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マンションの外壁に、足場が組まれていた。金属の骨組みが、空に向かって無機質に伸びている。いつも通る道なのに、今日はどこか、違って見えた。
気のせいかな。なんだか危ない気がする。そう思ったのは、ほとんど本能だった。
「瑠璃。」
振り向いた彼女は、いつも通りの顔をしている。そのことに、少しだけ安堵しながら、伊織は、さりげなく歩く位置を変えた。マンション側へ自分が出る。瑠璃を、建物から遠ざける。そのときだった。
「危ない!」
誰かの声が、上から落ちてきた。反射的に、視線を上げる。
——大きい影が、落ちてくる。重力に引かれて、まっすぐに。その軌道の先にいるのは、瑠璃だった。
時間が、引き延ばされたように感じた。音が遠のく。視界だけが、異様に鮮明になる。
——間に合うか。
考えるより先に、体が動いていた。一歩、踏み込む。左腕で、瑠璃を引き寄せる。抱き込むように、強く。そのまま、身体ごと引き寄せて、右手に持っていたリュックを、瑠璃に覆いかぶせるように差し出す。守らなくては。それだけを、考えていた。
衝撃が、来る。鈍い音と、重さ。次の瞬間視界が揺れた。何か温かいものが、額から流れてくる。理解する前に、体が倒れていた。
ざわざわとした音が、周囲に広がる。人の声。足音。誰かが叫んでいる。
うるさい。雑音が、多すぎる。
——聞こえない。一番聞きたいものが、聞こえない。
「……瑠璃」
声に出たのかも分からない。でも、探さなくては。意識が、ぼやける中で。でもそれだけはハッキリしていた。確かにこの腕に、大切な温もりを抱きしめたはず。痛くはなかっただろうか。泣いていないだろうか。そんなことを考えながら、視線を彷徨わせる。
いた。すぐそばに。
瑠璃のやわらかそうな頬に、小さな傷。赤く、にじんでいる。
——傷。その事実に、心臓が強く跳ねた。
だめだ。だめだ…!そんなこと、あっていいはずがない。
「……はやく……」
うまく声が出ない。それでも、絞り出す。
「るりを、いしゃに……はやく……みせて……」
跡が残るかもしれない。そんなこと、あってはならない。あんなに美しいものに、傷など。俺は、守れなかったのか。
周囲が、騒がしい。
「大丈夫!?」「救急車呼んで!」
たくさんの人が、近づいてくる。いらない。そんなものより、
「……るり……」
名前を呼ぶ。声が、遠い。
「伊織!」
はっきりと、聞こえた。叫ぶような泣き声だった。
「やだ!しっかりして!だれか!お願い、伊織を助けて!」
——泣いている。どうして。痛いのか。怖いのか。それとも、俺のせいか。答えなくては。瑠璃に呼ばれているのだから。
「おれは、……だい、じょうぶ……」
言えたのかどうかも、分からない。ただ、その声に応えなければいけないと、それだけを、思っていた。視界が、ゆっくりと暗くなる。最後に見えたのは、涙で歪んだ、あの瞳だった。
——頼む、泣かないでくれ。




