第199話 ムラト王子、覚醒す
「ああ、や、やめろ! スレイムっ! あああああ!」
悪夢にうなされて、ムラトが飛び起きた。
ダリアン戦死から二週間。
ムラトは未だ、フリスポリを動けずにいた。
首元をさする。首はまだ繋がっていた。近衛が不安そうに天幕を覗き見た。
「水だ!」
「は、はっ…」
近衛が持ってきた水をがぶ飲みする。
眼窩は落ち込み、頬はげっそりとこけ、頭髪はみるみる白く染まりつつある。
「う、かは」
ほとんど何も食していないのに、胃酸ばかりが込み上げる。よろけるように天幕を出て、外で吐いた。
兵らが、閑散としているように思える。
まだ、夜明け前だった。ふらふらと、まるで夢遊病者のように頼りなく歩く。
実際に閑散としていたのは間違いがない。
帝国軍正規兵と言っても、その出自は様々だ。アカデミー卒の魔導士や貴族の子弟らは秩序を保っているが、兵卒らには農民出身も多い。
そもそも9月後半の侵攻としたのも、農繁期を避けるべし、というダリアンの献策に従ったものだった。
クアイズが率いる傭兵団はとっくに解散しており、精算金を分捕るとさっさと姿を消してしまった。それを見て、兵卒らがぽつぽつと故郷へと帰り出したのだ。すでにその数は1000を超える。止める貴族らもいた。いたが、ただ夜間の逃亡者を増やしただけだった。
最早統率もなく、自然崩壊を待つのみ…。それでも敵の猛攻を受けていないのは、コンスタン軍があまりにも少数であったからだ。士気低しと言えども、5000で未だ4万近い軍に飛び込むほどの蛮勇はヨハンには無い。だからこそ、ムラトは毎夜うなされながらも、生命の危機には陥っていなかったのだが。
「ダリアン、ダリアンよ…我はどうすれば、どうすれば良い…」
ダリアンの遺骸が打ち上がった河岸で、まるで平伏するように膝をつき、ムラトは頭を垂れた。
悪夢は最早何度も見た。
敵将ヨハンにその槍ではらわたを突かれる夢。
魔女の風魔法で全身を切り裂かれる夢
祖国で貴族らの嘲笑が響き渡る夢
バジット国王陛下に失望される夢
バスラ公とシェーラから離婚と絶縁を告げられる夢
何より
スレイムに処刑される夢。流刑、斬首、火炙り、名誉ある自害。
何度も殺され、何度も飛び起きた。
「戻れぬのだ…ダリアン、助けてくれ…。勝たねばならんのだ…勝たねば…」
その時であった。
『ムラト陛下…』
声が、聞こえた。
「だ、ダリアンか!」
陛下、と呼ばれたことには気付かなかった。
『然り…コンスタンは非情にもヤーヴェの眷属たるアリアに魂を売り…豊富な支援を持ってムラト陛下必殺の経済封鎖を無効化いたしました…ルグ神もお怒りにございます…』
「お、おお! ダリアンよ! 冥府から我に声をかけているのか!?」
『神はお怒りにございます…神に叛逆せしコンスタンは陛下の手によって滅ぼされなければなりませぬ…これは陛下の天命にて…』
「そ、そうじゃ! その通りじゃ! だが…手がない、手がないのだ…ダリアンよ、教えてくれ! 朕はどうすれば良い!?」
いつしか、半ば無自覚に…ムラトは皇帝のように振る舞っていた。
『必殺の策がございます…』
「そ、それは…?」
『アテネアを奇襲し、アレクセイの首を取るのです…母なる海より』
「そ、そうか…! 対岸のイズミルより軍団を出し、一気にアテネアを滅ぼすのであるな!」
『陛下の覇道に栄光在らんことを…。滅ぼすのです、ムラト皇帝陛下…反逆者コンスタンとその王、アレクセイを…滅ぼすのです、滅ぼすのです…』
狂喜乱舞しながらムラトが陣へと戻っていった。
その背後で、漆黒のローブに身を包み、表情をそのフードで隠した初老の男が…。
口元をにやり、と歪めた。
◇◇◇
そのムラトの変わりぶりに、将官士卒は誰も彼もその目を疑った。瞳は爛々と輝き、血色悪く沈んでいた頬には赤みがさしていた。何より。
「食事を持て!」
ここ一週間、ほとんど何も口にしていなかった男が肉を食い、ワインを上機嫌に飲み干し、愉快愉快、と笑い出したのである。
気味悪がったのは近衛兵らの方であった。とうとう気でも違われたか。そんな噂話が囁かれる。だが、至ってムラトは冷静であった。相変わらず上品な仕草で口元を拭ったムラトは、軍議を招集した。将官らが一同に会する。全員の顔を眺めて、ムラトは満足そうに頷いた。
そして、張りのある、凛とした声で告げたのだ。
「アテネアを急襲する。邪教ヤーヴェの手に堕ちたアテネアを、正しきルグの神の元に戻すのだ。これは我らにしかできぬ使命である。思えば!」
ドン、とムラトが机を殴りつけた。
あまりの豹変ぶりに、将校らはただ息を呑む他にない。
「そもそも傭兵などという不埒なものに先陣を任せたのが失策であった。確かにカバラは固い。それは認めよう。そして、ダリアンを…」
そこでぐっ、と拳を握りしめた。あまりの力に、拳が青白くなり、やがてつつ、とその合間から血が流れるほどに。
「ダリアンは、正に忠義の徒であった!」
絶叫した。
喉が枯れんばかりに、叫んだ。
「『朕』の統治に必要不可欠な人材であった! 我が帝国の要であった! 我らは喪った、柱を喪ったのだ! 貴殿ら!」
全員を、睨みつけた。
「悔しくはないのか! ダリアンを奪った邪教どもを! 許せるのか、忠義の徒を奪ったものを! 朕は許さぬ! このままではダリアンはヴァルハラには征けぬ、我らが地上で燻る限り、神は決して赦しはしないのだ! ダリアンの魂を救済するのだ! そして、朕はなんだ! 朕は大陸を統べるべく生まれし彗星、ムラトである! 皇帝の名において命ずる! アテネアを滅ぼし、異端たるアレクセイの首級を挙げてダリアンの墓前に掲げるのだ! 諸君、道はすでに開かれている!」
ムラトが、一直線に南方を指し示した。
「母なる海だ、全て生きとし生けるものの源たる海である! イズミルより大艦巨船をもってエーゲ海を渡り、アテネアの腑を突き破るのだ! 勇者よ、立て! 騎士よ進め、戦士よ戦え! これは聖戦である! 不退転の覚悟で海原を突き進み、朕の覇道を共に支えよ! 征くぞ、アテネアへ!」
その魂の演説は、すべての将に。
そして、兵卒らの魂に火をつけた。
「アテネアへ!」
老将が涙した。とうとう、ムラト王子が覚醒された!
「アテネアへ!」
ダリアン様の弔い合戦だ!
「アテネアへ!」
邪教を滅ぼせ!
「アテネアへ!」
我らの覇道を見せつけよ!
「アテネアへ!」
聖戦だ!
「アテネアへ!」
聖戦だ!
「アテネアへ!」
聖戦だ! 脇目も振らずに突き進め。
帆を張れ、大海原を突き進め。
「アテネアへ!!」




