第十三話 画家を夢見る少女と、湿った仮面
少女の年齢は、エレナと同年代の十五、六歳ほど。
水上都市の強い日差しに晒されたせいか、健康的でうっすらと小麦色に焼けた肌。潮風になびく短めのショートボブの髪は、鮮やかなアクアマリン(水色)をしている。着ているのは、絵の具の汚れがいくつもついた使い古しのキャンバス生地のエプロンドレス。
大きな青い瞳を怒りに燃えさせ、肩で息をしているが、その顔立ちは驚くほど整っていた。凛とした眉と、引き締まった唇。元気で活発そうな、少年っぽさを残した美少女だ。
「あ……私のスケッチブック……!」
少女はエレナの手元にあるスケッチブックに気づき、ハッと目を見開いた。
そして、エレナの顔を見た瞬間——少女の動きが完全に止まった。
「……っ!?」
少女の青い瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
夕陽に照らされた銀糸の髪。透き通るような肌。血のように赤い瞳。
エレナがスケッチブックを差し出すと、少女はまるで夢でも見ているかのように、おずおずと手を伸ばしてそれを受け取った。
「あ、あの……助けていただいたんですか……?」
「ええ。偶然、泥棒が足をとられましたので。お怪我がなくて何よりですわ」
エレナは完璧な営業スマイルで微笑んだ。
(ふむ、この小麦色の肌に水色のショートボブ。元気っ子系の属性か。リリィが真面目でおしとやかなお嬢様タイプだったのとは対照的だな)
少女はスケッチブックを大事そうに胸に抱きしめると、耳まで真っ赤にして深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……っ! 私、ミーナと言います! アクアリアの美術ギルドで絵の勉強をしているんです! このスケッチブックには、大事なデザイン画や……友達からの貰い物が挟まっていて……本当に、本当にありがとうございました!」
「ミーナさん、とおっしゃるのね。私はエレナ。旅の魔法使いです」
「エレナ……様……」
ミーナはその名前を反芻し、感極まったように拳を握りしめた。
「すごい……まるで絵画から抜け出してきたみたいに綺麗な人……。私、いろんなモデルさんや綺麗な景色を見てきたけど、こんなに美しい人、見たことないです……っ!」
(よしよし、食いつきが良いな。美少女の特権発動だ)
エレナは心の中でほくそ笑みつつ、しおらしく首を傾げた。
「まあ、お上手ですのね。ところでミーナさん、そのスケッチブックの最後のページ……リリィという名前が見えましたけれど」
「えっ!? リリィを知ってるんですか!?」
ミーナが跳ね上がった。
「ええ。ルティナ湖のルテティアの町で、彼女とは少し縁がありまして。彼女から『アクアリアの美術学校に通う大切な親友がいる』と聞いていましたの」
「本当ですか……! リリィの知り合いだなんて! あいつ、元気にやってますか? 昔からドジでノロマだから、魔法学園でいじめられてないか心配で……」
「ええ、彼女はいまや、町を救った立派な魔法使いとして皆から慕われていますわ」
(まあ、俺が手柄を全部擦り付けたからなんだがな)
「よかったぁ……!」
ミーナは安堵の息を漏らし、弾けるような笑顔を見せた。
「あのっ、エレナ様! お礼と言ってはなんですけど、私に何かさせてください! お腹が空いていませんか? 美味しいお店を知っていますし、この街のガイドなら任せてください!」
(キタキタキタキターーーッ! これだよこれ!)
エレナは胸の中で小踊りした。
ドブに沈んだ紹介状とマドレーヌの損失は痛かったが、怪我の功名だ。地元の案内役(しかもリリィの親友という身元確かな人間)が手に入った。
「まあ、それではお言葉に甘えさせてもらおうかしら。実は私、この街に来たばかりで……ドブに書類を落としてしまって、少し困っていたのです」
「任せてください! 私の家、小さくて汚いですけど、アトリエ兼住居なんです! そこで良ければ、温かい魚介のスープでも振る舞います!」
「ふふ、楽しみにしていますね」
ミーナに案内されて着いたのは、大運河から一本外れた、静かな小運河沿いに建つ古い石造りの建物だった。
一階は絵の具やキャンバスの匂いが漂う雑多なアトリエ。二階が簡単な居住スペースになっている。
「汚くてすみません! 今、スープ温めますね!」
ミーナはエプロンをキュッと結び直し、テキパキと台所で働き始めた。
エレナはアトリエに飾られた絵画を眺めた。
どれも素晴らしい出来栄えだった。水上都市の光と影、波の煌めき、人々の生き生きとした表情。だが、どこか一枚の絵だけが、他の絵とは違う異彩を放っていた。
アトリエの隅に置かれた、未完成の大作。
それは、漆黒のドレスを着た、妖艶で恐ろしいほど美しい女性の肖像画だった。しかし、その顔の部分だけが、まるで血のような赤黒い絵の具で塗りつぶされている。
(……なんだ、この不気味な絵は?)
エレナがその絵に見入っていると、スープを持ってきたミーナがハッとして、慌ててその絵に布を被せた。
「あ……すみません、エレナ様! 嫌なもの見せちゃいましたよね……!」
「いえ……素晴らしい画力だと思いましたわ。でも、どうして顔が塗りつぶされているの?」
ミーナはスープの皿をテーブルに置くと、暗い表情で視線を落とした。
「……あれは、今度開催される『アクアリア水上美術展』に出品する予定だった絵なんです。モデルは……この街の最高権力者であるギルドマスター、シトリー様」
「シトリー……?」
「はい。四十代とは思えないほど若々しく美しく、この街の美術と観光を一手仕切っている大富豪の女性です。でも……私、あの人の絵を描いていると、胸が苦しくなるんです。まるで……魂を削られているような……」
ミーナは自分の手を強く握りしめた。
「シトリー様は、私の才能を認めてくれて、アトリエの資金も援助してくれています。でも……あの人の屋敷に通うようになってから、急に手が震えるようになって……頭痛がして……。最近じゃ、街のあちこちで、若くて綺麗なモデルの女の子たちが相次いで行方不明になっているんです」
(ほう……きな臭い匂いがプンプンするな)
エレナはスープを一口啜りながら、冷静に思考を巡らせた。
富と権力を持つ女性ギルドマスター。若く美しい少女たちの失踪。そして、モデルを務めたミーナの体調不良と、顔を塗りつぶされた不気味な肖像画。
(典型的な『若返りの秘術』か『美貌を保つための生贄』パターンだな。異世界ファンタジーじゃよくあるベタな展開だ)
「警察(自警団)には相談しなかったの?」
「しました! でも……シトリー様は街の最大の大同盟のパトロンなんです。自警団も警察も、誰もシトリー様を疑おうとしません。『女の子たちは駆け駆け落ちでもしたんだろう』って……」
ミーナの青い瞳に、悔し涙が浮かぶ。
「私、怖くって……。でも、あのお屋敷には、私の後輩のモデルの女の子……アリアちゃんも雇われているんです。もしアリアちゃんまで消えちゃったらと思うと……!」
(面倒くさい。超絶面倒くさい)
エレナは心の中で盛大に嫌顔をした。
俺はただ、タダ飯を食って、観光地で水着でも着て優雅にバカンスを過ごしたかっただけなのだ。なぜ行く先々でこういうダークな事件に巻き込まれるのか。
だが——ミーナはポンと、エレナの前に一つの小さな箱を置いた。
「これ……泥棒から取り返してもらった御礼です。私の家系に代々伝わる、魔導の触媒になる『極上の水真珠』なんです」
箱が開かれる。
中には、妖しく虹色に輝く、親指大の巨大な真珠が入っていた。市場に出せば、金貨数百枚は下らない国宝級の逸品だ。
(……よし、交渉成立だ)
エレナは一瞬で「正義と慈愛に満ちた美少女」の顔を作った。
「ミーナさん。私に任せてくださいな。そのシトリーという女性……少し調べてみましょう」
「エレナ様……! でも、相手は恐ろしい権力者です! 危険すぎます!」
「ふふ、大丈夫ですよ。私、こう見えても……結構『強い』ですから」
エレナは可憐に微笑み、真珠をちゃっかりと懐に仕舞い込んだのだった。




