第十二話 銀糸の風、水上の都へ
湖を渡る風は、水面を滑るにつれて湿り気を帯び、やがて潮気と果実酒、そして人間どもが織りなす熱気の匂いへと変化していった。
大陸西海岸に君臨する巨大水上都市『アクアリア』。
幾重にも張り巡らされた運河と、それを繋ぐ数千の石造りの橋。運河を往来する無数のゴンドラや大型魔導船、色鮮やかな日よけタープを掲げた水上市場、そして「水の都」の名に恥じぬ白亜の宮殿群。ルブラン王国の交易の要衝であり、富と欲望、そして古今東西の怪しい噂が集集するこの大都市は、遠目から見ればまるで水上に浮かぶ巨大な真珠の首飾りであった。
その中央大運河を往く大型旅客船の甲板。
船首の手すりに身を乗り出し、爽やかな風に銀髪をなびかせている一人の旅人がいた。
細身で引き締まった長脚を包む上質な黒革のパンツ。背中には旅慣れた革のリュックサック。ジャケットの裾を軽やかに翻し、肩まで伸びた銀糸の髪を揺らすその姿は、通りすがる乗客や船員たちの視線を一瞬で釘付けにしていた。
透き通るような白磁の肌に、夕陽を受けて妖しく輝く血のように赤い瞳。
銀髪赤眼の魔法使い——エレナ。
(……ふぅ。ルテティアの町を離れて三日。船旅ってのはどうにも暇でいかんな。だが、ようやく着いたか)
エレナは心の内で、低くサバサバとした「アラサー男」の声を漏らし、静かに溜息をついた。
トラックに跳ねられて異世界へ転生し、目覚めたら絶世の美少女になっていたあの日から十五年。自認はどこまでも一人のしがない男のままだが、この圧倒的に恵まれた容姿と、元・男ゆえの酷薄なまでの計算高さを武器に、世の男どもを手玉に取って生きてきた。
先日のルティナ湖での騒動では、地元の富豪の娘であり魔法学園の優等生でもあるリリィという少女に「憧れのお姉さま」として懐かれ、水竜退治の手柄をすべて彼女に押し付けることで、面倒な有名税を回避。ついでに彼女の父親から大量の金貨と「アクアリア名士の紹介状」をせしめてきたのだった。
(あのバカ親父、娘を救われたからって金貨五百枚に紹介状まで付けてくれるとはな。おかげでこの船の特等室もタダ同然、アクアリアでの滞在費も当分は困らん。クックック……やっぱり『可憐で勇敢な美少女魔法使い』の皮は被っておくもんだぜ)
エレナは心の中で悪魔のような笑みを浮かべつつ、表面上は儚げで優雅な美少女の笑みを崩さない。
船が港へと接岸し、巨大なタラップが下ろされる。
エレナが軽やかな足取りでタラップを渡り、アクアリアのメインストリート『大運河通り』へと足を踏み入れた瞬間だった。
「キャーッ! 泥棒! 誰か、泥棒を捕まえてーっ!」
甲高い悲鳴が、雑踏を切り裂いた。
見れば、水上市場の露店から、小汚い服を着た痩せ型の男がスケッチブックと小さな革袋を抱えて猛スピードで走ってくる。後ろからは、果物屋の店主と思われる太ったおじさんが息を切らせて追いかけていた。
「どけっ、どけえぇぇっ!」
男は周囲の人間を突き飛ばしながら、一直線にエレナの方へと向かってくる。逃走ルートの先には、運河に繋がる小さな小道。あそこに飛び込まれたら、ゴンドラに乗って逃げ切られてしまうだろう。
(……面倒くさい。関わらんとこ)
エレナは即座にそう判断し、横へ一歩かわして道を譲ろうとした。
だが、運悪く。
男が突き飛ばした通行人の肘が、エレナの肩に強く当たった。
その反動で——エレナが懐に大事にしまっていた、先日のリリィの父親から貰った「紹介状」と、旅の途中で買った高級な焼き菓子(一個金貨一版もする極上のマドレーヌ)が、手元から滑り落ちた。
ポチャン。
マドレーヌと紹介状は、見事に運河のドブ泥が混ざった汚水の中へと沈んでいった。
(…………………………あ?)
エレナの脳内で、何かが「ブチッ」と音を立てて切れた。
俺の……俺の高級マドレーヌが。そして俺のタダ飯手形が。
「おい、泥棒」
エレナは低く、地獄の底から響くような声(を、可憐な少女の声に極限まで冷たく変換して)を発した。
逃げ去ろうとする男の足元へ、エレナは指先をすっと向けた。
「——『氷槍の局部凍結』」
無詠唱。
パチン、と小さな乾いた音が響いた瞬間、男が踏み出した右足の靴底と、石畳の隙間に溜まった水滴が一瞬で絶対零度の氷と化し、強力に接着された。
「ひぎゃっ!?」
前傾姿勢で猛ダッシュしていた男は、右足を強力に固定されたことで勢いを殺しきれず、派手に空中を一回転して石畳へと顔面から叩きつけられた。
ゴツン! と鈍い音が響き、スケッチブックと革袋が手元から転がり出る。
「ぐ、あ……あしが……動か……」
鼻血を流して悶絶する男の前に、黒革のブーツを履いた長脚がすっと静かに佇んだ。
見上げれば、夕陽を背にした銀髪の悪魔——いや、絶世の美少女が、見下ろすような蔑みの視線を投げかけている。
「人の食べ物と、大事な書類を汚した罪は重いですわよ?」
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
男はその圧に恐怖し、白目を剥いて気絶した。
「おいおい、一瞬で足元を凍らせただと!?」
「無詠唱の氷魔法……! あの銀髪の女の子、タダ者じゃねえぞ!」
周囲の野次馬から歓声とどよめきが湧き起こる。
エレナは深呼吸をし、一瞬で「可憐で正義感あふれる美少女魔法使い」のモードへと戻すと、転がった革袋とスケッチブックを拾い上げた。
「これ、店主さん。あなたの物でしょう?」
「あ、ああ! ありがとう、お嬢ちゃん! 助かったよ! この男、最近街で噂のコソ泥でね……って、あれ?」
追いかけてきた店主が駆け寄り、男の抱えていたスケッチブックを見て首を傾げた。
「スケッチブック……? なんだこりゃ、盗品か?」
「……ええ。こちらのようですね」
エレナはパラパラとスケッチブックをめくった。
そこには、繊細かつ緻密なタッチで描かれた、アクアリアの美しい水辺の風景や、街の人々の日常が描かれていた。そして、最後のページには——。
(ん……? これ、どこかで見たようなタッチだな)
大きな丸眼鏡をかけ、三つ編みを結った、どこかドジそうな少女のスケッチ。
隅には、小さなサインが書かれていた。
『――リリィ・アルノーへ。大好きな親友より』
(……リリィの知り合いか?)
エレナが眉をひそめたその時、スケッチブックの持ち主と思われる人物が、息を切らせて小道から飛び出してきた。
「はぁ、はぁ……っ! 待ちなさい、泥棒……っ! 私のスケッチブックを返しなさ……いっ!」
その声に、エレナは振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。




