に飛び起きるようですよ、葉子が居なくなる夢を見たと言って」
なおも説教を続ける涼子を手で制し、晴明は優しく葉子に話しかけた。
「耳を澄まし、口を閉じ、牙を磨け。さすれば知りたいことは自ずと寄ってくる」
「なかったこと、でいい…… 妾は、何も知らぬままが秘密なのじゃな?」
考え込む葉子を、両親は穏やかに見守った。
そして、帰り際に葉子が一番知りたかった答えを置いていった。
「守り狐は人を食わぬ。安心せよ」




