第170話 日本へ
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生物転移門の発表は、日本政府の名義で正式に行われた。
それは、これまでGRT研究機構を介して物品転送技術を発表してきたやり方とは、明確に一線を画すものだった。
今回は逃げない――政府として正面に立ち、責任を負う。
その判断を下したのは奥野局長であり、事態の先を見据えた上での意思表示でもあった。
発表内容自体は極めて簡潔にまとめられていた。
第1に、生物を対象とした転移門の試作に成功したこと。
第2に、現段階では短距離かつ小規模での運用に限定されること。
そして第3に、その開発の基盤となる基礎技術については、すでにGRT研究機構を通じオープンソースとして公開済みであること。
この3点のみが公式声明として各国政府および関係機関に送付された。
世界が動いたのは――その翌朝だった。
* * *
発表から3日が経過していた。
霞が関の会議室に設置された大型モニターには、各国メディアの速報と、それに続く緊急声明の文言が途切れることなく並んでいる。
「技術移転を」「共同研究を」「情報の透明化を」──各国の主張は表現こそ異なっていたが、その方向性は明確に一つへ収束していた。
その中でも、中国の声明は他国より一歩踏み込んだ内容となっていた。
「人類共通の資産である転移技術を一国が独占することは、国際社会に対する責務に反する。
基礎技術の即時全面開示を求める」
表示された文面を横目に、岸本が資料を机に置きながら静かに口を開いた。
「全面開示、ですか」
それに対して奥野局長は腕を組んだまま視線をモニターから外さず、短く答える。
「予想の範囲だ」
「ご回答は?」
「もう送った」
その一言に、岸本はわずかに視線を局長へ向けた。
奥野は小さく肩をすくめる。
「基礎技術はすでに公開済みだ――それだけだ」
続けて淡々と説明する。
「GRTが発表した制御理論、安全機構、観測手法はすべてオープンソースで公開されている。
我々の成果は、それらをベースに独自の知見を積み上げたものにすぎん」
そのうえで、わずかに間を置き、静かに付け加えた。
「同じ基礎から始めればいい。
我々にできたのだから、不可能ではないはずだ」
岸本は一拍だけ思考を巡らせてから、低く問い返す。
「……それだけで、済みますか」
「済むかどうかは分からんよ」
奥野は迷いなく答えた。
「が、嘘はついていない。
それは間違いない」
その言葉に、岸本は小さく頷いた。
“嘘はついていない”――その意味を、彼は理解している。
GRTの基礎技術は確かに公開されている。
しかし、その核心――安田の着想と、エルド・フェルミナの研究書に由来する知識体系は、一切記録されていない。
公開されている情報と、それを実際に再現できるかどうかの間には、容易に越えられない断絶が存在する。
奥野はその事実を理解した上で、あえて言葉を選んでいた。
* * *
その回答が各国政府に届いた日のことだった。
いくつかの場所で、ほぼ同時に小さな動きが起きていた。
ブリュッセル――国際会議場の廊下では、EU外交委員会の委員長が中国代表の隣へ歩み寄り、周囲に聞こえない程度の声で語りかける。
「技術の共有については、我々も慎重に判断すべきだと考えています。
……あなたもご存じでしょうが、日本から提供された医療支援は、私の同僚の命を救いました。
その事実を、忘れているわけではありません」
それに対して中国代表はわずかに口元を緩めるだけで、何も言葉を返さなかった。
否定しなかったのか、あるいは返す言葉を失っていたのかは、判然としない。
ワシントン――上院議事堂のロビーでは、一人の上院議員が通話を終えると同時に秘書へ向き直る。
「中国の声明に同調する動議には乗らない。
……そういう方向で調整を進めてくれ」
「理由はどう説明いたしますか?」
「同盟国の技術に過度に干渉することは、我々の利益に反する――それで十分だ」
ジュネーブ――非公式の協議室では、WHOの上級顧問が資料を静かに閉じた後、落ち着いた口調で言った。
「医療協力と技術開示は、分けて考えるべき問題でしょう。
日本の立場には一定の合理性があります。
ここで拙速に踏み込むことは、むしろ混乱を招きかねません」
いずれも、公には残らない発言だった。
記録にも載らず、報道もされない。
しかし確実に、それらは影響を及ぼしていた。
中国が目論んだ「国際的圧力」は、表に出ない水面下で、少しずつ弱体化していく。
* * *
4日目。
国連の非公式協議における中国代表の発言が配信された。
「……技術の独占は国際的に懸念を生む。
引き続き対話を求めていく」
最初の声明と比べると、その語調は明らかに柔らいでいた。
「即時」という表現は消えている。
岸本は配信文を確認しながら一度目を閉じた。
「……機能しましたね」
奥野局長は短く頷く。
「あくまで今のところは、だな」
そして、間を置かず続ける。
「相手が次の手を打つ前に、こちらも動く。
油断はするなよ」
「了解しました」
岸本は資料にメモを書き込みながら、窓の外へと視線を向ける。
曇り空の下に、霞が関の街並みが静かに広がっている。
人々はいつも通りに動いている。
だが、その裏側では確実に世界が動いていた。
転移門の完成。
技術の公表。
その波は、これからさらに大きくなる。
岸本には、それがはっきりと分かっていた。
だからこそ、この一時の静けさが、わずかに貴重に感じられた。
奥野局長はすでに次の資料へと目を落としている。
岸本もそれに倣い、手元の整理を再開した。
* * *
その日の夕方。
岸本から情報を受け取った田所は、JPギルドで直哉たちに報告していた。
「お疲れさまです、神谷さん。少し報告があります」
「はい?」
直哉が応じる。
「生物転移門の発表に伴う国際的な情勢ですが、ある程度落ち着いてきました。
特に技術開示を求める圧力が強かったのですが……現状では、対応可能な範囲に収まっています」
「そういえば、向こうもかなり騒がしかったみたいっすね」
「ええ。中国を中心に、技術提供を求める動きが強まっていました」
「で、どうしたんですか?」
「基礎技術はすでに公開済みであること、それを用いて各国が独自に開発するべきであること――その方針で回答しました」
「……えっと、つまり……?」
「これまで異世界での活動を優先していただいていましたが……地球に戻っていただいて問題ない状況になりました」
場に一拍の沈黙が落ちる。
「……まじか!?」
武虎が先に口を開いた。
「はい。以前のように神谷さんの存在が直接的なリスクとなる状況は、現時点では解消されています。
もちろん完全に安全というわけではありませんが、行動制限を維持する必要はありません」
「なんで今?」
真弓が短く問う。
「転移門の発表によって、注目がそちらに移ったこと、そして神谷さんを標的としていた勢力が別の問題を抱えたこと……その複合要因です」
「つまり、忙しくなって俺を気にしてる余裕がなくなったってことですか」
「端的に言えば、そうなります」
田所は淡々と答える。
直哉は隣を見る。
武虎が小さく頷く。
真弓と陽平も互いに顔を見合わせる。
直哉は再び画面に向き直った。
「わかりました。じゃあ、帰ります」
田所はわずかに口元を緩める。
「ええ、長い間ご苦労をかけました」




