第二話 街道の終点、緑の海へ
針葉樹の落葉が踏みしめられるたび、湿った土の匂いと、脂を含んだ松の香りが鼻腔を突いた。
街道と呼べるような平坦な筋は、二時間ほど手前の「木こりの水車小屋」で途絶えている。そこから先は、ただ古く太い樹木が天を覆い、這い回る巨大な根が階段のように、あるいは罠のように地表をうねる、文字通りの深林だった。
「ねえ、エレナ。本当にこの道で合ってるわけ? わたし、足の裏の皮が破けそうなんだけど」
後ろを歩く男——いや、恰幅のいい商人であるマルコが、額の汗を汚らしいハンカチで拭いながら泣き言を漏らした。五十を超えた肥満体の男にとって、この『深緑の顎』と呼ばれる大森林の傾斜を上るのは、拷問に等しいのだろう。
「マルコさん。文句を言う前に足元を見てください。さっきから二回、毒胞子茸の傘を踏み潰しかけていますよ。それを破裂させたら、あなたのその自慢の革靴、中身の足指ごと溶けて腐りますからね」
振り向きもせずに応じたのは、一行の先頭をゆく銀髪の少女——エレナだった。
細身で背が高く、膝上まで届くしなやかな黒革のブーツに、丈夫なクロスのパンツ。上着は腰回りを絞った深い緑のジャケットで、下ろした銀糸の髪が、木漏れ日を反射して妖しく光っている。背中には小ぶりの魔法杖と、旅用の小汚い革袋。どこからどう見ても、駆け出しの、しかし妙に佇まいの落ち着いた旅の魔法使いだった。
「ひいっ! 溶ける!? おいおい、頼むよエレナちゃん! あんたに高い金払って護衛兼ガイドとして雇ったんだからな! ちゃんと安全な場所を選んで歩いてくれよ!」
「選んで歩いて『これ』なんです。文句があるなら、町のギルドで大人しく正規のAランクパーティを銀貨五十枚で雇うべきでしたね。私みたいな『身元の怪しい、格安のCランク』を提示額の半値で叩いて雇ったのは、他ならぬあなたでしょう?」
エレナはくるりと振り向き、赤い瞳を少し細めて見せた。
可憐で、どこか儚げな美少女の微笑み——しかしその瞳の奥には、長年修羅場をくぐり抜けてきた男特有の、底意地の悪い冷徹さが透けている。
(まったく、どこの世界に行っても強欲な商人の考えることは同じだな)
エレナ——かつて地球という世界で三十路手前の男として死に、気づけばこの異世界で銀髪赤眼の美少女として転生してから、今年で十五年。
現地ではすでに結婚適齢期とされる年齢だが、中の人間が「薄汚いアラサー男」のまま育ったエレナにとって、恋愛や結婚など冗談ではない。むしろ、この圧倒的な美貌と、男としての酷薄な計算高さを武器に、世の男どもを手のひらで転がしながら諸国を漫遊することこそが、彼女(彼)の人生の至上の悦楽であった。
「うぐっ……それは、まあ、そうだけどよ……」
マルコは言葉に詰まり、気まずそうに目を逸らした。
今回の依頼は、この『深緑の顎』の奥深くに眠ると言われる古の精霊遺跡から、かつて存在した王国の『黄金の聖印』を持ち帰るというものだ。マルコはどこからかそのガセとも本物ともつかぬ地図を拾ってきて、一攫千金を狙ってこの危険な森へ足を踏み入れた。
そして、本来なら数人の熟練冒険者を雇うべき危険度SS級の森に対し、言葉巧みに「女の子一人なら食費もかからない」「実績が欲しいだろう」と踏み倒し紛いの安報酬(銀貨八枚)でエレナを連れ出したのだ。
もちろん、エレナがその程度の安手に乗るわけがない。
(フン、まあいいさ。この肥満体オヤジは、森の浅知恵で死なない程度の肉壁兼、荷物持ちだ。遺跡の宝の八割は、どさくさに紛れて私がくすねる予定だからな)
「とにかく、マルコさん。あと半刻もすれば、日が完全に沈みます。森の夜は、都市の夜とは違いますよ。『何か』に喰われたくなければ、私の歩いた足跡から絶対に外れないでください」
「わ、分かったよ……。おい、お前らも遅れるなよ!」
マルコが後ろを振り返って怒鳴る。
そこには、マルコが個人的に雇ってきた私設の用心棒ふたり——大斧を担いだ脳筋の重戦士ガッツと、常にニヤニヤとエレナの尻や脚を品定めの目で見ている軽薄な盗賊のレックがいた。
「へいへい、分かってますよ旦那。しかしよぉ、エレナちゃん。あんた本当にこんな細い体で魔法が使えるのか? 森に入ってから一度も使ってねえじゃねえか。いざって時に気絶されたら、俺様が抱えて走らなきゃならねえんだぜ? それはそれで嬉しいけどよぉ、ヘヘッ」
レックが下品な笑いを浮かべながら、エレナの隣に並ぼうと距離を詰めてくる。
エレナは顔色ひとつ変えず、すっと一歩横に滑り、絶妙な距離を保った。肌を触れさせるような過剰な接触は絶対に許さない。安売りすれば価値が下がるし、なにより「中身」が男である以上、野郎に触られるのは純粋に吐き気がするほど嫌なのだ。
「ご心配なく、レックさん。私の魔法は『ここぞという時』にしか使いません。それに……そうですね。私を抱えて走るような事態になったら、あなたの腕が吹き飛んでいる時くらいでしょうから、期待しないでくださいね?」
エレナは首を少し傾け、完璧に計算された「可憐だが少し意地悪な少女の微笑」を浮かべた。
「っ……!」
レックは一瞬で顔を赤くし、鼻の下を伸ばして「へへ、生意気な口をききやがって……」と呟きながら後退した。
(よし、一丁あがり。男ってのは本当に単純だ。ちょっとした突き放しと媚びの黄金比率で勝手に脳内変換してくれる)
エレナは心の中でほくそ笑みながら、前方の深い闇を見据えた。
木々の隙間から見える空が、赤紫から深い群青へと染まっていく。風が止み、森全体が静まり返った。いや、静まり返ったのではない。森の昼の住人たちが息をひそめ、夜の捕食者たちが目を覚ます時間帯に入ったのだ。
「——来ますよ。全員、武器を抜いてください」
エレナの静かな、しかし通る声に、緊張感が走り抜けた。
「えっ!? なんだ、なにが出たんだ!?」
マルコが悲鳴を上げ、ガッツが慌てて大斧を構える。
「上です」
エレナが指さした頭上の巨大な枝。そこには、夕闇に溶け込むようにして、三対の黄緑色の眼光が光っていた。




