第192話 北部戦線にて
北部戦線防衛隊。
「ヨハン辺境伯閣下! ビザン帝国軍が国境を越えました!」
うむ、とヨハンは頷き、斥候の報告を纏める。既に国境にあるフェルスの住民避難は済ませている。フェルスはコンスタンの北東端にある、旧ビザンティオン王国と国境を接する町だ。
「グレキア方面は?」
「動きありません!」
想定通りである。国境の大部分を接する旧グレキアからの侵攻はない。
つまり、ビザンの総力ではなく、あくまでムラト第一王子の単独行動とみて確実だろう。第一、グレキア方面は軍の動きが無かったのだ。活発な演習を行っていたのはあくまでムラト配下の5万程度である。それに傭兵5万を加えて10万。これがヨハンの把握する総兵力である。
今、ヨハンは国境から100キロほど離れた都市、カバラに駐在していた。
フィヨルドからの援軍500も同じである。そして、コンスタン王国軍が2000。合計2500名である。
他に2500名を別動隊として配置していた。北部防衛軍、総勢5000名である。
10万対2500。話にならない兵力差である。だからこそ、北東部の村々は捨てざるを得なかったのだ。山がちなコンスタンではあるが、北東部および中部には比較的なだらかな土地が広がっていた。その土地を守り切る余裕は、今のコンスタンには存在しない。
そして、カバラこそ天然の要塞であった。
山と海に囲まれた要地である。大軍の展開は不可能。北部は鬱蒼と茂る標高五百メートルほどの山地が広がり、海上には『視察中』のアリア第四艦隊が配備されている。
だが、カバラを抜けると状況は一変する。コンスタン唯一の大平原、テッサロニキ平原が広がるのだ。ここを押さえられてもアテネアまではいくつかの山脈が南北に走っているが、継戦能力は完全に喪失すると言っていい。なにしろ、アテネアに近づけば近づくほど、耕作適地が失われていくのだ。
ただでさえ不足気味の穀物生産が、完全にゼロに近い状態に追い込まれる。
つまり、カバラこそビザンに対する絶対防衛線であった。
だが、ビザンからの補給が止まって以来、ヨハンはコンスタン北東部について徹底的な調査を行っていた。無論、測量士エルフィンの力が大きかったことは言うまでもない。
「フェンリル・ベルクに似た地形だ。お主ら、得意だろう?」
おう、と歓声。
フィヨルド亡命軍からの増援はすべて、フェンリル・ベルクで自らが鍛え上げた氷結重装歩兵の精鋭中の精鋭らである。
「俺は違うけどな? シオン、お前はどうなんだ」
増援軍を率いていたガストンがぼやく。
「俺の出身、アリアのシラカ山脈なんで…」
「じゃ、余裕だな」
「はい、余裕です」
◇◇◇
「ふむ、順調だな」
ムラト第一王子が満足するように頷いた。
9月10日に侵攻を開始して以来、コンスタン側からは抵抗らしい抵抗もなく、順調に進軍を進めていたのだ。まるで演習のようだ、とムラトは思う。
ただ、不満は出ているのだが。
「殿様よぉ」
進軍を始めて一週間後。傭兵団の隊長であるクアイズが明らかな不満を口にした。
「お宝どころか、麦一つ、女一人見当たらねぇぜ。略奪できねぇってどういうことだ?」
そう、ムラトの想定外はコンスタン側が避難を完璧に終わらせていたことであった。
どの村、どの集落を落としてももぬけの殻。クアイズの言う通り、残されたものは何もなかったのだ。本来なら収穫を終えた穀物類が倉庫に山積みになっているはずなのだが…。
「人が消えるはずがあるまい。そのうちに避難民らにも追いつけるはずだ」
「話がちげぇ、って言ってるんだよ」
全く、と内心思う。
傭兵というものは、こうも粗雑で不躾なものなのか。
私が皇帝に即位したら、傭兵などという不届き者らは即座に廃止すべきであろう。
「ムラト王子殿下」
配下のダリアンが申し出た。
「酒と、それから洗濯女がおります。クアイズ、フリスポリに到達後、臨時報酬を与える故不満を静めるように」
「娼婦は趣味じゃねぇが、それで勘弁しといてやる。フリスポリだな、忘れるんじゃねぇぞ」
クアイズが退出した後で。
「洗濯女など、不要と考えておったが…お義父上のご慧眼の通りであったな」
「は、傭兵というものはそもそも下賤なものですからな。下賤には下賤を当てるべきかと」
ダリアンが頷く。嫌悪感はあるが、それを言っても仕方はない。
「軍略であるが」
こういう時は話を変えるに限る。
ムラトはそう思った。
「カバラは容易に落とせようか? 天然の要害と聞くが」
「密偵の情報では、数千の兵が駐屯するのみとのこと。力攻めにて容易に陥落しましょう。ですが、フリスポリにて数日軍を整えるべきと考えます」
フリスポリはカバラから10キロほど手前にある小都市である。ここも避難が済んでいるらしい。
「数千であれば力押しですり潰せるのではないか?」
「どうもアリア海軍がうろついているようで」
「アリアが?」
ムラトが顔をしかめた。
「コンスタンに味方するか?」
「そこまでは…アリアも我が帝国と容易に戦端を開くとは思えませぬ。ただし、用心は必要かと。それに、城攻めの前に傭兵どもの士気を上げる必要がございます」
ムラトが再び顔をしかめた。
洗濯女の話に戻ってしまったではないか。
「あい分かった。フリスポリまであと二日だろう。軍容を整え、そうさな、ハーベストムーンの祝祭の後に攻撃を開始するのはどうだ」
「時期的にもよろしいかと。では、そのように伝達して参ります」
「任せた」
一人残されたムラトが、ふう、と溜息をつく。
軍というものはどうも苦手だ。
粗野で、下世話で、秩序もない。
やはり私は宮廷で政治を行う方が向いている…。
そう思ったのだ。
◇◇◇
9月20日、コンスタン北東部
アレクサンドル沖。
「お頭ぁ、上陸したらお宝たんまりだぜ」
バルトロメがマストからするすると降りてきた。相変わらず、その巨体からは想像ができないほどの身のこなしである。
「だよな~。衛兵くらいしかいないもんな」
アレクサンドルは北東部では一番の都市である。と言っても、人口は数千人の小都市であるが。エーゲ海に面しており、北東部の物産を集積する場所である。本来なら内航船がアテネア方面にひっきりなしに航行しているのだが、今は船舶の姿は一隻もない。住民は全員、アテネア方面かテッサロニキ平原方面へ避難したからだ。もちろん、アンナの指導で植えまくったサツマイモと小麦を満載して、である。
ノイエ・エーテル号は北東部の哨戒任務に就いていた。
当然、本国からは厳命がある。
『ビザン帝国と矛を交えるべからず』
と。
「海上ならな~。偶然もあるんだけどな」
「でもよぉ」
バルトロメが言った。
「海賊なら仕方ねぇよな」
「ああ、海賊ならな」
にや、とセシルが笑う。
以前も記載した通り、ノイエ・エーテル号は元々『バルトロメ海賊団』の旗艦であり海賊船である。
船倉には今も、当時の海賊旗が大事に保管されていた。
「困ったな、バルトロメ。すこーし、水と食料が足りないかもしれない」
「へえ、旦那。ちょいと足りねぇな」
「見たところ随分と物資があるようだし、そうだな、多少お借りしてもバチは当たらないさ」
「ちげぇねぇ! 後で返せばいいんだよ、ビザン帝国さんにさ、利子付けてやってもいいし」
利子というか負債?
セシルはそう思ったが特には何も言わない。
「ハーベストムーンの夜、寝静まったころ…ああ、そうだな、余った酒も分けてもらおう。何しろ神聖な祝祭の夜だ、神様だってお目こぼしをくれるさ」
「ちげぇねぇ! じゃ、準備しとくぜ。祝祭のな」
「ああ、頼んだぞ、あくまで祝祭と拝借のな」
「もちろんでさ、旦那!」
そこでセシルとバルトロメがにやり、と笑った。




