第三話 夜の訪問者と小さな芝居
頭上の枝に潜んでいたのは、体長二メートルを超える巨大な猫科の魔獣——『樹上豹』だった。
しなやかな体に樹皮のような斑点模様を持ち、気配を完全に消して頭上から獲物の首骨を砕く、森の暗殺者。それが三匹。完全に一行を「餌」として囲み込んでいる。
「ひ、ひぃぃっ! ウッド・レオパルドだ! 狂暴で、皮が硬くて、ギルドの推奨ランクはBだぞ! なんでこんな淺い場所にいやがるんだ!?」
マルコが腰を抜かし、地面の湿った落ち葉の上にへたり込んだ。
「チッ、足元が見えねえ! ガッツ、前を出ろ!」
盗賊のレックが短剣を構えるが、その手は明らかに震えている。重戦士のガッツは大斧を大きく振り回すが、木々が邪魔で満足に振るうスペースがない。
「ガハハ! 俺の斧のサビにしてやるぜ! 来い、化け猫!」
威勢だけはいいガッツだが、足場が悪く、体勢が完全に崩れている。樹上豹の一匹が、無音で枝を蹴り、ガッツの首筋めがけて飛びかかった。
(バカだなあ。森の中で大振りの武器振り回す奴があるかよ。……まあ、死なれちゃ困る。荷物持ちが減るからな)
エレナは可憐な悲鳴をあげた。
「まあっ! ガッツ様、危ないっ!」
悲鳴と同時に、右手で携えていた短い樫の杖を、まるで脅えて胸元に抱きしめるような動作で振るった。
(『風刃』、出力十五パーセント。狙いはあの豹の右の前脚の腱だ)
無詠唱。そして、魔力の粒子を極限まで薄く広げた、空気の刃。
夜の闇の中、誰の目にも見えない一閃が、空中を跳躍していた樹上豹の右前脚の関節を正確に切り裂いた。
「グギャッ!?」
着地態勢を失った樹上豹は、ガッツの目の前で無様に地面へ転がり、勢いあまって大木に頭を激しくぶつけた。
「うおっ!? ……ハっ! 俺様の気合いにビビって着地をトチったな! 死ねぇっ!」
ガッツは自分の強運(とエレナは思わせた)に歓喜し、転がった豹の脳天に大斧を叩きつけた。鈍い骨砕音が森に響く。
「残り二匹です! レックさん、左です! 」
エレナは涙目になりながら、レックの背中に隠れるようにして寄り添った。
背中に柔らかい(ように思わせる)少女の気配を感じたレックは、一瞬で恐怖を忘れて脳内に汁を噴出させた。
「お、任せとけエレナちゃん! 俺様が格好いいとこ見せてやるぜ!」
レックが叫びながら左の豹に短剣を突き出す。
本来なら、素早い豹の動きに盗賊の短剣など届くはずがない。だが、エレナはレックの肩越しに、そっと指先をかざしていた。
(『微振動』。あの豹の三半規管を揺らす)
跳躍しようとした二匹目の豹が、突如として激しいめまいに襲われ、千鳥足のようにふらついた。そこへ、レックのデタラメな突きが、運良く(計算通りに)豹の目輪筋から脳へと突き刺さる。
「ギャンッ……!」
「よ、よっしゃあ! 俺様の神速の突きを見たか!」
レックは勝ち誇り、鼻の下をこれでもかと伸ばした。
残る最後の一匹は、一瞬で二匹の仲間が「不可解な理由」で倒されたことに本能的な恐怖を感じたのか、短い悲鳴を上げて森の奥へと逃げ去っていった。
「はぁ、はぁ……た、助かった……のか?」
マルコが腰を抜かしたまま、自身の股間が無事であることを確認している。
「ふぅ……間一髪でしたね。ガッツ様もレック様も、本当にお見事でした! お二人がいなかったら、私、今頃……」
エレナは胸元に手を当て、ほっと安堵の息を漏らしてみせた。その白い肌と、うっすらと赤らんだ頬(ただの体温調節だ)に、男たちは完全にやられた顔をした。
「ガハハ! なーに、エレナちゃんみたいな可愛い子を守るためなら、これくらい朝飯前よ!」
「そうだぜ! 俺たちの連携があれば、森の化け物なんて怖かねえ!」
気良く笑う二人。
(……やれやれ。本当、男って生き物は『女を守ってやった』という錯覚を与えるだけで、簡単に命を投げ出す駒になるから楽でいい。前衛の二人がやる気を出してくれたなら、今夜の不寝番も任せられるしな)
エレナは心の中で冷ややかに笑いながら、逃げ去った豹の残した血痕と、周囲の木々の配置を観察していた。
「マルコさん、野営の準備をしましょう。この豹の血の匂いは、さらに厄介なものを引き寄せます。火は焚かず、この大木の根の隙間に身を潜めますよ」
「あ、ああ、分かった。エレナちゃんの言う通りにするよ……!」
すっかりエレナを「頼りになる、しかも可愛い幸運の女神」と信じ込んだマルコは、素直に従った。
夜が深まった。
大きなクスノキの巨木の根元、うろ(空洞)になった場所に身を寄せ合い、一行は息をひそめていた。
火は焚かない。暗闇の中、レックとガッツが交代で不寝番に立ち、マルコは大いびきをかいて眠っている。
エレナは壁に背をもたれかけ、膝を抱えるスタイルで目を閉じていた。
(……ふぅ。そろそろ『中身』の男としての愚痴を吐きたくなるな)
目を閉じながら、エレナは自らの内面と対話する。
十五年前、前世はどこにでもいるフツーの会社員だった。週末に趣味のキャンプに行き、酒を飲み、アニメを見る。そんな平穏な人生が、トラックの一撃で粉砕された。
目覚めたら異世界の赤ん坊。しかも女の子。
成長するにつれて自分の姿を鏡で見るたび、「うわ、めっちゃ美少女じゃん……でも俺なんだよなこれ」という強烈な自我のゲシュタルト崩壊に襲われた。
当然、男に興味など持てるはずがない。かといって、この姿で女性にアプローチすれば「変な百合」扱いされるか、気味悪がられるだけだ。
結果としてエレナが出した結論は——「この圧倒的ハイスペックな身体と容姿を、最高効率で人生を楽しむための『道具』として割り切る」ことだった。
男たちの下心やプライド、誇示欲。それらを観察し、手玉に取り、安全と金と地位を確保する。ガッツリとした冒険者ギルドの泥臭い出世競争など興味はない。目指すは、贅沢で自由な諸国漫遊の旅だ。
(さて……明日の目標は、あの強欲マルコをうまく誘導して、遺跡の隠し財宝を手に入れることだな。あいつが見つけて喜ぶ『聖印』なんてのは、歴史的価値しかない骨董品だ。本当に価値があるのは、その台座に埋め込まれている『古代魔導石』。あれを一粒売れば、大都市の高級宿に一年は泊まれる)
エレナがそんな狸の皮算用をしていると、ふと、森の奥から異様な「気配」が流れてきた。
風の音ではない。足音でもない。
——魔力の、うねり。
(……ん? なんだこの感覚。ただの魔獣じゃないな)
エレナはそっと赤い目を開けた。
不寝番のガッツは、大木にもたれかかって船を漕いでいる。使えない奴だ。
エレナは音もなく立ち上がると、黒革のブーツの足音を殺し、木々の陰へとすべり出した。
闇の中を十メートルほど進んだところで、彼女は足を止めた。
そこには、小さな泉があった。
月光がわずかに差し込む水面が、青白く光っている。そして、その泉のほとりに、何かが倒れていた。
「……人間?」
エレナは警戒しながら杖を構え、歩み寄る。
そこに倒れていたのは、金髪の青年だった。
身につけているのは、一目で高級品とわかる銀の装飾が施された全身鎧。しかしその鎧はボロボロに引き裂かれ、深い傷口から青黒い血が流れていた。
(青黒い血……毒か。しかも、かなり強力な『腐食毒』だぞ。放っておけばあと十分で息絶えるな)
エレナは冷ややかに青年を見下ろした。
顔立ちを見れば、誰もが息をのむような美しい男だった。整った鼻筋、眩しい金髪、育ちの良さをうかがわせる品のある骨覚。育ちの良いお坊ちゃん騎士といったところか。
(面倒事に巻き込まれるのは嫌だな。見捨てて戻るか……)
エレナが踵を返そうとした、その時。
青年の胸元から、ハラリと一冊の革縛りの手帳がこぼれ落ちた。
その表紙には、金箔で刻まれた豪華な紋章。
(……ん? あの紋章……この国の隣国、『ルブラン王国』の王家親衛隊の印じゃないか? なんでそんな大物が、こんな辺境の森でボロボロになって倒れてるんだ?)
エレナの脳内で、高速の計算が始まった。
親衛隊の騎士。身なりは最高級。単身で森に侵入し、毒を受けて瀕死。
(……待てよ。こいつを助けて『恩』を売っておけば、将来ルブラン王国に行った時、最高の『コネ』になるんじゃないか? 貴族の館でのタダ飯、極上のベッド、通行許可証……)
エレナの口角が、暗闇の中でニヤリと上がった。
「よし、決定。命は拾ってやるよ、イケメン騎士様」
エレナは青年の横にしゃがみ込むと、胸元から小さな薬瓶を取り出した。




