閑話26話 次なる計画
是非、ブックマークか評価を。
私にガソリンをください!!
田所は廊下を歩きながら、胸ポケットのメモを指先で押さえた。
報告内容は単純だ。
――生物転移が成功した。
その一言で、世界の均衡がまたひとつ動く。
* * *
ヤスを含めた研究者の面々は、帰還したその日の夜から研究書を読み始め、翌朝にはすでに8冊目に手を伸ばしていた。
各自が協力し、2日で読み込み、4日で仮説を立て、5日目には試作を始めていた。
その集中力は、もはや狂気に近かった。
研究室の明かりは夜通し灯り続け、彼らの机の上には計算式のメモが何十枚も積み重なっていく。
魔素の流れを示す図、揺らぎの周期を示すグラフ、転移門の基底式を書き換えた試案――
そのどれもが、常人には理解できない密度で詰め込まれていた。
それまでは「生物を転移させるには魔素の有機的な共鳴が必要」という壁が立ちはだかっていた。
物品転送は成功しても、生物だけはどうしても“壊れてしまう”。
魔素の流れが乱れ、生命活動が維持できない。
研究員たちは何度も式を組み直し、魔素の流量を調整し、共鳴周波数を変えてみたが、結果は変わらなかった。
だが――エルド・フェルミナの研究書には、その壁を越えるための“鍵”が記されていた。
有機体を構成する魔素の“揺らぎのパターン”を転移門の基底式に組み込むこと。
揺らぎごと転移させること。
生命体は魔素の流れが一定ではなく、常に微細な振動を伴っている。
その振動を“雑音”として排除するのではなく、むしろ“本体”として扱う。
シンプルな逆転の発想だったが、実現するためには魔素の位相を正確に読み取り、転移門の魔法陣に同期させる必要があった。
フェルミナの書物には、そのための精密な計算式が、まるで教科書のように丁寧に記されていた。
魔素の揺らぎを数式化し、周期と振幅を抽出し、転移門の魔法陣に重ね合わせる方法。
それは、全員が数年かけても辿り着けなかった領域だった。
「……いやはや、どこにでも天才はいるもんですな」
ヤスは書物を閉じながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。
その目は、久しぶりに少年のように輝いていた。
そして――先日、ついに実験が成功した。
最初の被験者はウサギだった。
白い毛並みの小さな個体で、研究員たちは緊張で息を呑んで見守った。
転移門が淡く光り、ウサギの姿がふっと消える。
倉庫の片隅から逆の片隅に転移させた。
無事だった。
ウサギは何事もなかったように鼻をひくつかせ、餌を探すように床を歩き回った。
研究室にいた全員が、しばらく声を失った。
次は猫だった。
猫は転移門の前で少し警戒したが、ヤスが優しく撫でると落ち着き、静かに装置へ入っていった。
転移。
やはり無事だった。
「……成功、ですな」
ヤスが言った瞬間、研究室の空気が震えた。
誰もが理解していた。
これは“物品転送の延長”ではない。
世界の常識を覆す、新しい段階への到達だ。
そして――
「……理論的には人もいけますぞ」
ヤスがそう言った時、周囲にいた研究員たちはしばらく口を開けなかった。
誰もがその言葉の重さを理解していた。
それは単なる技術の進歩ではなく、異世界と地球の境界線が、ついに“人間が通れる形”で開かれたという意味だった。
研究室の静寂は、歓声ではなく、震えるような実感で満たされていた。
誰もが息を潜め、未来の気配を感じていた。
* * *
局長室の前で一度だけ息を整え、ノックする。
「入れ」
奥野局長が応える。
田所が入室すると、奥野はすでに立ち上がっていた。
机の上には、今日だけで積み上がった書類が山のように並んでいる。
「報告があります」
田所は立ったまま、簡潔に告げた。
「安田さんから連絡がありました。
生物を対象とした転移門の試作が――完成したそうです」
奥野の目が、わずかに細くなる。
「……完成、か」
「はい。動物実験は複数回、すべて成功しています」
短い沈黙が落ちた。
その沈黙の中に、局長が何を考えているかは、田所にも分かっていた。
「件の研究書が決め手になったのだな」
「はい、そうです。
あれがなければ、数年はかかったと」
奥野は机の端に手を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「どう発表するか……そこが問題だ」
「物品転送のGRT発表から日が浅い状況です。
ここで生物転移を公表すれば、各国から技術開示の要求が殺到します」
「分かっている。だが――発表は早める」
田所は一瞬だけ目を瞬いた。
「早める、ですか」
「彼に向けられている視線を、分散させたい」
その言葉で、田所はすべてを理解した。
転移できる“個人”という存在は、世界にとってあまりにも魅力的で、危険だ。
そこに「人物転移が可能」という情報が加われば、
注目は“個人”から“技術”へ移る。
――神谷直哉を守るための、時間稼ぎ。
「……なるほど」
奥野は続けた。
「同時に、足場を固める。
キュアディジーズの提供を加速する。
今は慎重にやっているが、もう少し広げていい。
恩を売った数が、そのまま彼を守る壁になる」
「了解しました。
対象国のリストも拡大します」
「一点だけ確認したい。
安田さんは、この発表を了承しているか」
「はい。一任すると」
「……まったく、本当に助けられているな」
奥野は目を閉じ、短く息を吐いた。
「田所、急ぐぞ。
中国が動く前に、こちらが主導権を握る」
「承知しました」




