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第211話 青洲庵

 蝉時雨、アキツ。

 第三番勝負から、一週間が過ぎた。

 倉屋の軒先から、ぼんやりと道ゆく人を眺める。

 ジジ。

 倉屋の庇から、蝉が飛ぶ。

 途切れることなく鳴き続ける。

「やかましいねぇ…」

 アリアにもセミはいるが、ここまで騒がしくはない。ミーンミーン、ジジジジジジ、ジージージージー、ツクツクボーシ、ツクツクボーシ…。

 ほんとうに騒がしいね?

 テオがため息。少しは落ち着いて考えたいのだけどねぇ。


 おタツは不在だった。温くなった茶をちびりと飲む。

 ガン、と言うらしい。放って置くと全身に腫瘍が回って死に至る死病であるらしい。

 もし、聖女さまならこのガン、ってやつも治せるんかねぇ。それこそ、なんと言ったか。ペニシリンとかいう、なんでも治せる薬なら。

 アリアに戻るか。

 だけれど、三ヶ月はかかる。その間に、このガンがどうなるやら。道の半ばで果てるかもしれない。

 悔しいと、思う。

 ようやく、絵師の極みへの道筋が見えたってのに。今なら、描ける。

 聖女さまを、正しく描ける。真正面から。

 描きたい、と思った。

 憧れ続けた彼女を。

 聖女フランソワの肖像画を。

 あたいが死ぬ前に。

 なら、一か八か…。


「なーに、しけてんだい」

 どうも、ずっと俯いていたらしい。見上げると、逆光になったおタツが立っていた。

「ああ、すまないね…」

「はい」

 小袋を手渡された。巾着にしては小さいけれど。

「なんだい、これ」

「お守りだよ、山王さまの。算額を奉納してきたついでさ。快癒のお守りだよ。ちゃんとお祈りしてきたからさ」

 おタツがテオの隣に座った。

「そんなガンなんて、治っちまうよ。山王さまのご利益は本物だからね」

「そうかい…。ありがとうねぇ」

 赤い小袋、お守りを見つめる。

 そうだねぇ、これがあれば、いけるかもしれないねぇ。

「あたいはアリアに戻ろうと思う」

「そうなのかい?」

「ああ、死ぬ前に…どうしても聖女さまの肖像画を描きたくてね」

「アリアだね…いつか、行ってみたいねぇ。フランソワ、って聖女さまにも会ってみたい。えらい学者さんなんだろ?」

「ああ、聖女さまは科学で世界を変えてくださるんだ。古い因習とか、教会とか、政治とか。そういうのを全部、正しい道に導いてくれるお方なんだよ」

「楽しそうだねぇ。あたしにもそういう、特別な才能があればねぇ」

「なに言ってんだい」

 テオは思わず首を捻った。

「おタツには才能があるじゃないか…算額ってのがね」

「趣味だよ、あれ」

「いや、違うね。あたいは聖女さまがなにを言ってるのか、全然ちんぷんかんぷんだった。おタツなら、きっと理解できるし、聖女さまのお役に立てるはずだよ。あたいは絵を描くことしか能がないからねぇ。聖女さまの御姿を描くしかできないのさ」

「そこまで言われると、嬉しいねぇ…。フランソワさま、か…」

 おタツがぼんやりと空の先を眺めた。遠くに富嶽の影。もうもうと、入道雲。

 明日には、ここを出よう。

 あたいの命、いつまで保つかわからないしね…。


 その時だった。

 一人の女傑が、大股に現れたのだ。

「テオ、今からあたしについてきな」

「どういうことだい?」

「ちょいと時間がかかったけどよ、手配してやった」

「何をだい?」

「医者だよ。セイシュウ先生っていう、アキツ一…いや」

 オウイが、ニヤリと強気に笑う。

「世界一の名医だよ」

 

◇◇◇


 以前におタツと二人で訪れた大はしを渡り、フカガワなる場所に世界一の名医がいるらしい。

「いやあんた、本当についてるよ」

 オウイは上機嫌である。テオにしてみれば、聖女さま以上の医者がいるもんかい、と半信半疑であるのだが。

「セイシュウ先生はキシュウの人でね、普段はエドにはいないんだが…ちょうど巡察に来てたらしいよ。これで万事解決、ってわけさ!」

「キシュウって、随分と遠いところだねぇ」

 おタツが目を丸くした。テオの付き添いである。

「そんなに遠いのかい?」

「そうだよ、別のクニみたいなもんさ。上方より更に遠いんだろ?」

「そいつは大仰だねぇ。そんなにすごいのかい?」

「すごいもなんも」

 オウイが振り返った。

「あんまりに名医だからさ、お弟子さんだけで二千は下らないらしいよ。ほら、ここだ」


 暖簾にはシンプルに、青洲庵とある。

「ごめんよ、ホンジョのオウイだよ」

 潜ると、なんとも表現し難い薬の匂いがした。

「お待ちしてました、オウイの姐さん」

「おうおう、リョウノスケじゃないか。どうしたんだい、立派になったねぇ」

「今はリョウアンですよ、姐さん。医号を頂戴しまして」

「そりゃ立派だ。紹介するよ、ホンジョの貧乏旗本でさ、サエキリョウアンってんだ」

「どうぞリョウアンとお呼びください。こちらがテオさん?」

「ああ、しっかり診てやってくれ」

 リョウアンなる医者はまだ二十の半ばのように見えた。大丈夫かねぇ。テオは正直に不安である。

「先生、患者をお連れしました」

 奥の診療室では壮健な医師が一人。

「お待ちしておりました。さ、どうぞ」

 勧められて、丸椅子に腰を下ろす。この医師はゲンアンと言うらしい。

「リョウアン、診断せい」

「はい。脈をとらせていただきます」

 リョウアンがテオの左手首に触れた。リョウアンが瞳を閉じる。集中しているのだろう。なんだか落ち着くねぇ。テオがそう思っていると、うん、と頷いた。

「脈は正常ですね。では、口を開けてください」

「口を?」

「はい」

 なんだかわからないままに口を見せた。舌を出せ、と言うから言う通りにする。続けて。

「上半身を脱いでください」

「な…」

 流石に知らない男の前で上裸になるのは気が引ける。

「いいから早くおし、生娘じゃあるまいし」

 オウイに言われて渋々脱いだ。最近、ハリが弱くなってるから、あんまり見せたいもんじゃないんだが。

 その、少しくたびれた身体をリョウアンは丹念に眺めた。

「しこりに気づいたのはいつ?」

「ああ…エドに来たくらいだから、一ヶ月と少し前かね」

「これですね。触れさせていただきます」

「ああ」

 左の乳房、触れたところに違和感。

「確かに岩ですね。ですが、間に合いそうだ」

「そうなのかい?」

「ええ。発達した岩は私たちも手に負えません。このままご入院いただきます」

「どうするんだい? 薬でも飲むのかい?」

「いいえ」

 リョウアンが真剣な目でテオを見た。

「切ります」

「切る?」

「はい、岩を切り、取り除きます。ですが、絶対ではありません。体力の無いもの、高齢のものは手術に耐えられず、亡くなることもあります。私の診察では、テオさんは耐えられると考えました」

「切るって…あたいの乳房を切るのかい?」

「はい」

「そんなん、死んじまうじゃないか」

「ですから、麻酔をします」

「ま、麻酔?」

「はい。眠っていただきます。痛みも感じません。目覚めた時には、全て終わっています」

「そ、そんな魔法みたいなこと…」

「魔法?」

 おタツが首を傾げた。


「南蛮の方じゃ、幻術のことを魔法と言うようじゃの」

 一人の老人が入ってきた。白髪で、伸ばしっぱなしの白髭。一目でわかる。只者ではない。後ろにはリョウアンよりも若いお弟子が二人。

「セイシュウ先生、診察は終わりましたか」

 ゲンアンが尋ねた。

「うむ。おシズの容態が良くない。コウライニンジンはあるか?」

「はい、充分に」

「煎じて飲ませい、日に二度だ」

「畏まりました」

「それで、其方がテオか?」

「あ、ああ」

「リョウアン、報告せい」

「はい。左乳房に一寸ほどの岩、初期と思われます。脈拍、顔色は正常につき、手術を行いたく」

「ふむ。テオよ、触れるぞ」

 目を見られた。それから、喉に触れる。

「明日じゃな。準備せい」

「はい」

「ち、ちょっと待ってくれ、その…手術ってのは、なんなんだ?」

「乳房を切る。女の大切なものと引き換えに、お主は命を得る」

「こ、このままだと?」

「保って三年。だが、一年も経てば耐えきれぬほどの痛みに襲われる。自害するものがいるほど」

「そ、そんなに…恐ろしい病なのかい、岩ってのは」

「そうだ。だが、今なら間に合う」

「テオ」

 おタツがテオの手に触れた。

「あたし、あんたには生きていてほしいよ」

「ああ、あたしもだ。まだあたしとの勝負、ついてないだろ」

 オウイも力強く頷いた。

「わ、わかった…。受ける。手術、受けるよ」

 セイシュウが頷いた。

「リョウアン、仔細任せる。儂が立会う。執刀を成功させてみよ」

「わかりました!」

 リョウアンがそこで、力強く頷いた。


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