第207話 風と蟲と
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私にガソリンをください!!
蒼霧の淵の青みがかった霧が、少しずつ白く濁っていく。
「なんか変わってきたな」
武虎が前方を見ながら言う。
「翼界のコントロールが、更に難しくなった気がする」
陽平が周囲へ意識を向けながら呟いた。
真弓も頷く。
『外在魔素の密度がさらに薄くなっています』
イチカの分析に、柳太郎が頷いた。
「境界が近い証拠だ。もう少し進めば分かる」
そのまま進むこと十分ほど。
前方の光景が突然変わった。
青い霧が一方向へ流れている。
ただ流れているのではない。巨大な渦に巻き込まれるように吸い寄せられ、引き裂かれ、再び集まりながら絶えず形を変えていた。
その向こうからは、耳鳴りのような風音が途切れることなく響いている。
ゴォォォォォォ――――。
「なんだこれ……」
武虎が思わず足を止める。
「すげぇな」
直哉も見入っていた。
蒼い霧と暴風。
水と風。
2つの領域がせめぎ合う場所だった。
霧は風によって千切られ、風は霧によって押し返される。
だが不思議と壁のようなものはない。
「これが境界ですか?」
「ああ」
柳太郎が答える。
「だが見た目ほど大袈裟なものではない。現実で濃霧地帯から暴風域へ踏み込むのと変わらん」
「じゃあ普通に渡れるんすね」
「そうだ」
そう言って柳太郎は境界へ足を踏み入れた。
強風で道着の裾が揺れる。
しかし何かに阻まれる様子はない。
「あ、本当に普通だ」
陽平も後に続いた。
霧がなくなったと同時に、強い風が押し寄せてくる。
だがそれだけだった。
結界もなければ転移もない。
ただ気候が変わっただけ。
柳太郎の声に全員が足元へ目を向ける。
「あれ、地面がない……?」
陽平の声が引きつった。
「うお、まじかよ」
直哉も思わず呟く。
蒼霧の淵には確かに水面があった。
だが境界を越えた瞬間、それは完全に消えていた。
眼下にあるのは果てしない雲海だけ。
どこまで落ちるのか分からない。
「そうだ、嵐渦の空に地面は存在しない」
「存在しないって、じゃあ俺らどうやって進むんだ?」
「翼界を維持する」
「それはどのくらい?」
「ずっとだ」
「え、ずっとって……」
「ずっとはずっとだ、修行が終わるまでだな」
陽平も顔を青くしていた。
「ちょっと待ってください。魔素が切れたらどうなるんです?」
「まっさかさまだな」
柳太郎が即答する。
「ですよねぇ!?」
陽平が悲鳴を上げた。
武虎まで若干顔を引きつらせている。
「親父、笑えねぇぞそれ」
「安心しなさい」
柳太郎は前方を指差した。
「嵐渦の空にも浮島と呼んでいる地面が所々に存在している」
「なんだ、あるのか」
「常時存在する地面がないという意味だ」
「紛らわしいわ!」
「まずは浮島を見つけることからだな」
そう言って柳太郎は何事もないように空へ踏み出した。
翼界が、音もなく展開される。
風の中で羽のような光が広がり、柳太郎の体をその場に留めた。
武虎が翼界を展開し、そのまま空中へ踏み出した。
直哉、陽平、真弓も続く。
最初の一歩で、風が体を突き飛ばした。
直哉は反射的に翼界の出力を上げて体制を立て直す。
が、どこからともなく強風が叩き込んできて、向きを変えるたびに体ごと吹き飛ばされそうになる。
「くそ、翼界の出力があがらねぇ……」
武虎が低く唸った。
「それはここの外在魔素が薄いせいだな。
それより気を抜くな、慣れるまで気を張っておかないと落ちるぞ」
その言葉に、つられるように陽平の翼界が弱まる。
(落ちる)
眼下には雲海しかない。
「あ」
気が付くと、翼界の出力が落ちていた。
「あれ、翼界が、あれ……」
焦った。焦ったせいで、さらに意識が散る。
ストンと、体が沈んだ。
「陽平!」
武虎が即座に飛び込んだ。直哉と真弓も続く。
3人が落下していく陽平へ手を伸ばした。
「手を貸すな!」
柳太郎の声が雷のように響いた。
「自分で立て直すのも修行の一環だ!」
3人の手が止まる。
「でも——!」
「何かあった時のために追うのはいい。だが手は出すな」
柳太郎自身も加速しながら言った。
4人全員が、落ちていく陽平の後を追う。
雲海が近づいてくる。
風が横から叩く。
視界が真っ白になる瞬間もある。
陽平は落ちていた。
目を見開いたまま、体が回転しながら落ちていた。
何秒経ったのか、分からなかった。
体感では10分にも感じられたが、実際は数十秒だったかもしれない。
ただ、底にぶつかるかもしれないという感覚だけがある。
陽平の歯が、ぎりと鳴った。
「——やれる、やれる! 翼界、翼界……っ!」
「——くそっ!!」
叫びが、風に吹き飛ばされた。
翼界の光が広がる。
かすかに、しかし確かに。
揺れながらも、落下速度が落ちていく。
体が浮く。
落下が、止まった。
数秒間、誰も喋らなかった。
「……生きてるか」
武虎が言った。
「うぉぉぉ、怖かったーー!」
陽平の声がかすれていた。
『接近反応を確認』
イチカの声が響く。
直哉が反射的に周囲を見る。
最初に異変へ気付いたのは真弓だった。
「上」
全員が見上げた。
風の中に無数の光が舞っている。
蝶のようにも、羽虫のようにも見える。
だがよく見ると羽ではなかった。
風そのものが渦を作り、小さな生物の形を維持している。
「あれが敵か?」
「風蟲だ」
柳太郎が答えた。
「魔素を喰らうぞ」
その直後、風蟲の群れが武虎へ襲い掛かった。
「うおっ!?」
武虎が慌てて払い落とす。
だが風蟲は離れない。
身体強化の周囲を飛び回り、薄く漏れ出た魔素を吸い始める。
「なんだこいつら!」
「魔素を食ってる!」
直哉が叫ぶ。
『武虎の身体強化出力が低下しています』
「マジかよ!」
武虎は砕陣を纏った拳を振るう。
数匹が吹き飛ぶ。
だが群れの数が多すぎた。
「うっとうしい!」
「あっ、こっちにも来た!」
陽平の周囲にも群れが集まる。
そして次の瞬間、腰の壺が光った。
「あ」
水色の精霊が飛び出す。
一直線に風蟲へ向かい、そのまま噛み付くように飲み込んだ。
ギュルルルルッ。
「ああっ、また勝手に出てきた!」
「お前の精霊、どんだけ食欲旺盛なんだ」
武虎が呆れる。
水の精霊は1匹、2匹と風蟲を吸い込み、その後満足したように壺へ戻っていった。
『水精霊の魔素量が増加しています』
「成長してるのか……?」
陽平が壺を見つめる。
その間も戦闘は続いていた。
直哉は翼界の出力を上げ、接近する風蟲を砕陣で薙ぎ払う。
真弓の砕陣弾が群れを撃ち落とし、柳太郎は指先だけで風蟲を打ち砕いていく。
だが数が多い。
次から次へと現れる。
「キリがない!」
「浮島を探しながら進め!
風蟲は群れで行動する。長居しても得はない!」
全員が空中を移動しながら戦い続ける。
暴風に翻弄され、空中で体勢を崩しそうになる。
そして虫に魔素を食われる。
蒼霧の淵とはまるで違う環境だった。
数分間、全員で風蟲を相手にし続けた。
砕陣で撃ち落とし、翼界の出力で吹き散らし、陽平の精霊が食い尽くす。
群れの数が減り始めると、やがて風蟲はいつの間にか霧散していた。
「……行ったか」
武虎が周囲を見渡す。
「行くぞ、立ち止まると次が来る」
柳太郎が淡々と促した。
* * *
それからが、長かった。
風蟲は消えた。
だが嵐は続いている。
4人は翼界を維持しながら、空の中をひたすら進んだ。
見渡す限り、雲と風しかない。
島の影も目印も、何もない。
最初の30分は、翼界を保つだけで精一杯だった。
向きを変えた風に崩されるたびに修正し、出力が落ちるたびに立て直す。
思考の大半を翼界につぎ込まないと、飛んでいられない。
それがいつの頃からか、少しずつ変わってきた。
「……なんか、さっきより楽になってきた気がする」
陽平が呟いた。
「慣れた、ってことか?」
「なんか、出力の感覚が掴めてきた感じ。
態勢が崩れても、修正が間に合うようになってきた」
直哉も同じだった。
最初は意識しなければできなかった微調整が、感覚で合わせられるようになってきた。
「適応が始まった証拠だな」
柳太郎が前方を見ながら言った。
そのとき、真弓が前方を指差した。
「あれ」
視線の先、雲の向こうに影がある。
最初はぼんやりとした輪郭しか見えなかった。
だが近づくにつれて、形がはっきりしてくる。
巨大な岩塊。
小さな山の頂上だけを切り取って、空へ浮かべたような場所。
「あれが……」
「浮島だ」
柳太郎が頷く。
武虎が心底ほっとしたような声を漏らした。
「地面だ……」
陽平も大きく頷く。
「ようやく落ち着ける……ずっと空中とか、もうやだ」
嵐渦の空、その最初の拠点となる浮島が、ゆっくりと姿を現していた。




