第八話 湖畔の街と、憧れの残影
湖から吹き抜ける風には、わずかに淡水の匂いと、水草の青く甘い香りが混ざっていた。
大陸の中央に位置する巨水湖『ルティナ湖』。その南岸に広がる港町『ルテティア』は、白い石造りの建物の壁に鮮やかな赤紫色のブーゲンビリアが咲き誇る、美しく穏やかな観光都市である。街道をゆく商人や、休暇を過ごす貴族、そして水運を利用する冒険者たちで賑わうこの町に、一人の旅人が降り立った。
細身で背が高く、引き締まった長脚を包む黒革のパンツ。上質なジャケットの裾を風になびかせ、肩まで伸ばした銀糸の髪を揺らしながら歩く姿は、雑踏の中でも異彩を放っている。通りすがる男たちが一瞬で目を奪われ、女性たちですら感嘆のため息を漏らす。
銀髪赤眼の魔法使い——エレナ。
(ふぅ……やっぱり、ジメジメした森や泥臭い洞窟より、こういう開放的な水辺の観光地のほうが性に合ってるな)
エレナは心の内で、低くサバサバとした「アラサー男」の声を漏らした。
トラックに跳ねられて異世界へ転生し、目覚めたら絶世の美少女になっていたあの日から十五年。自認はどこまでも一人のしがない男のままだが、この圧倒的に恵まれた容姿と、元・男ゆえの酷薄なまでの計算高さを武器に、世の男どもを手玉に取って生きてきた。
先日の『深緑の顎』での大冒険では、金髪のイケメン騎士に「聖杯の発見者」という名誉と手柄を丸投げし、自らは「可憐で勇敢な命の恩人」という完璧なヒロインの座を確立。その結果、ルブラン王国からの破格の金貨と「王家特権の通行証(無敵のタダ乗り手形)」を手に入れた。
(あの通行証のおかげで、この港町一番の高級ホテル『ルティナ・グランド』の最高級スイートルームがタダで借りられた。クックック……やっぱり権力とコネは使い倒してナンボだな)
エレナは不敵な笑みを浮かべ、湖を見渡せる遊歩道のベンチへ向かって腰を下ろそうとした。
その時だ。
「あっ……あの……っ! もしかして……エレナ様ですか……!?」
甲高い、しかしどこか怯えたような切実な声が、彼女の背後から響いた。
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
年齢はエレナと同年代の十五歳ほど。柔らかい栗色の髪を二つの三つ編みにし、大きな丸眼鏡の奥で、ヘーゼル色の瞳を不安げに揺らしている。着ているのは、仕立ては良いがやや地味なフリル付きのブラウスと膝下丈のスカート。右腕には大きなスケッチブックと魔法媒体である小さな羊皮紙の巻物を抱えていた。
「……私ですが。どちら様でしょうか?」
エレナは一瞬で「可憐で優雅な旅の少女」のモードに切り替え、優しく首を傾げてみせた。
「やっぱり……! 本物のエレナ様だわ……! 私、私っ、リリィと申します! ルテティアの魔法学園の二年生です!」
少女——リリィは、顔を真っ赤にして勢いよく頭を下げた。勢い余って丸眼鏡がズリ落ち、慌てて指で押し戻す様子は、いかにも真面目で不器用な優等生といった風情だ。
「噂を聞いていたんです! 『深緑の顎』で変異種の魔物を退治し、ルブラン王国の騎士様を救ったという、銀髪赤眼の天才魔法使いの女の子がこの町に来ているって……! 街のギルドであなたのお姿をお見かけして、どうしてもお話ししたくて……追いかけてきてしまいました……っ」
「まあ、私の噂がそんなところまで……照れてしまいますわね」
エレナは胸元に手を当て、しおらしく微笑んだ。
(ふむ、冒険者ギルドで噂が尾ひれをつけて広まってるな。まあ『美少女魔法使いの英雄伝説』なんて、世間の人間が大好きなネタだしな)
「エレナ様! 私……私、ずっとずっと憧れていたんです! あなたのように、女の子一人で世界を旅して、どんな危険な場所でも自分の魔法一つで凛と立ち向かう……そんな強い女の子になりたくて!」
リリィの瞳には、熱烈な憧憬の光が宿っていた。
リリィはいわゆる「箱入り娘」だった。地元の裕福な商人の家に生まれ、幼い頃からおしとやかであることを強要され、魔法学園でも「女の癖に魔法使いを目指すなんて」と男子生徒たちからバカにされてきたのだという。そんな時、風の噂で聞こえてきた「同年代の銀髪赤眼の少女魔法使い」の活躍は、リリィにとって暗闇に差し込む一筋の光だったのだ。
(あー……なるほど。自己投影ってやつか。真面目でウブな格好のターゲットだな)
エレナの頭脳が、高速で損得勘定を弾き出す。
同性愛的な好意(百合)を持たれるのは、中の人間が男であるエレナとしても色々と面倒だが、リリィの視線にあるのは純粋な「アイドルへの崇拝」や「なりたい自分への憧れ」だ。これなら無駄なトラブルに発展するリスクは低い。
しかも、地元の富豪の娘で、魔法学園の生徒。
(コネとして、持っておいて損はない物件だ。地元の美味しい店や、湖の隠れた名所に案内させられるかもしれないな)
「リリィさん」
エレナは立ち上がり、リリィの華奢な肩にそっと手を添えた。
「私なんて、まだまだ未熟な旅人に過ぎませんわ。でも……同じ魔法を志す女の子同士、そうやって憧れていただけるなんて、とても光栄です」
「エレナ様……っ!」
リリィの目が感涙でうるむ。指一本触れられただけで、今にも失神しそうなほどの感動ようだ。
「もしよろしければ、少しお茶でもいかがですか? 私もこの町のことをもっと知りたいと思っていましたの」
「は、はいっ! 喜んで! 私、ルテティアの一番美味しいカフェへご案内しますっ!」
リリィはブンブンと犬のように首を振った。
(よし、一丁あがり。これで今日の昼飯とガイドはタダだな)
エレナは心の中で悪魔のような笑みを浮かべながら、嬉しそうにはしゃぐリリィの後を追った。




