第189話 ジョン・ラッセル男爵
数日後。
「実は数か月前に結婚してさ。流石姉さんというか…ラッセル男爵家に嫁入りしたんだよね」
王都アリアの一画、貴族邸が並ぶトルナブ地区である。案内役はアルフォンス、同行者はマルタ、マルス、それにニコラスであった。
「ほーん、フランソワはんの石油を融通してもろうて、ギルテニアのシリカの溶鉱炉で純鉄を作るんやな」
ニコラスはこのところ、実験続きで指先まで真っ黒になっていた。入学の頃と比べると、随分と職人らしさが増している。
「へぇ、そうでやす。ただ姫さまから融通してもらうだけでは産業にならねぇとかで」
「だから商人を、と思ったんだが…貴族なのは想定外だぜ」
マルスが感嘆する。
「貴族と言っても、貧乏貴族だけどね」
案内された邸宅はお世辞にも広いとは言えず、老朽化して所々漆喰の剥がれが目立つ建築物だった。扉の前でノック。
「やあ、アルフォンス。よく来てくれたね」
出迎えてくれたのは二十歳を過ぎたばかしの若者だった。
「ご無沙汰してます、義兄さん。これ、つまらないものだけど」
「助かるよ、アルフォンス。良い茶菓子がなくてね…」
はは、と頭を掻いた。
「なぁ、アルフォンスはん」
ニコラスが尋ねた。
「もしやこの人」
「そうだよ、ジョン・ラッセル男爵」
「はは…どうも。親父が急逝して、急遽家督を継ぐことになってね…。見苦しい家だけれど、お茶くらいは用意するよ」
「メイドくらい雇えば良いんじゃない?」
アルフォンスが言った。
「ベアトリスとも相談してるんだけどね、中々良い人がいなくて。第一、生活だってベアトリス頼みだし…官僚の給与だけじゃどうもね、男爵家運営には足りなくて…借金だらけでさ」
中も少し黴臭くて、掃除が行き届いていない様子だった。俺っちの家みたいだな、とマルスは思ったが敢えて口には出さない。
「待ってたわ、アルフォンス。それにセドリック特別研究室のご学友よね…あと、先生?」
「いや、俺も生徒だ。マルティスって言うんだ。この年だが、学びなおしをしたくてな。古い名刺だが」
「オーロール・クロニクル…ああ、数か月前に休刊した。そういう理由ね?」
「その通りさ。俺っちは聖女様…フランソワ様の自然哲理にびびっときちまってさ。何しろ何を仰ってるのか分からねぇ。なら、学を付けるしかねぇと思ったわけよ」
「なら、再開したらぜひウチも取材して欲しいわね。数年後にはこの邸宅が近代風に変わっているはずだから」
「その前に、最低限は整えないのかよ?」
アルフォンスが尋ねた。
「今は別の投資があるの。ジョンに手を回してもらって、エヴィル港の更地を押さえる予定よ。確か蒸気機関車の研究をしているのよね? 早期に開発してくれると助かるのだけれど。少し港から離れているから、馬車だと限界があるのよ」
「はーん、貿易品の倉庫を作るんだ?」
「ええ、格安で手に入れられそうな場所を押さえたわ。あとは引き込み線ね。ジョンは内務局勤務だから、権利関係の調査をお願いしているの。法務局のローラン様はご存じ?」
「姫さまのお兄様でやすね」
マルタが頷いた。
「そ、ローラン・アリエル・ド・シャルロイド様。アンナ卿が開発した新型肥料の流通も手がける予定よ。こっちは経済実利会の内部でも取り合いだけれど」
経済実利会は商工に詳しい新興貴族で構成される、貴族院の政党である。
「僕も経済実利会に鞍替えしてね。男爵家としては伝統王権派だったのだけれど、別に恩恵もないし」
「ま、肥料権益は逃してもいいわ。それより、石油の方が気になるもの。基礎的な知識しかないから、色々教えてくれない?」
「ベアトリス、その前にお茶を用意しなきゃ。少し外すよ」
「ありがとう、ジョン。さ、ともかく座って。話を続けましょう。君がニコラス君かな。蒸気機関車の研究をしていると聞いたけど」
「せや、フランソワはんの紹介でフィヨルドのモリブデン鋼を手に入れたんやけど、旋盤が通らんくてな」
「通らない?」
「固すぎるんや。焼入れなり、モリブデン刃なり色々試したんやけど、どうも切り味が安定せんのや。今、他の合金をかたっぱしに試しとるんやけど、マルタはんの話やと、純鉄を作らんと進まへんらしいわ」
「へぇ、その通りでやす。モリブデン鋼はあたしも見させてもらいましたけど、炭素含有量が塊によって違ぇんじゃねぇかと」
「わいも前にフェンリル・ベルクの板金工場にお邪魔させてもらったんやけどな、普通の溶鉱炉やったんや。つまり融点が低い。分かるかな、この話」
ええ、とベアトリスが頷く。
「確か、鉄自体は相当な高温で無いと溶けないけれど、炭素を混ぜることで融点が下がるのよね?」
「その通りや。なんでフェンリル・ベルクのモリブデン鋼は『炭素鉄モリブデン』やと思う。やから、まずは基礎となる純鉄を作りたいんや。石油ならその超高温、到達できる可能性があるからな」
「その後、いろんな合金を作って、試料ごとに特性を調べていく予定でやす。確かベアトリスさんには、『フェンリル型望遠鏡』を取扱っていただいているかと」
「ええ、確かに。あの時フェンリル・ベルク辺境伯に『フェンリル』の名をお借りする許可を頂いたのは私よ。同じ理屈で『真・顕微鏡』を作ったのよね? それで見れるものなの?」
「いえ、今の技術では難しいでやす。別に研究中でやすね。ただ、もし顕微鏡で観察可能になれば、適切な配合が分かるようになりやす。姫さまがいう、『誰でも再現可能な技術』に変化するんでさぁ」
「いい言葉よね、『誰でも再現可能』って。でも、丁度良かったわ。蛍石の確保はビアンカ陛下からも指示が来ていたの。間もなく再開する予定よ。ついでにモリブデンとかいう金属も必要かしら?」
「必要や、今のアリアじゃモリブデンが手に入らんのや。鉄すら不足してるんやで」
「鉄は…新大陸に大鉱脈があるらしいわ。今度行く予定があるから、調査しておく。他にも気になる素材があるしね」
「他にも、でやすか?」
「ええ。ゴムってご存じ?」
ニコラスとマルタ、それにマルスが顔を見合わせた。
「いや、知らんで。なんやそれ」
「なんでも伸縮性に優れた素材らしいのだけれど…詳細は分からないわ。持ち帰ったら渡すから、研究をお願いできる?」
「もちろんや、任せとき」
ニコラスが頷いた。
「他にも、原住民が使う薬がどうも特殊らしいけれど…」
「薬でやすか。気になりやすね」
今度はマルタ。
「マルタ君は確か…ペニシリンだっけ。リンドバーク先生とケルナー先生らと抽出に成功したのよね。薬効は確かに気になるわ。こっちも渡す。研究費はこちらからも用意するわ」
「ベアトリス、少しはもてなさないと」
ジョンがティーカップを持って戻ってきた。お茶菓子はアルフォンスの土産である。
「そうね、つい楽しくて。さ、お召し上がりになって。ところで、ちょっと気になっていたのだけれど…皆さん、アルフォンスと同級生よね?」
「俺っちは後輩だぜ、ベアトリスさん」
「そうなの? 失礼したわ。では、ニコラス君とマルタ君?」
「せやで」
茶菓子を齧りながら、ニコラスが答えた。
「なら、今年が最終学年よね」
「へぇ、そうでやす」
今度はマルタ。
「なら、その後私の所に来ない? 私設研究施設を検討しているの」
「ほー、それは面白そうやな。卒業後はギルテニアに戻る予定やったけど」
「へぇ、あたしも実家の薬屋を継ぐ予定でやした」
「でも、いいね。まだまだ研究は続くんでしょ?」
アルフォンスが普段みたいに、紅茶をぐい、っと飲む。
「せやな…純鉄ができて、合金を試して…一年くらいでどうにか蒸気機関車を実用化したいんやけど。最初の敷設はエヴィルにしましょか。レールを敷く場所はワイだけやと用意できんし」
「そうでやすね、それなら姫さまともお付き合いが続きそうでやすし」
「ありがと、前向きに考えてみて。その前に資金が必要なんだけど。あんまり頭を下げたくないんだけど、ネイサン卿に頭を下げようかしら」
ネイサン・ド・シャトーブリアン男爵。エラリーの父親であり、アリア最大の金融機関、シャトーブリアン商会の現会長である。
「また借金が増えるのかい?」
ジョンが渋い顔をする。当然、ラッセル男爵家はシャトーブリアンからの借金も多額に上がるのだ。
「そうよね、帳簿は大分渋いし…できれば自己資本がベストなのだけど。これはもう少し考えるわ。でも、何らかで研究を続けられるようにはする。あとはアルフォンスが大稼ぎしてくれればいいのだけど」
「僕は独立予定だよ」
「いいから、三年くらい手伝いなさいって。人脈も商品もないんでしょ。後でのれん分けしてあげるから」
「それを言われると、そうなんだけどさ。こき使われる未来しか見えないんだよなぁ…」
「当たり前でしょ、弟は姉に仕えるものよ」
勘弁してよ、とアルフォンスが仏頂面を見せた。
「ともかく、石油の調達は請け負ったわ。早速コンスタンに向かってみる。戦争が始まる前に手配しないとね」
「戦争…でやすか?」
マルタが首を傾げた。ああ、とマルスが頷く。
「ビザン帝国の経済封鎖だな」
「流石元記者。その通り。おそらく秋口から侵攻が始まるわ」
「ほな、フランソワはんはどうするんや?」
「それも指令」
ベアトリスが肩を竦めた。
「ビアンカ陛下から、新大陸に避難させられないか、ってね。でも、難しいと思うけど。フランソワ様、話によるとフェンリル・ベルク撤退戦では最前線で戦ったらしいじゃない」
「へぇ。シオンさんもいますし、姫さまなら大丈夫だと思いやす」
「せやな。フロリーナはんと、ヨハンはんもいるしな」
「…なんでコンスタンに当代の英雄たちが集結してるのかしら?」
これも聖女様のカリスマなのかしら。
ベアトリスは以前に会った、まだ幼さが残る少女の姿を思い起こしていた。
あれから、どんな風に成長しているのかしら。少し、楽しみだわ。
つい、そう思ったのである。




