第213話 テオ、おタツ、そしてリョウアンがアリアへ旅立つ
翌日、テオは熱を出した。
リョウアンが診察する。手術跡に膿は無い。解熱の効果がある芍薬と甘草を少し増やす。
おタツが泊まり込みで看護に入った。
食事は粥を中心に、胃の負担が少ないものを。
三日目、平熱に戻る。
食事は粥に、魚を加える。
おタツが買い物に。
四日目
「はい、退屈だろ」
おタツが書籍を手渡した。
「ああ、ちょうど退屈してたんだ。これはなんだい?」
「絵草紙だよ。富嶽三十六景、全部ホクサイが描いたもんだ」
「すまないね、おタツ。これがあれば退屈しないや」
「貸本だからさ、退院したら返さないとだけど」
「そうだねぇ」
テオが少し考えた。資金的には余裕がある。
「聖女さまの役に立つかも知れないね。退院したら、いくつか買っていきたいね」
「それなら、漢方の本かねぇ。医学書はいろいろあるけれど」
「それもだけど、聖女さまは油圧がどうの、言っていたような」
「ゆあつ?」
「あたいもわからないけどさ、なんだかすごい機械みたいだよ」
「機械なら、そうだねぇ。機巧図彙かねぇ」
「からくり?」
「機械の人形だよ。算額の勉強になると思って、一度読んだんだよね。あたし、手先が不器用だから作れなかったけど、構造は理解したよ。鯨の髭を動力にしてさ、歯車を組み合わせて、まるで人みたいに動かすんだ」
「なんだか聖女さまのお話を聞いてるみたいだねぇ」
「そうかい。聖女さまについていけるかな、あたし」
「前から言ってるだろ」
テオが笑った。
「おタツなら、聖女さまにも負けないさ」
七日目。
「うむ、術後良好じゃな。これなら退院できるじゃろ」
セイシュウの診断を経て、リョウアンが胸を撫で下ろした。
「ありがとうよ、先生。これであたいは天寿をまっとうできるってわけだ」
「絶対ではないがの。人の命とはそもそも儚いものじゃ。日々大切に生きられるよう」
「ああ、そうする。それじゃ、あたいはアリアに戻ろうかね。ああ、その前にいろいろ買っておきたいや。アキツの本、聖女さまが喜ぶだろうからねぇ」
「その点なのですが、テオ殿」
リョウアンが両手を畳に置いた。
「その旅程、我らもご同行させていただきたく」
「どういう事だい?」
「聖女さまに会ってみたいのさ。あたしとリョウアン先生をアリアに連れてってくれ」
おタツが言った。
「そりゃ、あたいとしては大歓迎だけど。長旅になるよ」
「もちろん、覚悟の上さ」
リョウアンとおタツが顔を見合わせて、頷いた。
「実はアキツは、海外出国は厳しく制限されております。入国は比較的緩やかになったのですが」
「そうなのかい?」
「はい。ですので、手続きに一ヶ月ほどいただきたく」
「そりゃ、構わないが…」
「つきましては、テオ殿の調書を頂けませんでしょうか」
「なんだい、それは」
◇◇◇
要するに、海外出国の正当な理由が必要らしい。
特に認可が下りやすいのは理学習得を目的としたものらしい。
「りがく?」
「アリアのことだよ。リガク」
「アガクじゃダメなのかい?」
「それだと苦しんでるみたいじゃないか」
確かに、と妙に納得する。テオは読めなかったが、アキツ語ではアリアを亜理亜と書くらしい。
「で、何を話せばいいんだい?」
「フランソワ様についてを、できるだけ詳しく頂きたく」
「いいねぇ」
に、とテオが笑った。
「聖女さまのことなら、いくらでも話せるよ」
◇◇◇
「話、つけてきたよ」
青洲庵に戻ってきたおタツは少しくたびれている様子だった。
テオの調書から二日後、盛夏の盛り。
青洲庵は変わらず、少し暗くて、湿り気があって、漢方の香りがした。
「ご苦労様でした」
リョウアンが労う。おタツは旅装だった。
「出国まで、いさせてもらえないかな。手伝いはするよ」
「それは…もちろん」
絶縁してきたのだろう。
リョウアンは察して言わなかったが、おタツはどこか吹っ切れたような顔をしていた。
「あのさ」
おタツが口を開いた。リョウアンが静かに頷く。
「いつでも、戻ってこいだってさ。あたし、二度と江戸の土を踏めないかもしれない、くらいの覚悟なのにさ」
「いい、ご両親ですね」
「気が触れて、行方知れずになった事にするって。死んだ事にしたら、戻ってこれないだろ、って」
おタツが手拭いを瞳に当てた。
「ホント、いい親だよ」
「はい」
「さ、湿っぽいのはこの辺にしとこうか…調書、手伝うよ」
「よろしくお願いします。私では医学以外が不得手で」
「えっと、顕微鏡と…聖女さまが研究してるっていう、油圧機巧だね。油圧の方は情報が少ないけど、多分滑車の原理に近いと思うね」
「滑車の原理と言いますと」
「距離と重さは反比例するのさ。算額で計算したよ。でも、ホントに油圧なんかあったら、この国が変わっちまうかもね」
おタツがサラサラと執筆していった。主に工学・光学分野である。
リョウアンはぺにしりん、そーせいじ病を中心に、医学・薬学分野を。
何十ページにも及んだ調書を請願書に落とし込んでいく。
そして、一週間後。
◇◇◇
「お城に行くのかい? あたいはアリアのお城も行ったことがないけど」
テオが尋ねた。この一週間、テオは街中を歩き回っては書籍を買い、そしてありとあらゆる場所をスケッチしていたのである。
「流石にお城には行けないよ。アキツバシにお奉行さんがいるからさ、そこで申請するんだよ」
おタツとリョウアンである。
アリア渡航の許可申請であった。
「其方が案内人か」
正装をきっちり着こなした武士が応対した。
申請書を出し、一言二言の質問。主にテオに対してだ。
目的はなんだ、とか、本業はなんだ、などと。
「絵描きだよ、なんなら描こうかい?」
「いや」
奉行が首を横に振った。
「形式的なものだ。おぬしの絵はアサクサで見た」
問答はそれだけだった。
無事に受理され、決裁を待つ。
「何を気にしてたんだい、あの奉行さんは?」
テオが尋ねる。実は、とリョウアンが苦笑した。
「エドが開かれた二百年ほど前、アキツの民を奴隷にする南蛮商人が多数おりまして。その確認です」
「呆れちゃうねぇ、あたいが奴隷商人じゃないか、確認してたのかい?」
「そうだよ、なにしろあたし、アリアじゃ美人なんだろ?」
おタツがおどけた。
「違いないね、安心をおし。あたいがしっかり守ってやるからね」
「頼りにしてるよ。それじゃ、二週間ほどは待ちになるけど」
「船は手配しといたよ。アリア船は三週間後だ」
「ありがとうね。にしても、アリアの商人も増えたねぇ」
「アキツの化粧品はアリアでも人気だからね。そうだ、聖女さまに一つ買っていこうかね」
「聖女さまって、お若いんだろ?」
「ああ。おタツと同じくらいじゃないかね」
「そんで、お公家さまらしいよ」
おタツがリョウアンを振り返った。
「それは…恐縮ですね。一張羅の袴も持っていきましょう」
「あたしも着飾った方がいいかね?」
「いや、聖女さまは気にしないよ、でも、そうだねぇ。一つ、あたいが買ってやるよ」
「そんな、悪いって」
「モデル代だよ、実はジュサブローから金子をたんまりもらってさ。まだ売れてるらしいよ」
「なんだか、照れるねぇ」
それでは、とリョウアンの案内でアキツバシのエチゴヤなる反物店へ。最初は訝しんでいたが、テオが小判を出すと態度が豹変した。
おタツに似合いそうな、桃色の反物を仕入れる。
「馬子にも衣装っていうね」
「何言ってんだい、美人だよ。な、リョウアン」
「は、い、いえ…私は医学を志しておりまして」
「何真っ赤になってんだい」
若いってのはいいねぇ。
そういや、マルスは勉学に励んでいるんだろうか。身体の関係はあるが、こんな風に初々しいときめきを感じたことはない。いや、あいつに期待するだけ無駄だけど。
やがて、足は自然に絵草紙屋に向かっていた。
ラベルが案内した、画狂卍やオウイ、それにジュサブローと出会った、アキツで初めて訪れた場所である。
「おう、回復したか」
ちょうど、卍がいた。オウイも一緒である。
「ああ、今度挨拶に行こうと思ってたんだ。オウイのおかげで、こうして生き延びたからよ」
「そいつは良かった。で、どうだい。もう一番、やるかい?」
「いいねぇ、やろうか。あたいもそろそろ、国に帰るからさ」
ほう、と卍が意外そうな声を出した。
「ホクサイの弟子にはならんのか? 今なら紹介してやるぞ」
ふん、とテオが鼻を鳴らした。
「いいよ、もう教えてもらった」
「ほう?」
卍の瞳が怪しく光る。
「あんただろ、卍の爺さん。葛飾北斎、ってのは」
カッカッカ、と卍が爆笑した。
「わかったか?」
「ああ。名を変えても、絵の癖は変えられないもんだね」
「ほっほ、そうでもないぞ。おぬしも名を変えてみると良い。全て新しく、知らぬものに気付くかも知れぬ」
「そうかもねぇ」
そうだね、それも一興かね。
テオがそう思うと、暖簾から人影が現れた。
「今、もう一番やるって言ったか!?」
ジュザブローである。
オウイとテオが顔を見合わせた。
「もちろんだよ!」
その絵は、今も国立美術館に展示されている。
対になった、世界で最も著名な肉筆画であった。
そして、秋口。
長月の頃。
テオ、おタツ、リョウアンの三人が、ヨコハマを出航した。




