第244話 増悪の目覚め
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私にガソリンをください!!
黒い球体の亀裂から零れ落ちた、黒いそれが地面に落ちた。
ズチャ
真っ黒などろどろとした質量が、粘土細工のように人の形を象っていく。
体のいたる所に浮かぶ顔のようなものが、叫び声を上げるように浮かんでは沈み、また浮かんでは沈んでいった。
黒いそれは、自分の腕を見た。それから、ゆっくりと周囲を見渡す。
――なんだ、何がどうなっている。
そんな時、頭の内側で何かが弾けた。
割れるような頭痛が突き抜ける。
自分のものではない記憶が、いや、記憶と呼ぶには生々しすぎる記録の奔流が、脳髄と直接流れ込んでくる。
戦いの記録、逃げ惑う者の記録、何かに祈る者の記録。
誰のものとも知れない生と死が、断片のまま次々と押し寄せ、頭蓋の内側を埋め尽くしていく。
声にならない絶叫が、頭の奥で幾重にも重なった。
その奔流の最後に――地面の亀裂から、黒く粘つく残滓が噴き上がった。
龍脈の底に沈んでいた、澱のようなそれが、生まれたばかりの体へと吸い寄せられていく。
残滓が黒いそれに触れた瞬間、無数の悲鳴が聞こえた。
声にならない声。
恨みだけを残して溶けた、誰かの成れの果て。
それらが折り重なるように叫び、抗い、そして次々と体の中へ呑み込まれていく。
その中に――ひときわ大きな叫びがあった。
渦を巻く残滓の中心に、輪郭が浮かぶ。
牙を剥き、目を吊り上げた、ゴブリンの顔だ。
ゴポリと黒いそれの体が、波打った。
輪郭が歪み、崩れ、そしてまた形を結び直す。
爪が伸び、肌が緑がかった色を帯び、顎が前へ突き出していく。
――ゴブリンの姿へと。
同時に、初めての感覚が芽生えた。
「自分」という感覚だ。
だが、それは1つではなかった。
生まれたばかりの何かと、ゴブリンだった何か。
2つの自我が、溶け合い、混ざり合っていく。
どちらの奥底にも――同じものが渦巻いていた。
増悪だ。
新しく芽生えた自我も、ゴブリンだった自我も、その根っこの部分では見分けがつかないほど溶け合っている。
頭の片隅では、途切れることなく、その声が叫び続けている。
――殺せ。
――人間を、殺せ。
――あの日、我を退けた者どもを、殺せ。
生物は、口角を上げた。
込み上げるものを抑えきれないというように、心底嬉しそうに笑う。
「我が名はエンバルム。人間よ、戻ってきたぞ」
その一言が、体の隅々にまで染み渡っていく。
言葉にした瞬間、輪郭が定まった。
それは、もう生まれたばかりの何かではなかった。
* * *
周囲で人々が上げる悲鳴やざわめきに、エンバルムはひどく煩わしそうな目を向ける。
「な……なんだ、ただのゴブリンか」
逃げ遅れた住民の1人が、震える声で強がった。
腰は完全に引けている。
それでも恐怖を隠しきれぬまま、手にした鉄パイプを振りかざして突っ込んでくる。
エンバルムは、一瞥もくれなかった。
代わりに両腕を広げ、体の奥から膨大な魔素を解き放った。
鉄パイプを持った男は、その魔素に中てられ意識を失う。
「さあ、我らが眷属よ――復讐の時間だ」
放たれた魔素が、地を這う龍脈の魔素と混ざり合っていく。
街のあちこちで地面が裂け、そこかしこからゴブリンが、腐臭を纏ったゾンビが、輪郭の朧げなスペクターが姿を現し始めた。
崩れた家屋の陰から、干上がった水路の底から、湧き出す数は増える一方だった。
生まれたばかりのゴブリンたちは、示し合わせたわけでもないのに、次々と数体ずつの隊列を組んでいく。
先頭に立つ個体が瓦礫の欠片を盾代わりに構え、その陰から槍と弓矢を持った個体が並んだ。
命令する声など、どこにもない。それでも動きに迷いはなかった。
ゾンビの群れは、隊列というより濁流だった。
腐臭を撒き散らしながら道という道を埋め尽くし、路地の四方から回り込んでは、逃げ場を一つずつ塗り潰していく。
スペクターは声もなく宙を滑り、屋根の上や路地の空を占めていった。
地を這うゴブリンとゾンビ、その頭上を塞ぐスペクター――まるで最初から示し合わせていたかのような布陣だった。
悲鳴が、悲鳴を呼ぶ。
逃げる者、立ち尽くす者、武器を手に震える者――誰もが等しく、この理不尽の中に放り込まれていく。
オールドマーケットは、瞬く間に阿鼻叫喚に包まれていった。
* * *
「なあ、トラ。この魔素……前に似たのを感じたことないか……?」
直哉が、掠れた声を漏らす。
背筋を這い上がる悪寒に、覚えがあった。
「ああ、ある……」
武虎も、顔をこわばらせながら頷いた。
柳太郎、椎名、水沢、村松だけが、怪訝そうに顔を見合わせている。
「何か、知ってる者なのか?」
椎名が問うが、直哉たちは答える余裕もないまま険しい表情で前方を睨み続けた。
『この魔素は、エンバルムの可能性が97.7%です』
イチカの声が、静かに、それでいて確信を持って告げた。
「エンバルム!? あいつは、やっつけたよな!?」
陽平が、隠しきれない動揺を滲ませながら、上ずった声で叫んだ。
答えを待つ間もなく、周囲のざわめきが一段と大きくなっていく。
「ゴブリンだー!」
「ゾンビも出たぞ!」
逃げ惑う人々の悲鳴と、遠くで何かが崩れる断続的な音が、重なり合って届いた。
「急ごう!」
直哉の号令とともに、翼界で全員が宙へ舞い上がる。
見下ろした先――街のいたるところから湧き出した、数千体にも及ぶゴブリンとゾンビの群れが、うねるように広がっていた。
建物の隙間から、道端から、瓦礫の山の奥から、次々と新たな影が這い出してくる。
その中心――ひときわ濃密な魔素を纏った1体が、ゆっくりとこちらを見た気がした。




