第219話 ステファニー、チョコレートをそっと隠す
ニコラスたちが去って、マルスと残された女子陣でお茶でもしようか、などと話していた時、来訪者があった。
「マルティスさん、テオという方がお見えです」
学院のメイドである。お、とマルスが目を輝かせた。
「テオ、戻ってきたのか! 一年ぶりくらいだな…先生、ちょっと外させてもらいます」
「ええ、わかりました」
マルスが立ち去ると、ステファニーが顔を輝かせた。
「それじゃ、女子会にしましょ~。今日はチョコレートがあるんですよ。お父さんが贈ってくれたものです!」
「ち、ちょこれいとは…その…だいぶ高いやつじゃないですかね?」
マルタが恐縮する。実家の薬屋で、薬草の一つとして見たことはあるのだが、庶民ではとても手を出せない高級品であった。
「だから、ここだけで…ニコラス先輩とサムエルにはナイショです!」
そうして、お茶の準備をしていると。
「せ、先生! セドリック先生! ち、ちょいといいですか!?」
マルスがすぐに戻ってきたのだった。
「どうしました、マルスさん」
「な、なんでも…『人を眠らせる技術』があるとかで…ええい、俺も何を言っているのか分からないんですが!」
「人を眠らす…?」
「麻酔、と言います」
髷を結った、二十代半ばの若者であった。
「初めまして、お噂はテオ殿より聞いておりました。先生がペニシリンの抽出を?」
「セドリックと申しますわ。あなたは?」
「ご挨拶が遅れたこと、伏してお詫び申し上げます。私、アキツより参りましたリョウアンという医師にございます」
そうして、リョウアンが丁寧に頭を下げた。
つづけて、テオとおタツが入室する。
「あー、あたいも初めまして、だね。以前マルスと組んで仕事してた、テオっていうんだ」
「あたしはタツ。おタツって呼んでくれよ」
予定外の登場人物に、ステファニーがそっ、とチョコレートが入った箱を仕舞った。何しろ五個しか入っていないのだ。
「とりあえず、お茶をしますかね」
マルタがカップを用意して、車座に座る。今日のお茶はマルタが調合したハーブティーだ。
「なんだか不思議な香りのするお茶だねぇ」
おタツが首を傾げた。
「これは…柑橘の香りですね。初めての香りだ。柚子とも蜜柑とも違うような」
「檸檬でさ、リョウアンの旦那」
「ほう、これが。文献で読んだ限りです」
「こっちじゃ、この飲み方が一般的なのかい?」
おタツが尋ねた。
「いえ、時折香りを変えるために調合してるんでさ」
「へぇ…。アキツで売ったらいい商売になりそうだ」
「商売?」
マルタが首を傾げる。
「おタツは茶屋の娘なんだよ」
テオが補足した。どおりで、とマルタが頷く。その茶屋の娘がはるばるアリアまで来た理由がいまいち分からなかったが。
「とりあえず本題に入ろうぜ。えっと…そのリョウアン先生、ってのが人を眠らせるとかで」
マルスが仕切りなおした。
「はい。麻酔という技術です。人を切る治療をせざるを得ないとき、人の意識を失わせ、痛みを感じずに切ることができます」
「実際、あたしも経験したんだよ」
テオが平らになった左胸に触れた。
「おかげで、立派な乳房を失っちまったけどね。その代わり、命を手に入れた」
「そうだよ、テオ。お前の左胸、何があったんだ?」
マルスが尋ねた。
「岩だよ」
「がん?」
マルスが首を傾げる。
「腫瘍が身体を蝕む、不治の病ですね」
セドリックが応える。その通りです、とリョウアン。
「テオ殿は左胸を岩に侵されておりました。そのため、アキツにて麻酔手術を行い、命を繋ぐ処置を行った次第です」
「そんな技術が…」
セドリックが絶句した。あの、とステファニーが尋ねる。
「私、麻酔って初めて聞いたんですけれど…。先生はご存じだったんですか?」
「アリアではまだ研究中の…概念でしかないわ。今は切るとき、我慢するしかない、が実際なの。でも、余りの痛みにショック死する人が絶えなくて。癌を切れば治ることがあるらしい、けれど、実際は手術に耐えきれない場合が多いの」
「そ、そんな…先生が知らないことがあるなんて…」
「私もまだ浅学の身よ、ステファニーさん。でも、どうしてアリアへ?」
はい、とリョウアンが頷いた。
「こちらには、万病を治し化膿を止める、ぺにしりん、なる秘薬があるとお伺いしました」
「ペニシリンでしたら、確かに」
マルタがす、と立ち上がり、茶色の瓶を取り出した。
「こちらでさ」
「これが…」
「つまり、術後の化膿止め…ですね」
「その通りです。そもそも、なぜ化膿するのか、私どもは理解していないのですが」
「…顕微鏡」
コレットがぽつり、と述べた。
「アリアには、顕微鏡がある…」
「はい、テオ殿にお伺いしました。なんでもフランソワ殿が持つ顕微鏡が、世界最高の品質であるとか…?」
「まぁ、ふふ」
セドリックが笑う。
「それ以上の品質が、こちらにございますわ。コレットさん」
「はい」
コレットが、開発したばかりの新型光学顕微鏡を手に取った。
「これ」
「これは…なんと!」
リョウアンが接眼レンズを覗いた瞬間に絶句する。
先ほどまで研究会で見ていた、鉄の組織模様が浮かび上がったのだ。
「こ、これは…浅学の私では理解できませぬが、恐ろしい視界であることは理解できます」
「こちらを作ったのが、ここにいるコレットさんですよ」
「なんと…この年端も行かぬ少女が…。恐れ入りました」
「いいえ、私も。でも、ペニシリンの素となるアオカビに、化膿の原因となるブドウ球菌の繁殖を抑える効果があることを突き止めたのはフランソワさんですよ」
「なんと…では、やはり会いに行かねば。いま、コンスタンなる国にいるとか」
「ええ、その通りですわ。ですが、それなら途中でシャルルに寄られることをお勧めします」
「シャルルとは」
「聖女様の生まれ故郷だよ。あたいもそこの出身だけどね」
テオが言った。
「そこに、リンドバーグ先生がいます。高名な医師で、ペニシリンの共同研究者ですわ。あいにく、フランソワさんは自然哲理の学者であって、医師ではないのです。臨床データならリンドバーグ先生の方が詳しいかと」
「なるほど。シャルルへはどのように?」
「あたいに任せな。シャルルは庭みたいなもんだからさ」
「…なら、ギルテニア経由にすべき。面白いものが…沢山ある…」
コレットが補足する。
では、とリョウアンが離席しようとした時である。
おタツが、ある冊子を眺めていたのだ。
「おタツ殿、何か…?」
「ちょっと待っとくれよ」
おタツが冊子を置くと、おもむろに顕微鏡を覗きこんだ。
「ああ、なるほど…この冊子は鉄と炭素、ってやつの比率をまとめたやつかい?」
「え、なんで分かったんですか?」
ステファニーが首を傾げた。確かにそれは、以前ニコラスに依頼されてまとめた合金比率の一覧である。
「この鉄は…ちょいと待ってね」
さらさらとメモを取る。
「図形問題と同じだね。ええと…この冊子に近いやつは、鉄九割九分五厘、炭素五厘、ってやつかい?」
「はい!?」
ステファニーが素っ頓狂な声をだした。
「え、なんで、どうやって?」
「なんでって、図形と同じじゃないか。視界が円になってるだろ。濃い部分が散らばっているから分かり辛いけれど、升目に分解すればいいじゃないか。あとは升目の数を数えるだけさ。簡単だろ?」
「何言ってるのかわかんない! マルタ先輩、分かります!?」
「い、いや…何がなんだか…」
「少し簡略化したから、正確ではないけどさ。濃い部分の面積を求めりゃいいんだろ。長さは分からないが、比率は変わらないからね」
「あの…おタツさんはどこかで数学を?」
セドリックが尋ねた。いや、と首を横に振る。
「算額を少し、アキツでね」
「ち、ちょっと待ってください! に、ニコラス先輩を呼んできます!」
「なんだい、一体」
「いえ、その…私たちの研究室で詰まっていたところを瞬時に解決されたので…あの、よければ一週間ほど、逗留いただけませんか? 宿泊施設は学内のものをお使い頂いて構いませんので」
「あたしは構わないよ。ここも面白いものが沢山ありそうだね」
「ええ、私も急ぐ旅ではありませんので。テオ殿は?」
「あたいは道案内だからね。いつでもいいよ」
しばらくして。
「ニコラス先輩を呼んできました!」
「な、なんか知らへんけど、天才がいるって聞いたで! こ、これとかわかるんか?」
ニコラスが差し出したのはモリブデン鋼である。
「ああ、ちょいと複雑だけど分かるよ。簡易的にするとこんな感じかな。三種類あるね」
おタツが、さらさらと比率を出していく。
ニコラスが目を丸くした。
「て、天才がおる…」
「へぇ…。組織模様を図形問題にする発想は…あたしにはありやせんでした」
マルタもまた、脱帽したのだった。




