第214話 迫りくる脅威
是非、ブックマークか評価を。
私にガソリンをください!!
雑居ビルの一室に、矢島の声が響いた。
薄暗い部屋には煙草の匂いが染みつき、窓の外から漏れる雑踏の音だけが、やけに遠く感じられた。
「そ、その……神谷直哉の件ですが」
書類を差し出す手が、いつものように小さく震えている。
「なんだ?」
ヴェルクスが顔だけ向ける。
「学校を長期で休んでいるようです。
自宅にもここしばらく戻っていないと、近所の聞き込みで分かりました」
「消えてるってことか?」
「はい。ですが……」
矢島は一拍置いた。
「ダンジョンの受付に顔の利く男がいましてね。記録を覗かせてもらいました。
神谷直哉、6日前に入場したきり、出場記録がありません」
ラオフェンが口を挟んだ。
「潜ってるって、ずっとネ?」
「1週間近く、姿を見せていないという話です」
「なあ、そのダンジョンってやつは、どんな場所ネ」
ラオフェンが矢島に向き直る。
矢島は一瞬戸惑ってから、慌てて答えた。
「え、あ……国内最大級のダンジョンです。層が積み重なってて、公に確認されてるだけでも5層まであるとか」
「5層? 広さはどれくらいネ?」
「1つの層だけで、下手すりゃ山手線の内側くらいあるって話です」
「はぁ?」
ヴェルクスが眉を寄せた。
「潜るにも探索者証ってのが要ります。国が管理してて、素人はまず入れません」
「潜った奴を捜すのに、こっちも潜ればいいんじゃないカ?」
ラオフェンが言う。
矢島が首を振った。
「無理です。証もなきゃ止められますし、そもそも中で1人捜すなんて、山ん中で落とした針を探すようなもんですよ」
ヴェルクスが舌打ちした。
「……ちっ、面倒くせえな」
ヴェルクスが立ち上がった。
「これ以上引き伸ばしもできねえ、入り口で待つか」
「待つカ?」
「ああ。出てくるまでそこにいりゃあ、いずれ来るだろう。
入り口は1つだ」
「なるほどネ」
ラオフェンが鉄棍を肩に担ぎ直す。
「張り込み、久しぶりヨ」
「あの……」
矢島が恐る恐る口を挟んだ。
「堂々と待つんですか? 人目もありますし、その、何かあったら……」
ヴェルクスが鼻で笑った。
「今更、誰が俺らにちょっかい出せるってんだ」
「動画、もう国中に出回ってるネ」
ラオフェンも軽く笑う。
「近づく方がどうかしてるヨ」
矢島は思わず口をつぐんだ。
あの駅前の光景を見て、それでも近づいてくる人間がいるとは思えなかった。
「面倒なら、お前は先に帰っていいネ」
ラオフェンが軽く言う。
「い、いえ! お供します!」
矢島が慌てて姿勢を正した。
* * *
ダンジョン第1層の入り口は、都市の外れにある。
昼時の広場には、行き交う人の姿が絶えなかった。
その一角に、2つの人影が現れた。
最初に悲鳴を上げたのは、近くのベンチに座っていた老夫婦だった。
夫が妻の腕を掴み、転げるように立ち上がる。
「お、おい、あいつは!?」
その声を引き金に、広場全体が弾けた。
「きゃあああっ!」
「逃げろ、あいつだ、駅前を吹っ飛ばした奴だ!」
椅子が倒れ、飲みかけの缶が転がり、誰かが鞄を放り出したまま駆けていく。
子供の手を引く母親、松葉杖を投げ出して走る老人、押し合いへし合いの人波。
悲鳴と怒号が幾重にも重なり、ものの数十秒で広場から人影が消えていった。
「……随分と、逃げられてるネ」
ラオフェンが辺りを見回す。
「知ったこっちゃねえ」
ヴェルクスは地面に腰を下ろし、壁にもたれた。
「向こうも構ってくれば、話は別ネ」
「だな」
2人にとって、通行人がどう反応しようと興味の外だった。
ちょっかいをかけてこない限り、そこに存在していないのと同じだ。
がらんとした広場の縁、遥か遠くの物陰やビルの陰から、それでも様子を窺う物好きが何人か残っていた。
震える手でスマートフォンを構え、決して近づこうとはしない。
その視線にすら、2人は目もくれなかった。
近くの屋台の店主が、理由も分からないまま幌を畳み始めていた。
言葉にできない何かを、体の方が先に察知していた。
「……あの野郎、出てくるまでどのくらいかかるかネ」
「知るか。気長に待つしかねえだろ」
広場の一角だけが、ぽっかりと人気の消えた空白地帯になっていた。
* * *
ダンジョン課の緊急会議室に、複数の資料が広げられていた。
「入り口付近に居座っています」
村田が現場からの映像を映す。
「一般人には手を出していません。
ただし、周囲一帯が完全に無人化しています」
「野次馬対応は?」
岸本が問う。
「警察と連携し、規制線を引きました。
現状、双方に接触の意志はないようです」
奥野が資料をめくった。
「連絡がつく4層級以上の能力者は、何人いる?」
「五十嵐拳吾さんは、まだ戻っていないようです」
村田が資料から目を上げた。
「集められたのは3名のみです」
「3名か……足りないな」
岸本が眉をひそめる。
「3層探索者にも声をかけますか?」
「そうだな。上位者のみ、声をかけてくれ」
「篠崎、最上はどうだ?」
「エンバルム討伐後、お二人ともダンジョンに潜ったきりのようです。
連絡も取れておりません」
岸本が資料に目を落とす。
奥野が眉間を揉んだ。
「使える戦力が、どんどん心許なくなっていくな」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
資料をめくる音だけが、やけに大きく響く。
「ただし、朗報もあります」
岸本が続けた。
「モルデガルドさんの紹介で、能力封じに長けた方と接触できました。
最初こそ渋られましたが、無事に交渉がまとまり、既に日本へお連れしています」
奥野が顔を上げた。
「本当か?」
「はい。今は安全な場所で待機していただいています」
「それは心強いな」
奥野の表情がわずかに緩み、小さく頷いた。
「介入のタイミングは、どう見ている?」
「神谷さんたちが出てくる瞬間、あるいはそれ以前の異常発生時、いずれかです」
岸本が答える。
「ただし、向こうの目的があくまで神谷さんの確保であれば、無闇な介入は逆効果になりかねません」
「見極めが必要だな」
「はい」
モニターの中、2つの人影は、変わらず入り口の脇に座り続けていた。
半径500メートル一帯には規制線が張られ、人の流れそのものが絶えていた。
代わりに動いているのは、ダンジョン課の係員たちだった。
浅層――1層、2層――に潜る探索者たちへ、避難勧告を伝えて回っている。
その報せを受けた者たちが、次々とダンジョンの入り口から飛び出してきた。
2人の姿を視界に入れた途端、誰もが顔色を変え、大きく迂回して駆け去っていく。
装備を鳴らしながら走る者、転びかけながら逃げる者。
中には引き返し、ダンジョンの中へと逃げ戻っていく者までいた。
広場の空白地帯を突っ切ることさえせず、遠回りしてでも距離を取ろうとしていた。
規制線の外側には、望遠レンズを構えた中継車が列をなしていた。
浮ついた実況の声だけが、人のいなくなった広場に虚しく反響する。
その中心で、2人はただ静かに座り込んでいるだけだった。
急かす素振りも、苛立つ素振りもない。
――いくらでも待てる。
その落ち着き払った気配だけが、事態の異様さを何より雄弁に物語っていた。




