閑話28話 はしゃぐ爺さん
是非、ブックマークか評価を。
私にガソリンをください!!
朝食というものが、この国では決まった時間に運ばれてくる。
モルデガルドはそれを、最初は不思議に思っていた。
食事は腹が減った時に食べるものだ。
なぜ時間が決まっているのか、意味がわからなかった。
だが二週間経った今は、少し考えが変わっている。
時間を決めることで、他のことを考える余地が生まれる。
効率の問題だ。
この国の人間は、そういう合理性の積み重ねで動いている。
トレイの上には、パンと卵、そして黒い液体が置かれていた。
液体はコーヒーと呼ぶらしいが、苦い。
なぜこれを好んで飲む者がいるのか、モルデガルドには依然として謎だった。
パンを一口かじる。
柔らかい。
焼き方が、異世界のそれとはまるで違う。
(……悪くない)
声には出さない。
誰も聞いていないが、それでも出さない。
* * *
食事を終えてから、モルデガルドは本に向かった。
岸本という男が届けてくれた本は、今や部屋の半分を占めている。
歴史書、科学書、哲学書、生物学の教本。
文字の読み方を学ぶのに一日かかった。
文法の理解に二日かかった。
辞書なしで読み始めたのは五日目からだ。
人に言えば驚かれるだろうが、別に自慢する気はない。
言語というのは構造の問題であって、構造がわかれば読める。
それだけのことだ。
今日読んでいるのは、地質学の本だ。
この国の地面の構造について書いてある。
プレートとやらが複数ぶつかり合っており、そのせいでこの島国は地震が多いらしい。
(……プレート、か)
モルデガルドは本を閉じ、静かに目を閉じた。
龍脈を探る時、彼はいつも目を閉じる。
感知は視覚とは無関係だが、閉じた方が集中できる。
ゆっくりと意識を、下へ向けていく。
床。コンクリートの層。土。岩盤。
そこから先は、どこの土地でも似たようなものだ。
岩の間を縫うように、龍脈が存在する。
ただ、流れ方が違う。
アル・テラスの龍脈は太く、力強く、地表に近い場所を通ることが多い。
魔素が濃いから、人間がそれを感じ取れる。
この国の龍脈は、深い。
岩盤のさらに下を、細く流れている。
魔素の濃度も低い。
だからここの人間は龍脈を感知できないのだろう。
だがモルデガルドには見える。
手元の地質学の本に視線を戻す。
プレートが動く仕組みが、図解されている。
小さな手帳を取り出し、簡単な記録を残した。
「地下の流れが確認できた。
アル・テラスと繋がる可能性は要検証。」
それだけ書いて、手帳を閉じた。
* * *
昼過ぎ、岸本から届いた新しい本の荷物を受け取った。
箱を開けると、一冊の本と一緒に短い手紙が入っていた。
「何か不便なことがあればお知らせください」と書かれている。
モルデガルドは、その一文を三度読み返した。
何か不便なことがあれば。
(……不便、か)
思い当たることがないわけではない。
窓は少し小さい。
外の空気をもっと感じられれば、龍脈の流れも読みやすいだろう。
だが、それを“不便”とは思わなかった。
この国の生活は、驚くほど快適だ。
食事は決まった時間に届き、部屋は静かで、灯りは魔素も使わずに明るい。
本は頼めば次々と届き、知らぬ知識がいくらでも手に入る。
(……むしろ、足りんのは知識の方じゃな)
もっと読みたい。
もっと知りたい。
この国の仕組みも、歴史も、技術も、すべて。
手紙をたたみ、本棚の隙間にそっと差し込む。
不便など、何ひとつない。
あるのは――
新しい知識への渇きだけだった。
* * *
本を閉じた後、モルデガルドは外へ出た。
せっかく異世界に来ているのだ。
本だけで満足するには、あまりにも惜しい。
ホテルの自動ドアが、音もなく左右に開く。
(……ふふ、何度見ても飽きんの)
魔素も使わず、気配もなく、ただ“意志”だけで開くように見える。
通るたびに、胸が少しだけ高鳴る。
外に出ると、車という鉄の箱が、信じられぬ速度で道路を走っていく。
信号機が色を変えるたび、街全体がそれに従って動きを変える。
(おお……! まるで巨大な魔法陣じゃ)
思わず声が漏れそうになり、慌てて咳払いで誤魔化した。
老人の威厳というものが、一応ある。
電車が通り過ぎると、風が巻き起こり、地面がわずかに震える。
あれほどの質量が、魔素も使わずに動くとは。
(……理屈は本で読んだが、実物は迫力が違うの)
駅に入ると、エスカレーターが勝手に階段を運んでくれる。
モルデガルドは一段乗るたびに、つい足元を確認してしまう。
(動いておる……! わしが何もせんのに!)
エレベーターでは、箱ごと上下に移動する感覚に思わず笑みがこぼれた。
老人らしからぬ、少し浮ついた笑みだ。
(これは……癖になるわい)
ホテルに戻れば、部屋は常に快適な温度に保たれている。
エアコンという装置のおかげらしい。
家具も家電も、どれも魔道具ではないのに、魔道具以上に便利だ。
(文明とは、こうも愉快なものか……!)
思わず両手を腰に当て、部屋をぐるりと見渡した。
まるで宝物庫を見つけた子供のように。
窓を開けると、冷たい外気が流れ込んでくる。
東京の夜の空気は、アル・テラスとはまるで違う。
機械の匂い、食べ物の匂い、雨と土と、人の気配が混ざり合っている。
(……面白いの)
窓を開けるたびに、新しい発見がある。
異世界では決して感じられなかった“文明の匂い”だ。
モルデガルドは窓枠に肘をつき、夜景を眺めた。
光が多い。
まるで街そのものが魔道具のように輝いている。
瘴谷では夜になれば闇が支配したが、ここでは闇が押し返されている。
星は見えない。
だが、それも悪くない。
この光の海は、この国の力そのものだ。
(……住めば住むほど、知りたいことが増えるわい)
確信がある。
ここには本がある、知識がある、未知がある。
そして――文明がある。
それだけで十分だった。
どこにいようと、学べる場所なら――
モルデガルドは喜んでそこに住む。




