第105話 森の主
翌朝、町はまだ死骸の片付けに追われていた。
昨日の戦いで傷ついた柵、倒れた門柱、路地に転がる甲殻の山。
住民たちは文句も言わず黙々と作業を進めているが、直哉には一つ引っかかることがあった。
「あの規模の暴走、普通じゃないよな」
武虎も同じことを考えていたらしく、腕を組んで森の方角を見ながら言った。
「何かが原因でああなった、とみるのが自然だ。
そいつを放置すると、また別のことが起きる可能性がある」
「だよな」
ギルドマスターのドナートも同じ考えだったらしく、昼前には調査隊の編成が決まった。
ギルドの中堅探索者4名と、現地の地形に詳しいカルロスが加わる構成だ。
「3日後に戻る。それまで待っていてくれ」
カルロスはそう言い残し、森の中へ消えた。
* * *
3日間、直哉たちは町に留まった。
柵の修繕を手伝ったり、警戒の見回りに加わったり、やることは案外多かった。
住民たちは探索者に飯を振る舞い、子どもたちは武虎の周りにまとわりついた。
「おい、離せ。重い」
「強くなれる?」
「……なれる。でも鍛えるのはキツいぞ」
「えー、じゃあいい」
「おいっ」
直哉はそのやりとりを横目で見ながら、スープを飲んだ。
(『武虎様、なかなか子どもへの対応が上手ですね』)
(そうか?)
(『ええ。子どもの扱いが下手な人は、ああいう返しができません』)
(……言われてみると、確かにな)
清閑寺姉弟は姉弟でそれぞれ時間を過ごしていた。
陽平は住民の子どもたちに混じって川で魚を追いかけており、なぜか一番楽しそうだった。
真弓は町の高台に腰を下ろし、一人でグロック17の手入れをしながら遠くを眺めていた。
「あいつら、骨の髄まで探索者だな」
武虎がぼそっと言った。
「俺たちも人のこと言えないけどな」
3日目の夕方、カルロスたちが戻ってきた。
* * *
ギルドの会議室に探索者たちが集まった。
カルロスは地図を広げ、森の奥に大きく印をつけた。
「原因がわかりました」
「森の中心部——ここです。ドラゴンが1頭、居座っています」
室内がざわついた。
「ドラゴン……」
「この辺境に?」
「グリーンドラゴンです。
ただ、体長は10メートル前後でした」
ドナートが口を開いた。
「10メートル前後……ならヤングドラゴンだな。
であれば、C級でもなんとか倒せるだろう」
カルロスが頷く。
「グリーンドラゴンが居座ったことで、近くに巣を構えていた魔物が刺激を受けた。
アリの暴走は、その連鎖の1つだったようです」
「1頭が来ただけで、森がここまで揺れるのか」
「ドラゴンは生態系の頂点です。
その存在が移動するだけで、周囲の魔物の行動が変わる——それが今回の原因かと」
(『補足します。
調査隊の報告によると、グリーンドラゴンは左前脚に深い火傷を負っていたようです。
傷を負った状態で縄張りに侵入された場合、通常より攻撃的になっている可能性があります』)
直哉はその情報を頭に入れておくことにした。
「討伐できますか?」
武虎が率直に聞いた。
ドナートは腕を組む。
「ヤングドラゴンならやれる。ただ、うちのギルドに単独で挑める者はいない」
カルロスが直哉たちに視線を向けた。
「昨日の戦いを見ていました。
あなたたちに参加してもらえるなら、討伐隊を組める」
直哉は武虎と目を合わせた。
武虎は無言で肩をすくめる。
「わかりました。参加します」
陽平と真弓も揃って頷いた。
* * *
討伐隊は翌朝に出発することになった。
直哉・武虎・清閑寺姉弟の4名に加え、ギルドのエース探索者が3名加わる。
槍使いのマルコ、双剣のリザ、弓と魔石を組み合わせた遠距離戦が得意なオルソンだ。
3人とも腕は確かだ。この辺境の町では、間違いなく精鋭の部類に入る。
出発前夜、直哉はホルダーの残弾を確認しながらイチカと話した。
(『マルコさん、リザさん、オルソンさんについて、一点だけ』)
(なに?)
(『3人とも実力は申し分ありませんが、ドラゴン戦の経験はおそらくゼロです。
戦闘中に想定外の事態が起きた場合、判断が遅れる可能性があります。
フォローが必要な場面が出てくるかもしれません』)
(……要は俺たちでカバーしろってことだよな)
(『彼らの実力だと、森の奥地では危険になる可能性があります。
もちろんそれを覚悟した上での参加のようです』)
(わかった。頭に入れておく)
続けてイチカが言った。
(『それから、この世界のドラゴンは知性を持つ個体が多く、人語を解することも珍しくありません。
交渉で解決できた例もあります』)
(じゃあ話し合いで……)
(『グリーンドラゴンは狡猾な性格で知られています。
交渉に応じる素振りを見せながら、有利な立場を取ろうとする——という記録が多い。
言葉を信じすぎないようにしてください』)
直哉は少し考えた。
(つまり、話しながら隙を狙ってくる可能性がある、と)
(『はい』)
(……わかった)
* * *
翌朝、一行は森へ入った。
カルロスが先頭に立ち、踏み固められていない獣道を進む。
木々が頭上を覆い、昼間でも薄暗い。
足元は湿っており、枯葉を踏むたびに音が出た。
1時間ほど歩いたところで、最初の遭遇があった。
茂みが揺れ、体長2メートルほどの猪が3頭、唸り声を上げながら突進してきた。
(『グリーンドラゴンに追い立てられた個体と思われます』)
「来るぞ!」
マルコが槍を構え、リザが双剣を抜く。
直哉もバットを握り、武虎も腰を落とした。
4人が自然と魔素を纏い、迎え撃つ体勢を取る。
——その瞬間だった。
先頭の猪が急ブレーキをかけた。
地面を削りながら止まり、鼻孔を大きく広げて空気を嗅ぐ。
後ろの2頭も連鎖するように足を止め、3頭揃ってこちらを見た。
数秒の沈黙。
それから3頭は、揃って踵を返し、茂みの中へ消えた。
「……え?」
マルコが呆然と槍を持ったまま立ち尽くす。
「なんだったんだ、今の」
武虎が眉をひそめる。
直哉も首を傾げた。
「俺たちが構えただけで逃げたよな?」
(『おそらく魔素量の問題です。
皆さんの内在魔素量は、以前に比べて大幅に増えています。
魔素を纏った状態では、野生の動物にとっては相当なプレッシャーになるはずです。
本能的に、勝てない相手だと判断したのでしょう』)
「……俺たち、そんなに怖くなってたのか」
(『ええ。少なくとも猪には』)
その後も、巨大なトカゲや、異様に膨れた熊のような魔物と何度か遭遇した。
いずれも直哉たちが構えを取った瞬間、視線を逸らして去っていった。
* * *
日が傾いてきたところで、カルロスが足を止めた。
「今日はここで野営にしましょう。
この先、岩場になって足元が悪くなります。
夜に進むのは危険だ」
空き地を見つけ、焚き火を囲んで野宿の準備をする。
夜の森は静かすぎるほど静かだった。
普通、森には虫の声や遠くの獣の気配がある。
だがここには何もなかった。
生き物たちがどこかへ逃げてしまったかのように、音がしない。
「気持ち悪い、この静けさ」
真弓が焚き火を見つめながら言った。
「ドラゴンが近いってことでしょ」
陽平が答える。
マルコが槍を手元に引き寄せた。
「……明日、本当に大丈夫なんですかね」
直哉は少し考えてから言った。
「大丈夫かどうかはわからないけど、やるしかないよ」
それ以上は誰も言わなかった。
焚き火の音だけが、静かな夜に響いた。
* * *
翌朝、出発した。
岩場を抜け、さらに奥へ進むにつれ、木々の様子が変わってきた。
根こそぎ倒された大木、深く抉れた地面、折れた枝が散乱する道。
「暴れてるな」
そして——音が聞こえた。
何かが地面を引きずるような、重くて乾いた音。
それに混じって、肉を裂くような鈍い音。
(『前方80メートル。大型の生命反応。グリーンドラゴンと思われます』)
一行は足を止め、木々の陰から前方を窺った。
広場ほどの空き地。
周囲の木々は根こそぎ薙ぎ倒され、地面は抉れ、爪の跡が深く刻まれている。
その中央で、緑の鱗をまとった巨体が低く構えていた。
10メートルを少し超えるか——目の前にするとそんな計算は意味をなさない。
グリーンドラゴンは熊を咥えていた。
巨大な顎が肉を引き裂き、骨を砕く音が静寂の中に響く。
(『左前脚を見てください』)
言われて目を向けると、腕の一部に焼けただれた跡があった。
鱗が剥がれ、黒く変色している。
かなり深い火傷だ。
そして、その傷の周囲に——細かく魔素が滲んでいた。
痛みをこらえているような、あるいは怒りを抑えようとしているような、不安定な揺らぎだった。
「……あれが原因か」
マルコが息を呑む。
直哉は黙って前を見た。
* * *
一行は慎重に距離を詰めた。
50メートル。
40メートル。
30メートル——
その時、グリーンドラゴンの動きが止まった。
咥えていた熊を地面に落とし、頭をゆっくりと持ち上げる。
細長い瞳孔が、一行を捉えた。
次の瞬間、グリーンドラゴンの全身から魔素が滲み出した。
じわりと広がる圧力が、空気の密度を変える。
森に残っていた鳥たちが一斉に飛び立った。
地面の虫が逃げ、近くの茂みで何かが素早く駆け去る音がした。
生き物の本能が「逃げろ」と叫んでいる。
マルコの顔が青くなる。
リザが半歩下がった。
それでも直哉は足を止めなかった。
「——止まレ」
人語だった。
まるで地鳴りが声を出しているような、重苦しさがある。
リザが息を呑む気配がした。
武虎は動じず、ただ前を見た。
直哉は一歩前に出た。
「話がしたい。俺たちはあんたを倒しに来たわけじゃない」
グリーンドラゴンの瞳が、直哉の上で止まった。
「……人間カ。久しく見タ」
グリーンドラゴンは低く繰り返した。
わずかに首を傾け、直哉を上から下まで眺める。
「貴様らの種は昔からそう言ウ。
話がしたい、ト。
私には、貴様らの言葉を聞く義理などなイ。
だが——まあいイ。用があるなら聞いてやル。
ただし手短にしロ。私は食事中ダ」
倒れた熊を一瞥してから、直哉に視線を戻した。
「この辺の生き物が暴れて、町が困ってる。
あんたがその原因だと聞いた。
何か理由があるなら聞きたい」
「ほう」
グリーンドラゴンは鼻孔をかすかに動かした。
「貴様らの町が困っていル。それが私に何の関係があル。
私はただここにいるだけダ」
「あんたがここにいることで、生態系が崩れてる。
それは事実だ」
「事実、カ」
グリーンドラゴンはゆっくりと瞬きをした。
「私が歩けば木が倒れ、魔物が逃げ、虫けらどもが慌てふためク。
それは私のせいカ? 違うだろウ。
強いものがいれば、弱いものが動ク。それが自然の理というものダ。
貴様らが言う"生態系"とやらは、私には関係がなイ」
「だから聞いてるんだ。
理由があるなら、何か解決策があるかもしれない」
「解決策」
グリーンドラゴンは少しだけ間を置いた。
「80年生きて、その言葉を私に使った生き物は、貴様で3匹目ダ。
最初の2匹が何をしたか教えてやろうカ。
1匹目は逃げタ。2匹目はその場で剣を抜いタ。
——貴様はどうすル」
直哉は答えなかった。
ただ、その場に立っていた。
グリーンドラゴンはしばらく直哉を見ていた。
「……まあいイ」
やがて言った。
「どうせ暇ダ。話す程度なら構わン」
直哉は慎重に言葉を選んだ。
「……なんで、ここにいるんだ。
あんたには、ここより適した縄張りがあるんじゃないか」
「あった、だナ。
元の縄張りを追われタ。
来たのではない、押し出されタ。そういうことダ」
視線が、一瞬だけ北の方角へ向いた。
ほんの一瞬だったが、確かにそこを見た。
直哉は頭の中で情報を整理した。
追われた。押し出された。火傷を負っている。
——つまり、逃げてきた。
「その腕の傷も、そこでできたのか」
グリーンドラゴンの瞳孔が、わずかに細くなった。
「……その話は好かン」
声のトーンが、一段低くなった。
しかし怒気というより——ほんのわずかに、何か別のものが滲んだ気がした。
「すまない」
直哉は引かなかった。ただ、一歩だけ後ろへ退いた。
「でも、あんたが動き回ることで、この辺の生き物が混乱してる。
あんたにとっても、落ち着いて傷を治せる場所があった方がいいんじゃないか」
長い沈黙。
グリーンドラゴンは直哉を見た。
見下ろしていた。
しかし今度は、ただの視線だった。
品定めとも軽蔑とも違う——何かを計っているような、静かな目だった。
(『……これは』)
イチカが息を呑む気配がした。
(『直哉、続けてください。聞いています』)
「俺たちにできることは限られてる。
でも、あんたが何を必要としてるかを聞かせてくれれば、考える」
「……下等な生き物にしては」
グリーンドラゴンはゆっくりと言った。
「口が減らないナ。そして——妙に諦めが悪イ」
侮蔑ではなかった。
かといって、認めているわけでもない。
爬虫類特有の縦長の瞳孔が、何かを測るように直哉に向いていた。
「——まあいイ」
肯定でも否定でもない。
ただ、会話は閉ざしていない——そういう言葉だった。
(『警戒してください——』)
イチカの声と同時に、グリーンドラゴンの視線がすっと横へ逸れた。
茂みが揺れた。
右から、左から、背後から。
最初に来たのは、匂いだった。
腐った魚と泥を混ぜたような、粘膜にまとわりつく悪臭。
マルコが顔をしかめ、リザが思わず口元を袖で押さえた。
「——なんだ、この臭い」
武虎が低く呟いた瞬間、茂みから姿を現したのは、鱗に覆われた爬虫類型の人型だった。
直立しているが、姿勢は前傾みで、爪のついた長い腕が地面すれすれを引きずっている。
黄色く濁った目が、こちらをぎょろりと見た。
1体、2体、3体——気づけば10体以上が、じわじわと包囲を形成していた。
トログロダイト。
(『悪臭は特性です。長時間浴びると集中力が削がれます。注意してください』)
グリーンドラゴンは直哉たちを一顧だにせず、視線を外したまま言った。
「せっかく話す気になってやったが、その前に一つ確かめたいことがあル。
——その程度も片付けられないなら、話す価値もなイ」
「下手な話し合いより、よっぽどわかりやすい」
武虎が笑いながら言う。
「そうだな」
トログロダイトが唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。
悪臭がさらに濃くなった。




