6
合コンの一件から一週間後、私は東條先輩とどう接していいのか悩んでいた。
AKIとしての東條先輩なら、女友達のように仲良く接することができる。けど、男としての東條先輩は——。普段は嫌味で意地悪な先輩だけど、根が優しい人なのはもうわかっている。
そんな先輩が、男の姿を見せている時、私はどうなってしまうんだろう。
「坂下、この新しいファンデーションの検査結果、どうなってる?」
思い悩んでいると、突然背後から声をかけられた。田中先輩だ。
田中先輩は私より四歳年上で、東條先輩と同期だ。人当たりはいいけれど、どこか要領の良さが鼻につく時がある。
「はい、こちらです」
私は週末に測定したデータをプリントアウトして渡した。新しいクッションファンデーション『シルキーグロウ』は、来月から発売予定の重要な製品だ。
「pHが6.2か。まあ、合格ラインの範囲内だな」
田中先輩はデータを一瞥して、そのままファイルに挟み込んだ。
「田中先輩、でもこの数値、ちょっと高めじゃないですか? 敏感肌の方には刺激になるかも」
私が気になったのは、その数値だった。会社の基準ではpHは弱酸性の範囲に決まっている。この数値は基準値範囲内だったけれど、少し高めだった。
「大丈夫だって。合格ラインなんだから問題ない。心配しすぎだろ」
田中先輩は軽い調子でそう言うと、ファイルを持って自分のデスクに戻っていった。
でも、なんとなく引っかかるものがあった。ファンデーションは毎日肌につけるもの。少しでも刺激が強いと、肌トラブルの原因になってしまう。
そんなことを考えながら仕事をしていると、翌々日になって大変なことが起きた。
「緊急事態だ!」
研究部長の佐々木部長が血相を変えて駆け込んできた。
「シルキーグロウのモニターテストで、三名の被験者に肌荒れが発生した。すぐに原因を調べろ」
部署内がざわめく。モニターテストは製品化前の最終チェック。ここで問題が出ると言うことは、発売中止になるかもしれない。
「田中! 坂下! お前らが検査担当だったな。すぐに全部調べなおせ」
「は、はい!」
部長の怒声が響く中、私たちは慌てて測定データを確認した。
「おかしいな。全部合格ラインのはずなんだけど」
田中先輩は青い顔で書類をめくっている。
私も手分けして確認していると、ふと気になることがあった。
測定に使った機械の点検記録を見ると、先週の木曜日にメンテナンスが行われている。私が測定したのは金曜日。
測定機械は、正しい数値を出すために定期的に「これが正解」という基準液で調整しなければならない。電極の状態や温度によって測定値がずれやすいからだ。
これを校正確認という。その校正確認を、メンテナンス後にちゃんとできているのだろうか?
「あ、田中先輩。測定機械のメンテナンス後の確認って、されました?」
「え? ああっ……」
田中先輩の顔が真っ青になった。
「まさか、機械の校正確認をしないで測定したのか?」
東條先輩が険しい表情で近づいてきた。
「い、いや、確認はしたよ。でも……」
「でも?」
「簡単なチェックはしたけど、きちんとした確認は……」
東條先輩の表情がさらに険しくなる。
「簡単なチェックだけじゃダメだろう。機械が正しく測定できているかちゃんと確認しなかったら、数値が間違っててもわからないじゃないか」
私は慌てて測定機械を調整し直し、改めて保存してあったファンデーションのサンプルを測り直してみる。
「6.8……」
私の声が震えた。基準値範囲を超えている。これでは肌への刺激が強すぎる。
「これじゃあ、敏感肌の人には確実に刺激になるな」
東條先輩が低い声でつぶやいた。
「でも、これは……」
田中先輩が何か言いかけた時、部長がやってきた。
「原因はわかったか?」
「はい」
東條先輩が答える。
「pHが基準範囲を大幅に超えていました。測定機械の校正確認をしていなかったのが原因です」
「何? 誰が担当だったんだ?」
「それは、坂下が測定を……」
田中先輩の言葉に、私は青ざめる。
「田中先輩!」
確かに測定は私がしたけれど、機械の管理は田中先輩の仕事のはずだ。
ミスの責任を擦りつけられる。そのことを察して、私の背筋は冷えた。
「田中がきちんと機械の校正確認をしていれば防げた問題のはずだ」
東條先輩が冷たい声で割り込んだ。
「東條……! でも、測定をしたのは坂下で……」
「測定する人と機械を管理する人は別だ。それに、坂下は月曜の朝に『数値が高めじゃないか』と指摘していた。その時点で調べ直していれば問題なかった」
東條先輩の言葉に、田中先輩は言葉を失った。
「部長、責任の所在をはっきりさせましょう」
東條先輩が厳しい声音で続ける。
「測定機械の管理は田中の担当業務です。坂下は正しく測定し、さらに結果を疑問視していた。問題は機械の管理ミスにあります」
「そうか……田中、お前の管理不備だな」
部長の厳しい視線が田中先輩に向けられた。
「申し訳ございません……」
田中先輩は、おとなしく頭を下げる。
私は自分に責任をなすりつけられそうになったのが許せなかったけれど、それを今言っても仕方がない。
なんとか東條先輩のおかげで首の皮が繋がったと思って、一つ息をついた。
「次からはきちんと気をつけろ。今回の件は査定に響くぞ」
「はい……」
部長が去った後、田中先輩は私のことを睨みつけた。
「余計なこと言わなくても良かったんじゃないか?」
「田中先輩……」
「お前のせいで、俺が怒られることになった」
理不尽な言いがかりに、私は言葉を失った。
「何言ってるんだ、田中」
東條先輩が、田中先輩の視線を遮るように、私と田中先輩の間に割り込む。
「坂下は正しいことをしただけだ。お前が最初からちゃんと仕事をしていれば起きなかった問題を、後輩に責任転嫁するな」
「東條、お前は坂下の味方ばかりして……」
「坂下の、じゃない。正しい方の味方をしているだけだ。それに」
東條先輩の声が少し低くなった。
「化粧品は女性の肌に直接つけるものだ。合格ラインだから大丈夫と適当に済ませるような仕事をされたら困る。坂下の慎重さの方がよっぽど信頼できる」
田中先輩は何も言い返せず、自分のデスクに戻っていった。
「ありがとうございます、東條先輩」
私がお礼を言うと、東條先輩は振り返った。
「当たり前のことをしただけだ。だが、坂下」
「はい」
「お前の指摘は正しかった。だが、もっと強く主張するべきだ。数値に疑問を持ったなら、遠慮しないでもっとはっきりいえ」
「でも……田中先輩は年上だし、経験もあるし……」
「年上だろうがなんだろうが、間違いは間違いだ。化粧品の研究に上下は関係はない。化粧品は、人の肌を預かる仕事だ。妥協は許されない。お前のその慎重さをもっと自信を持って前面に出せ」
「は、はい!」
その日の夕方、残業をしている時に、東條先輩が私のデスクにやってきた。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。……今日はよく頑張ったな」
「ありがとうございます」
東條先輩は周りを見回してから、小声で言った。
「由梨、今日みたいに正しいことを主張した時のキリッとした顔、素敵よ」
一瞬、AKIの口調が混じった。
「え?」
「あ、いや……その、自信を持てって言いたかっただけだ」
東條先輩は慌てて男性の口調に戻したが、頬が少し赤くなっている。
私は胸が少し高鳴ってしまった。東條先輩は、普段は厳しいけれど、本当は私のことを気にかけてくれている。
それがとても嬉しい。
「東條先輩……」
「なんだ?」
「守ってくれて、ありがとうございます」
私がぺこりと頭を下げると、先輩はますます頬を赤らめた。
「べ、別に守ったわけじゃない! 俺はただミスを擦りつけようとする田中が気に食わなかっただけだっ」
東條先輩は、そっぽを向きながら「まあ、またなんかあったら俺に言えよ」と小さくつぶやいた。




