【閑話】第23話 治験第一号
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私にガソリンをください!!
自衛隊地区病院。
駐屯地内に設営された、自衛隊員とその家族のための病院だ。
基本的に一般人は使用することがないため、病院内には関係者しかいない。
しかしその病院の特別室。
天井のカメラが2台あり、壁にはマイクが埋め込まれている。
特別な治療などを記録するための部屋だ。
俺は数日前に、警察病院からこの部屋に“転院”してきた。
理由はただ1つ――
「国の事業に協力してほしい」という依頼だった。
死にゆくだけの身体で、まだ国の役に立てるのなら。
そう思って、迷わずサインした。
どうせ余命はわずかだ。
死ぬ場所が変わったところで、何も変わらない。
ピッ、ピッ、ピッ……。
心電図の電子音だけが、この部屋で唯一、生きている。
その規則的な音が、逆に自分の命の不規則さを際立たせていた。
胸の奥が焼けるように痛む。
いや、焼けるというより――
錆びた刃物が、骨の裏側をゆっくりと削っているような痛みだ。
息を吸うたび、肺の奥がひしゃげる。
吐くたび、背骨の内側で何かが軋む。
膵臓癌。
骨と肝臓に転移。
余命は春まで持たないと言われたが、そんな悠長なものではない。
――今週が限界だ。
天涯孤独の身だ。
見舞いに来る者はいない。
それが、むしろ救いだった。
誰にも見られずに死ねるのだから。
だが、死は静かに近づいてくる。
皮膚の下を冷たい指でなぞられるような感覚。
体温が奪われていく。
指先が痺れ、足先の感覚が薄れていく。
「……ふ、ぅ……」
呼吸が浅い。
肺が空気を拒んでいる。
胸郭が重く、まるで石を抱えているようだ。
そんな中、廊下に3人分の足音が近づいてきた。
規則正しく、迷いのない足音。
扉が開く。
内閣府出向の荒木誠一。
厚労省の係長・西本。
担当医の松田。
3人とも、俺を“患者”ではなく、“案件”として見ている目だった。
その距離感が、逆に心地よかった。
情けをかけられるより、よほどいい。
松田が紹介する。
「荒木さんは内閣府で異世界関連の施策を担当されています。
西本さんは厚生労働省の方です」
荒木が前に出る。
「宮下さん、単刀直入にお話しします」
「どうぞ」
「病気を完治させる可能性がある薬を、持ってきました」
その言葉を聞いても、胸は動かなかった。
期待するほど若くもない。
死がすぐそこにあると、人は驚くことすらできなくなる。
「どの程度の病気に効くのですか?」
「現時点で確認されている範囲では、癌を含むすべての病気です」
「なぜそんなものが……」
「これは異世界産のポーションです」
「異世界、というとゲームにあるようなもの、ですか?」
「はい、おそらくそのご理解で構わないと思います」
「ははは、私が病気で寝込んでいる間に、世界は変わってしまった、ということですか」
「いえ、そういうわけではないのです。
多少複雑な事情があるのですが、ダンジョンで神隠しのような現象が発生しています。
調査したところ、異世界に転移していることがわかりました」
「世間はそんなことになっているのですね……。
最近はテレビなどを見るのもおっくうで……」
「そうなのですね……。
この薬は様々な経緯を経て入手したものです」
「そう、なんですか」
ゲームの中の話だと思っていたものが、現実にあるという。
だが、死の匂いが濃くなっている今の俺には、現実味が薄い。
西本が淡々と続ける。
「異世界で生産されているものです。
向こうでは広く流通し、貴族や王族も使用しています。
地球での使用は、これが初めてになります」
俺は少し考えた。
「なぜ私を選んだのか、聞かせてもらえますか?」
「3つあります。
現行医療では手が尽きていること。
秘密保持が可能だと判断できること。
そして、国への忠誠を長年示してこられたことです」
つまり――
“死んでも問題がない、信頼できる人間”。
そういうことだ。
「正直で助かります」
俺はそう言った。
嘘をつかれるより、よほどいい。
松田が言う。
「強制はできません。
最終的にはあなたが決めることです」
点滴の針が刺さる手の甲を見つめる。
皮膚は薄く、血管は浮き、骨ばかりが目立つ。
この身体が、あと数日で終わることは、誰よりも自分が知っている。
30年を捧げた仕事を、こんな形で終わらせるつもりはなかった。
「やります」
俺は言った。
「お役に立てるなら、やります」
荒木が静かに頷いた。
* * *
荒木が小瓶を取り出す。
薄い青色の液体が、光を受けて揺れている。
その光が、死にかけた俺の目には妙に眩しく見えた。
「飲む前に、何か聞いておきたいことはありますか」
「ありません」
俺は小瓶を受け取った。
「もし効かなかった場合も、治験として役立ててください」
迷いはなかった。
死ぬだけなら、もう覚悟はできている。
小瓶を傾ける。
薄い甘み。
草の香り。
数分後――
最初に変わったのは、痛みだった。
骨の奥に巣食っていた重さが、ゆっくりと薄れていく。
まるで、死神が指を離したかのように。
「……痛みが……薄れて……」
松田がモニターを見る。
数値が動き始めていた。
「腫瘍マーカーが下がり始めています」
さらに数分。
数値は下がり続ける。
「……精密検査が必要ですが、モニターの数値は健康体そのものです」
荒木も西本も、言葉を失っていた。
俺はただ、静かに目を閉じた。
死の気配が、薄れていく。
* * *
3時間後、精密検査の結果が出た。
「宮下さん」
松田の声は震えていた。
「癌が完全に消えています。転移も含め、すべて」
俺は天井を見た。
死の影が消えた天井は、妙に白く、遠かった。
荒木が淡い赤色の小瓶を差し出す。
「体の回復を助けるポーションです」
飲むと、体の芯から温かさが広がった。
血が通い始めるような感覚。
死の冷たさが、ゆっくりと押し返されていく。
手を見ると、血色が戻っていた。
自分の手ではないように見えた。
ゆっくりと体を起こし、ベッドの縁に座る。
足を床につけ、立ち上がる。
膝は揺れたが、倒れなかった。
「……ははは、体が動く」
窓の外の銀杏並木が、午後の光を受けて揺れていた。
その光が、やけに眩しかった。
「リハビリを早く始めたい」
荒木が頷く。
「現在の状態なら、一般生活に戻るまで時間はかからないでしょう」
俺は荒木を見た。
「復帰することはできるでしょうか?
私は、今さら、別の生き方は知りませんから」
荒木は短く頷いた。
窓の外を見つめる。
死の影が消えた今、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
だが――
まだ、できることがある。
そう感じたのは、いつ以来だろうか。




