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第70話 シルバ教皇庁にて

2月下旬、シルバ教国

教皇庁ーーーー


 王立イスタルシア総合学院、魔道真理学部のロッサム教授、フルネームはヨハネス=クリストフ・フォン・ロッサム・グリムワルドは生きた心地がしなかった。


 大理石の床はまるで死を賜るような冷酷さを立ち上らせるような、ざわり、とした冷たさ…。なのに、ロッサムの額からはとめどない脂汗がびっしりと浮いていた。


 ぽたり。

 その雫が大理石を震わせる。僅かそれだけの音が大聖堂に響き渡る。

 それほどの静寂が、ロッサムを包んでいた。


 ただ、平伏する他はない。

 床より上を見上げることが、ロッサムにはどうしてもできなかった。


「『ヨハネス』」


 永遠の如き沈黙を破り、洗礼名で彼の名を告げたのはリシュリュー枢機卿であった。


「貴殿はアリア大司教という立場にありながら、余が特例中の特例として貸し与えた神聖なる『グランド・ディベート』の場において、フランソワなる小娘の詭弁に敗れたどころか、自ら取り乱しビアンカなる破門者の末裔に命乞いを晒したという。教義への背信どころか、もはや神への冒涜に等しい。破門のほか裁可はあるまいよ」


 ロッサムはただ、カチカチと歯を震わすのみ。


「であるが、寛大なる教皇猊下の思し召しにより、贖罪の機会を与えることとなった…。ヨハネス、発言をゆるそう」

「はっ…はっ!」


 全身が小刻みに痙攣し、まともな声が出ない。だが、出さなければならぬ、出さなければ破門である、すなわち我が身の破滅…! それは死よりも恐ろしいことではないか!


「か、寛大なるき、教皇聖下の思し召し、何よりも感謝申し上げます…! し、しかしながら、わ、我が敗北したにあらず! が、学院のレクターたる、魔道の正統を導くべき、ギリアムなるものが裏切り、フランソワに有利な理論を構築した故に…! さ、さらに学院生らも、特にヴィクトールなる若輩者は、我の指導と神のお導きにもかかわらず、フランソワに圧倒される始末…! む、無論全ての責は指導が及ばぬ我にございます、されど、今一度、今一度機会を、機会を頂きたく! つ、次こそは異端たるフランソワを、そ、そして破門者の子孫たるビアンカを討ち取ることを誓約いたしますれば、何卒、何卒…!」


「信に足りぬ。貴殿の振舞い、もはや再起を恵む必要なし。教皇猊下、ご裁可を…」


 まずい。

 ロッサムは思った。このままでは、破門が確定してしまう…。や、やむを得ぬ…確信が持てぬ情報故に、まだ秘匿しておきたかったが!


「お、恐れながら!」

「貴殿の発言は許可しておらぬ」


 リシュリューが冷めた目でロッサムを見下ろした。尤も、ロッサムが見ていたのは相変わらず冷たい大理石の床であったが。


「あ、アリアの王立イスタルシア総合学院に、闇の眷属の疑いありし者がおりまする!」

「世迷言であるか? ヨハネスよ…」


「よい、リシュリュー。続けさせよ」

 まるで雪解けのような温和な声が響いた。

 その声を聞くにはロッサムといえども初めてだった。だが、リシュリュー枢機卿を遮れる人間は極めて限られる。


「教皇猊下…御意に」

 発言の許可と理解し、ロッサムが声を張った。


「その名はシオンと申す、黒髪の平民にございます! 教皇聖下より賜りし魔導計測器において、きゃつは魔力9999というあり得ぬ数値と、漆黒に染まる魔力属性を指し示し申した! このシオン、我が手により確保し、闇の眷属として証明させてご覧に入れまする! 何卒、何卒ご慈悲を!」


「ロッサムよ」

 教皇が、『直接に彼の名を呼んだ』。その事実に、今度は歓喜のために心の底から震え上がった。いつしか身体の震えも止まっている。


「闇の眷属あるところ、光の御子も現れるという…。光の御子はおらぬのか?」

「も、申し訳ございませぬ! い、未だ光の御子は現れず…!」

「探すのだ…。探すのだ、ロッサム。光の御子を探すのだ。光と闇が揃いし時、予言された終末が訪れる…それは歓喜に満ちたものになるであろう…その時こそ、光は闇を打ち払い、この世界の全てを神の祝福に染め上げるのだ…。探すのだ、ロッサム…」

「神の御名において、光の御子を見つけ出して参ります…!」

「そして、異端の芽は早めに摘むことだ…。仔細はリシュリューに任せよう…」

「神の御心のままに…。下がるが良い、『ロッサム』仔細は後に伝えよう…」


 生き延びた。

 小刻みに震える両足をかろうじて動かし、大聖堂を後にした瞬間。

 ロッサムはその場に崩れ落ちた。


 その後のことは良く、覚えていない。

 ただ、次に目覚めた時が、宿坊の一室であった、というだけで。


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