第205話 霧に消える影
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「それじゃ行きましょう、転移門」
直哉が転移門を展開した。
淡い光の輪が空中に開く。
柳太郎が先に踏み込み、4人が続いた。
一瞬で視界が変わる。
もともとは洋館があったが、現在はぽっかりと穴が開いており、巨大な階段が続いている。
「下りるぞ」
柳太郎が先を歩き始めた。
* * *
石段を降りきった先で扉を開けると、外からむわっと猛烈な勢いで霧があふれ出してくる。
真っ白ではない。
青みがかった白——水の色を薄めたような霧が、あたり一面を覆っていた。
5メートル先が見えない。
足元を見ると、黒っぽい水面が広がっていた。
踏み込むと、足首のあたりまで沈んだ。
「ここは?」
「蒼霧の淵。水の精霊の住処だ」
柳太郎が答える。
「なあ……なんか魔素が薄くないか?」
武虎が眉をひそめながら、手のひらをじっと見ていた。
「ああ。5層はそれぞれの属性で環境が変わるが、共通しているのが外在魔素が薄いことだ。
精霊がエネルギーを吸収しているためだと言われている」
「つまり、魔素を使いにくい」
「そうだ。
体内で完結する身体強化は問題ないが、魔素を放出する全てが、普段より細かい制御が必要になる」
直哉はその場で身体強化を展開してみた。
いつもなら展開した瞬間に全身に力が漲る感覚がある。
今はそれがどこか希薄だった。
『直哉、身体強化の出力が通常の約80%です』
「我々の目的地は風のエリアで、ここの真逆の方向にある。
まずはこの水のエリアを抜けなければならない。
まずはゆっくり進もう。5層の環境に慣れるといい」
柳太郎が霧の奥へと踏み出した。
* * *
最初の10分で、直哉は自分の体の感覚が狂っていることを理解した。
水面の上に立つのが、いつもより難しい。
魔素を足底に集中させながら水面を踏みしめるのは普段やっていることだが、今は微妙なコントロールが要る。
一歩踏み出すたびにわずかに沈み、そのたびに細かく調整し直す。
識界を広げようとすると、霧に吸い込まれるように拡散する感覚があった。
いつもなら20メートル以上は把握できる範囲が、今は10メートルに届かない。
「識界が拡げにくいな。
視界も悪いし、全然見えない」
「外在魔素が薄いせいだな。
ここは地上と比べても30%近く薄い。
だからその分、技が発動しにくくなっている」
真弓が翼界を展開し、水面から少し浮いた状態で進んでいる。
だがいつもの滑らかさがなく、進むたびにコントロールが揺れているのが傍目にもわかった。
「緊急回避に使えるか怪しい」
それは厄介だ、と直哉は思った。
* * *
霧の中を15分ほど進んだ、そのときだった。
識界に何かが触れた。
『直哉!』
「くっ!!」
寸前で体をひねりながらジャンプしてかわす。
ゴゥ!!
鮫の形をした水の塊が、音もなく霧を切り裂いて現れた。
水中ではなく、霧そのものの中を——まるで海の中にいるように、滑らかに泳いでいる。
「あっぶね!」
「でかい……!」
武虎が後ずさる。
霧の中で向きを変えた鮫が、ゆっくりと旋回していた。
ひれの形をした水が、音もなく霧をかき分ける。
目に当たる部分だけが、青白く光っていた。
「——もう1体!」
真弓の声と同時に、別の方向から霧が割れた。
2体目だ。
こちらも同じ大きさ。狙いは陽平だった。
正面から鮫が来る。
飛び退こうとした瞬間、巨体が霧に溶けるように消えた。
(消えた?)
次の瞬間、横から来た。
ゴゥッ!!
かわしきれなかった。
鮫の顎が陽平の脇を掠め、衝撃で体が2メートル吹き飛ぶ。
「陽平!」
「なんとか大丈夫!」
2体の鮫が霧の中に消える。
どこにいるかわからない。
識界を広げても、霧の向こうに溶けた気配が掴めない。
「消えた……どこだ」
「わかんない。識界でも追えない」
「霧魚だ」
直哉が振り向くと、柳太郎の足元に巨体が横たわっていた。
鮫の形をした水の塊が、ポリゴンとなり霧の中へ溶けていく。
「いつの間に……」
武虎が目を丸くする。
「霧と同化して消えるから識界でも捉えられん」
柳太郎は倒した方を一瞥もせず、霧の奥へ視線を向けていた。
「じゃあどうすんだよ!」
「ただ集中し、相手の動きに反射しろ」
「まじかよ」
陽平が奥歯を噛んで構え直す。
かすめられた脇腹が、じわりと痺れていた。
霧の奥で何かが動く気配がした。
直哉は識界を絞り込んだ。
範囲は捨てる。
代わりに、触れた瞬間の反応速度に全部賭ける。
「そうだ、識界は密度を上げることで、相手の動きを捉えやすくする」
来る——。
識界に触れた。
今度は右斜め前。
「右!」
4人が同時に散った。
霧を割って鮫が通り過ぎる。
「霧に戻る前に叩くぞ!」
武虎が振り返りざまに砕陣を纏った拳を叩き込んだ。
鮫の頭部が弾ける。
しかしすぐに水が集まって形を戻す。
「再生が早い!」
「お魚天国かよここは!?」
真弓が翼界で飛ぶが速度が出ない。
通常の半分ほどで止まり、舌打ちをした。
「くそ、翼界が!」
空中から砕陣弾を連射する。
命中するたびに巨体が揺れるが、霧の中でまた形を取り戻す。
直哉はバットに砕陣を乗せ、識界で捉えた瞬間に振り抜いた。
ボフンッ!
「効いてるのかわからねえ!」
「陽平、難陀で縛れ! 霧に逃げる前に!」
「やってみる!」
陽平が難陀を伸ばし、鮫の尾びれに巻きつかせた。
引き込もうとする力に抗いながら、武虎と直哉が正面から連打を叩き込む。
鮫の輪郭が、大きく揺らいだ。
青白い光が点滅する。
武虎の連打が形を崩し、陽平の難陀がさらに締め上げる。
青白い光が揺らいで、精霊の輪郭が不安定になった。
そのときだった。
陽平の腰に提げた壺が、光った。
「え?」
陽平が自分の腰を見る。
壺の蓋が、陽平の意思に関係なく開いた。
水色の光の塊が、するするとほどけるように外へ出てきた。
陽平が固まった。
「俺、何もしてない……」
光の塊は迷わず、輪郭の崩れかけた水の精霊へ向かって、一直線に飛び掛かった。
ギュルギュルギュル
触れた瞬間、水の精霊が霧魚をまるで捕食するように吸い込んでいく。
そしてあっと言う間に全部を吸い込むと、満足したかのように壺に戻っていく。
沈黙が落ちた。
「……今のは何だ?」
武虎が陽平を見る。
「わかんない。勝手に出ていった」
陽平の声が上ずっていた。
陽平がおそるおそる腰の壺に触れた。
ひんやりとしているはずのそれが、どこかぬくもりを帯びていた。
「なんか……精霊の魔素が増えてる気がする」
「まじかよ」
「うん、たぶん……」
「分析は進みながらやりなさい。
霧魚は戦いの気配に敏感だ」
「はい」
霧の中で、水の精霊の気配がまた動き始めていた。




