第216話 修業の証明
「――退くぞ」
言うが早いか、踵を返してダンジョンの入り口へ駆け出す。
武虎たちも弾かれたように後を追った。
背後から追ってくる足音はない、急いでいる素振りすら感じられなかった。
1層はすでに立入自粛の勧告が出ている。
人がいない以上、ここを戦場にする方が理にかなっていた。
柳太郎はそれを、瞬時に判断していた。
「おいおい、まさかの逃走かよ」
ヴェルクスが笑いながら、ゆっくりと歩き出す。
「鬼ごっこも悪くないネ」
ラオフェンも鉄棍を担ぎ、悠然と後に続いた。
1層に入った直哉たちは、苔むした石畳を蹴り、崩れかけた建物の隙間を駆け抜ける。
朽ちた石壁には蔦が這っていた。
人けのない街路に、5人分の足音だけが響く。
「なあ、逃げるだけでいいのか?」
走りながら、武虎が父の背に問う。
「逃げるのではない」
柳太郎は前を見たまま答えた。
「狭いところでは、人数差が活かせない。まずは広いところに布陣するぞ」
陽平が息を切らせながら周囲を見回す。
「……この先、広いところがありましたよね」
「ああ、そこに誘い込む」
入り口を抜けた先、開けた大広間で5人は足を止め、振り返る。
奥から響く足音が、ゆっくりと近づいてきた。
* * *
ダンジョン課の緊急対策室。
モニターに映る大広間の映像を前に、岸本が声を上げた。
「ターゲットが神谷さんたちと接触しました!」
奥野が椅子から身を乗り出し、勢いよく振り返る。
「なんだと、もう帰ってきたのか!?」
「はい」
奥野がモニターに向き直った。
「それで彼らはどうした?」
「ダンジョンに戻っていきました。
おそらく周囲への被害を気にしたのだと思います。
それに、ダンジョンならばリエントリーがあります」
奥野が顎に手をやり、小さく唸った。
「なるほど、そうか!」
岸本が一歩前に出る。
「それで、奥野局長、ご提案が……」
「なんだ?」
「このままダンジョン内で決着をつけるのはいかがでしょうか」
奥野が眉を寄せる。
「どのようにだ?」
「あの2人は異世界出身者です。であればリエントリー効果のことは知らないと思われます」
「それで?」
「こちらで集めた4層級の探索者、それと能力封じの方を、リエントリーエリアに待機させるのです」
奥野が腕を組んだ。
「やつらが倒され、リエントリーされてきた隙をつくと?」
「はい。リエントリー後は意識が朦朧としており、覚醒まで多少の時間がかかります。
激しい闘いの後であれば、消耗もしているでしょう」
「しかし、それは神谷さんたちが奴らを倒せたら、の話だろう?もっと直接的に手伝わせることはできんのか?」
村田が資料に目を落とす。
「それは、難しいと思います。
神谷さんたちはすでに5層級探索者です。
4層級と5層級では、大きな差があります」
奥野が唸った。
「それはそうだな……しかし神谷さんたちも、異世界に行くまでは3層級だったはずだ。なぜ急にこんな……」
「おそらく、異世界に行ったことが影響しているのだと思います。
田所の報告では、かなりの激戦も経験している、とのことでしたし」
奥野が小さく頷いた。
「それで、本当に1層の人払いは済んでいるな?」
「はい。立入自粛は完全に行き渡っています。巻き込まれる一般人はいません」
「わかった。前回と違い、周辺への被害は完全に抑えられるわけだな」
奥野の声に、笑いはなかった。
「他に、我々が彼らを手伝えることは?」
「ありません。せめて、作戦を伝えるぐらいしか……」
奥野が深く息を吐いた。
「そうか。我々は、見ていることしかできないのか……」
「はい。万が一、リエントリーエリアに神谷さんたちが転送された場合は、直ちに回収・避難できる体制を整えます」
奥野の表情が、わずかに曇った。
「……神谷君たちを、囮にするような形になるな」
「承知しています」
岸本は目を伏せなかった。
「ですが、彼らでなければ、あの2人と渡り合える相手がいないのも事実です」
奥野はしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「――わかった」
岸本が椎名へ視線を移す。
「こちらと通信ができるよう、神谷さんたちにヘッドセットを渡してくれ」
「了解した」
椎名が短く応じ、部下の1人が小型ドローンを持ち、ダンジョンに向う。
* * *
リエントリーエリアの片隅に、緊張した面持ちの探索者たちが集まっていた。
急遽招集された3名、そして上位者に限定して声をかけた3層探索者たち。
その輪の外れに、1人だけ異質な気配を纏う人物が立っている。
モルデガルドの紹介で招いた、封印を得意とするという老人だった。
面倒くさがりと聞いていたが、今は静かに目を閉じ、微動だにしない。
「本当に、ここに転送されてくるんですかね」
若い探索者の1人が、隣に囁いた。
「岸本さんが言うんだ、間違いない」
別の1人が短く返す。
その声にも、緊張を隠しきれない硬さがあった。
老人がゆっくりと瞼を開いた。
「来るとも。じゃが――手負いの獣ほど、厄介なものはないぞ」
誰も、それ以上は言葉を続けなかった。
離れたモニター室で、その様子を見ていた岸本が小さく息を吐く。
「あとは、向こうの5人次第、か」
呟きは、誰に届くでもなく消えた。
* * *
天井の暗がりから舞い降りたドローンが、直哉たちの足元に小さなケースを落とす。
ヴェルクスたちを追い抜き、先回りして届けられたものだった。
中には、耳に収まるほど小型のヘッドセットが5つ。
「……何だこれ」
武虎が拾い上げ、訝しげに眺めた。
音を立てないよう、全員が無言でそれを耳に取り付ける。
ヴェルクスたちがまだ姿を見せていない、そのわずかな間を狙ってのことだった。
『聞こえますか、作戦を伝達します』
岸本の声が、ヘッドセット越しに全員へ届いた。
『ダンジョン内での撃破を優先してください。
リエントリーエリアには、選りすぐりの探索者を集めています。
そこにはモルデガルドさんの紹介で招いた封印の使い手と、招集された探索者たちが待機しています。
相手にリエントリーの概念がない可能性が高く、油断を誘えます』
直哉が眉をひそめた。
「封印の使い手って、何者なんだ?」
『モルデガルドさんに対策を相談したところ、能力を封じられる方を紹介していただきました』
「なるほど、奴らを倒したら、それで能力を封印して捕らえるってことですね」
『はい、そうです』
『それと――リエントリー後の処理は、すべてこちらで引き受けます。
周囲の避難はすでに完了していますので、何も気にせず戦ってください』
説明の途中、大広間の奥から、ヴェルクスとラオフェンがゆっくりと姿を現した。
武虎がニヤリと笑った。
「つまり、殺す気でやっていい、ってことか」
「そういうことです」
真弓が銃の弾倉を確認しながら呟く。
「ずいぶん物騒な作戦ね。嫌いじゃないけど」
陽平が小さく息を吐いた。
「……やるしかないか」
直哉はバットを握り直した。
オクタヴィアには、赤子のように遊ばれた。
だが、あの頃とは違う。
レベルも、魔素量も、技の威力も、確実に上がっている。
「積んできた修業、試させてもらうぜ」
自然と、口の端が上がった。
1週間かけて叩き込んだ感覚は、まだ体の芯に残っている。
砕陣を纏わせた拳が岩壁を穿った、あの重い手応えが蘇る。
「行くぜ、みんな!」
武虎も拳を打ち鳴らし、口の端を上げた。
「はっは、上等だ!」
柳太郎は、何も言わずに前へ進み出た。
* * *
近づいてくる4人の気配に、ヴェルクスが僅かに目を眇めた。
柳太郎ではない。あくまで残り4人の、纏う空気の方だった。
「……気をつけろよ。結構、腕を上げてるみたいだ」
「そうなノカ?」
ラオフェンが片眉を上げる。
「前の状態でも、妖艶のやつがアマルガムを使ったみたいだぜ」
「へえ、そいつは」
ラオフェンが軽く笑った。
「まあ、お遊び程度だったみたいだがな」
ヴェルクスはそう言いながらも、油断なく拳を握った。
妖艶が本気を出せば、勝負は一瞬でついていたはずだ。
それでもアマルガムを使ったのは、直哉たちの強さにある程度の興味がわいた、ということなんだろう。
「――で、神谷はどれネ?」
ラオフェンが鉄棍を肩から下ろし、軽く回した。
「あのバットを持っているボウズがそうだ」
「わかった、あいつネ。あいつ以外は皆殺しでいいネ?」
「ああ、もちろんだ」
ヴェルクスの声から、軽さが消えていた。
大広間に、5対2の沈黙が満ちる。
柳太郎もまた、この1週間で確かな力を積み上げていた。
研鑽を重ねた技量は、駅前の時よりも明らかに鋭さを増している。
先に動いたのは、柳太郎だった。
足音一つ立てず、その姿がかき消える。
それだけを合図に、両陣営の距離が一気に消えた。




