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第十話 湖底の蠢動と水神の試練


 午後になり、太陽が傾き始めた頃。

 二人はリリィの言っていた『青の洞窟』へと船を進めていた。

 切り立った崖の根元に空いた小さな洞門を潜ると、そこは言葉を失うほどの絶景だった。

入り口から差し込む太陽光が、透明度の高い湖底の白い砂に反射し、洞窟内の水面と岩肌を、まるで巨大なサファイアの内側にいるかのように深く青く染め上げている。


「綺麗……本当にサファイアの中にいるみたい……」


 エレナはボートの縁に手をかけ、感嘆の息を漏らした。


「でしょう! ここ、誰にも教えたくない私の宝物なんです」


 リリィが得意気に胸を張る。

 だが、その瞬間。


 ゴゴゴゴゴゴ……!


 洞窟の奥深くから、不気味な振動が響き渡った。


「え……? 地震……!?」


 リリィが青ざめる。

 湖面が激しく泡立ち、青く澄んでいた水が、一瞬で濁った黒紫色へと濁っていった。ボートが激しく揺れ、崖の天井から小石がパラパラと落ちてくる。


「リリィさん、船を下げて! 入り口へ!」


 エレナが叫んだ。しかし、時すでに遅く、洞窟の入り口の岩盤が崩落し、落石が巨大な音を立ててボートの逃げ道を完全に塞いでしまった。


「嫌……! 閉じ込められちゃった……!?」


 パニックになるリリィ。

 そして、泡立つ水面の中から、それ」が姿を現した。


 体長十メートルを超える、巨大な水蛇——『水竜モナーク・サーペント』。

 鋭い青い鱗に包まれた巨躯、頭部には王冠のような二本の角。そして、爛々と赤く光る四つの目。このルティナ湖の底深くに数百年間封印されていたとされる、古代の水中魔獣だった。


「グオォォォォォォン!!!」


 洞窟内に鼓膜を割るような咆哮が轟く。


「ひ、ひぃぃぃっ! 水竜……!? なんでこんな場所に……!?」


 リリィは腰を抜かし、ボートのデッキに倒れ込んだ。


(チッ……まーたこれか! なんで俺が観光地で羽根を伸ばそうとすると、都合よく古代の魔獣が目覚めるんだよ!)


 エレナは心の中で激しく悪態をついた。

 現在の装いは、先ほどまでの水着の上に、濡れたジャケットを羽織っただけの心許ない格好。魔法杖すらボートのキャビンの中に置いたままだ。


「リリィさん、ボートの陰に隠れていてください!」


「エ、エレナ様!? ダメです、あんなの勝てるわけありません! 一緒に逃げ……逃げ道を探しましょう!」


「退路はありませんわ。ここで引き下がれば、二人ともあの蛇の胃袋の中です」


 エレナは立ち上がり、水着姿のまま、ボートの先端へと進み出た。

 濡れた銀髪が背中に張り付き、夕陽と水光を受けて妖しく光る。その瞳から「可憐な少女」の光が消え、絶対的な強者の冷徹な光が宿った。


(水中戦か……地上よりやりづらいな。だが、水属性の魔法なら、この場所は触媒に困らない)


 水竜が、巨大な顎を開いてボートごと二人を呑み込もうと襲いかかってきた。


「エレナ様ぁぁぁ!」


 リリィの悲鳴。

 エレナは一歩も引かず、素手の手のひらを迫り来る水竜へとかざした。


「——凍れ」


 無詠唱。

 エレナの指先から放たれたのは、絶対零度の冷気——『氷帝の息吹(アブソリュート・ゼロ)』。

 ズザザザザザァァァッ!

 迫り来る水竜の頭部から、噴き出していた水柱、果ては周囲の湖水に至るまでが一瞬にして凍りついた。水竜は顎を開いた体勢のまま、巨大な氷の彫刻となって空間に固定される。


「え……?」


 リリィが目を丸くした。


「一瞬で……湖を凍らせた……!? 杖もなしに……無詠唱で……!?」


 だが、相手は古代の魔獣だ。

 パリ、パリンッ!

 激しい亀裂の音が響き、厚い氷の壁を突き破って、水竜が狂乱の咆哮を上げた。


「グオオオオオン!」


 怒りに狂った水竜が、太い尾を鞭のように振るい、洞窟の壁を砕きながらエレナへ叩きつけられる。


(硬いな……やっぱり生半可な魔法じゃ表皮を貫けないか)


 エレナは軽やかに跳躍し、水竜の尾の攻撃を回避した。

 水着姿のしなやかな肢体が、空中で優雅に舞う。


(リリィが見てる前で、あまりグロテスクな殺し方はしたくないな。……一撃で蒸発させるか)


 エレナは空中で滞空しながら、両手で空中に複雑な魔法陣を描いた。

 杖がなくても問題ない。彼女の体内に流れる高密度の魔力そのものが、最高級の触媒なのだから。


「リリィさん!」


 空中で、エレナが叫んだ。


「魔法学園で習ったでしょう? 水と雷の相乗効果(コンボ)を!」


「え……? は、はいっ! 水の伝導性を利用した『雷撃強化』……!」


「私の放つ『場』に、あなたの持つ一番強い雷魔法を叩き込みなさい! 二人で、あの蛇を倒します!」


 エレナの声には、絶対的なカリスマ性が宿っていた。

 恐怖で震えていたリリィの胸に、激しい熱が湧き上がる。


(エレナ様が……私を頼ってくれている……! 私を、対等な魔法使いとして……!)


「はいっ……! はいっ、エレナ様!!」


 リリィは立ち上がり、右腕の巻物を広げ、全魔力を込めて詠唱を始めた。


「奔れ、雷の精霊! 我が叫びに応え、貫く矢となれ! 『雷撃槍(サンダー・ランス)』!!」


 リリィの指先から、一筋の黄色い雷光が放たれる。学園の二年生としては、上出来な威力の魔法だ。

 エレナはその雷光を見定めると、ニヤリと不敵に笑った。


(よし、いい狙いだ。そこに……俺の『極小収束・超高圧電流』を上乗せする!)


 エレナはリリィの放ったささやかな雷光に、自らの莫大な魔力を同調させ、数万倍へと増幅させた。

 表向きは「リリィの魔法をサポートした」ように見せかける、完璧なステルス増幅。


 ドガァァァァァァンッ!!!!


 リリィの雷撃が水竜の頭部に命中した瞬間、青の洞窟全体が眩い紫電の光に包まれた。

 水竜の巨躯を、億ボルトを超える超高圧電流が駆け巡る。水生魔獣にとって、雷は天敵だ。内臓から焼き尽くされた水竜は、一言の悲鳴も上げられず、青い光の粒子となって崩壊し、湖底へと消えていった。


 静寂が戻った。

 水竜が消滅したことで、濁っていた水は再び青く澄み渡り、天井の穴から差し込む夕陽が、湖面を黄金色に染めていた。


「やった……私……倒した……の……?」


 リリィは自分の手を見つめ、信じられない様子で震えていた。

 エレナが空から静かに舞い降り、ボートのデッキに着地した。濡れた水着とジャケットから滴が垂れ、黄金色の光を受けて輝いている。


「ええ、見事でしたわ、リリィさん。あなたの勇気と、素晴らしい雷魔法のおかげです」


 エレナは優しくリリィの頭を撫でた。


「エレナ……様……っ!」


 リリィは耐えきれず、エレナの胸元に飛び込んで泣き出した。


「怖かった……すごく怖かった……! でも、エレナ様が一緒にいてくれたから……私、戦えました……っ!」


(おおう……抱きつかれた。まあ、同性同士(と思われてる)だし、子供が泣いてるんだからこれくらいは許容範囲か)


 エレナは苦笑しながら、リリィの背中をトントンと優しく叩いてあやした。

 自分を憧れの対象として見つめ、一歩を踏み出した少女。

 前世の男時代の感覚から言えば、まるで年の離れた妹か、後輩の成長を見守るような、不思議な達成感があった。


(手柄は全部リリィにあげるとしよう。これで彼女は『水竜を倒した偉大な魔法使いの卵』として学園で一目置かれるようになる。そして私は……面倒な有名税を回避して、平和に観光を続けられる)


「さあ、崩れた岩の隙間から外へ出ましょう。街へ帰って、温かいスープでも飲みましょうね」


「はい……っ! はい、エレナ様!」


 リリィは涙を拭き、力強く頷いた。その瞳からは、もう以前のような弱々しさは完全に消え去っていた。

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