感想戦は、ほどほどに
振替休日の月曜日、真人は実習の報告書を書き始めた。水曜日のラスト二コマが、教育実習生として受け持つ、最初で最後の図工の授業になる。
実習期間、真人の頭をずっと悩ませていたのは、研究授業の題材だった。
別に、技術を教えたいわけじゃない。
物の見え方は違っていい。やり方だって好きにすればいい。これが正解なんだとお手本を見せるのは、尊大な感じがする。
真人は悩みに悩んで、最終的には、自分のやりたいことをやるしかないと腹を括った。
「わかった。でも、本当に大丈夫?」
相談された松下先生は心配そうな表情を浮かべていた。
火曜日の放課後、真人は図書室開放の立ち会いを頼まれた。
騒ぐ子がいたら注意するよう言われていたが、鍵を開けてしばらく経っても、児童はひとりも来ない。外からは校庭で遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえてくるというのに。
つまらなそうに整列する本を一冊ずつ取り出しては、真人は丁寧に埃を払った。
全部置いてきてしまったけれど、実家の部屋には、たくさんの児童書が並んでいる。今の子たちの家には、どんな本が並んでいるのだろう。
あった、『扉の向こうの物語』。
見返しから図書カードを取り出すと、貸出履歴の少なさに真人はがっくりと肩を落とした。
作者の岡田淳氏。執筆活動と並行して図工の先生をやっていた人だ。
こんな先生がいたら、皆好きになっちゃうだろうなあ。
ふと、作品棚のなかに、『ごんぎつね』を見つけて、真人は唇を舐めた。
昔、感想を言って怒られたなあ。
国語の授業で『ごんぎつね』を読み、順番に一人ずつ席から立ち上がって発言しなければならなかったとき、小学四年生の真人はこう言った。
「ごんが羨ましいなあと思いました」
他の子が息を呑む音が聞こえた。
その後、先生に呼び出された。
「命をなんだと思っているんですか」
お母さんとも少しお話したいと思います、と先生が言うので、真人は咄嗟に何度も謝った。
岡田淳先生だったら、あのときの自分に何て声をかけただろうか。
真人がそっと棚に戻していると、
「あ、真人先生じゃん」
静寂の図書室に快活な声が響いた。
「いずみさん。こんにちは」
「だーれもいないんだけど。うける。先生暇?」
「うん、見ての通り。いずみさん、本借りにきたの?」
「ちがうのー。わたしも暇で。運動会終わったら、なんか空気変わるよね」
いずみが言いながら上履きを脱ぎ、図書室に上がった。
「運動会お疲れ様。エイサー、午後一番目の競技だったんだね。見たかったんだけどな」
「聞いたよ、先生。熱中症になったんでしょ?」
いずみはランドセルを児童用の六角形のテーブルに置くと、当然かのように真人の座る教卓に椅子を持ってきて、向かい合わせに座った。
「なった。ださいね」
「面白かったよ、リレー。石田先生、悔しかっただろうね。真人先生が最後逃げ切ってスカッとした」
いずみは言いながら笑った。
「いずみさんは、徒競走出た?」
「ううん。出てない。何で?」
「徒競走……男女一緒だったなと思って」
「ああ。そうだね。最近変わったかな」
「……そうなんだ」
「何? 何か気になるの?」
真人は少し迷ってから、口を開いた。
「いずみさん、男子と走るの、嫌じゃない?」
「別に。嫌じゃない」
「そっか……」
真人は視線を落とした。
「あ、でもね。わたしは嫌じゃないけど、嫌な女子は結構いると思うな」
いずみがそう呟くと、真人ははっと顔を上げた。
「真人先生は、嫌な人がいたかも、って思ったの?」
「うん。そうかも。でも、話していいのかなあ」
「話してみなよ。わたしにうまく説明できたら、たぶん他の人にも伝わるんじゃない?」
いずみに促され、真人はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
タイムが近いメンバーで組まれる徒競走。
赤組・白組で分けるのに、勝敗が発表されない閉会式。
「配慮の時代だから」という先生たちの言葉で、それらは納得したつもりでいた。
でも、男女混合の徒競走は、運動会後の振休を経てもなお、心に引っかかったままだった。
「徒競走って、横並びで走る競技でしょ」
「うん」
「位置について並んだときも、そのあと走っている間も。相手の息遣いとか、筋肉の動きが近いなって」
「なるほどね。女子からしたら、男子との距離が怖いかもって、先生は思ったってことだ」
真人は頷いた。
「そう。まさに。あとは、ぼく自身も、女子に自分のそういうところを見せてしまうのは、嫌な感じがする。いずみさんは、『自分は気にしないけど、他の子は気にするかも』って言ったね」
「うん。言った。女子ってさ、男子のことをうっすら嫌いじゃん」
真人の胸に、いずみの言葉が思い切り直撃した。
わかりやすく言葉を失っている真人に、いずみはくしゃっと笑った。
「ごめんごめん。言い方きつかった。違うの、なんていうかなー。『不用意に近づかないでよ』って呆れてる感じ」
「不用意?」
「男子にも色々いるじゃん。大人しいやつも、乱暴なやつも。だから私だって、乱暴な男子と隣だったら、警戒するかも」
「……なるほど」
「そういうの嫌で、集団競技を選択してる子もいると思うよ」
「そっか。あれ、でも……玉入れはセーフだと思う?」
「玉入れ? あれはセーフでしょ」
「じゃあ、棒引きは?」
「棒引きは……グレーじゃない?」
「グレー」
真人の復唱にいずみは苦笑した。
「だって、力強い男子と同じ棒になったら普通に怖いし。でもね、嫌ならその棒に行かなきゃいいし、友達のところに加勢することもできるじゃん?」
「……なるほど。戦略で避けられるのか」
真人が深く頷くと、いずみは堪らず笑い出した。
「先生、まじうける。普通、そういうことまで考えないよ。運動会のこと、好きすぎでしょ」
いずみは笑い疲れたとでもいうように、はあ、と笑顔で大きく息を吐いたが、真人の顔は浮かなかった。
「てかさ、そんなことずーっと考えてこの週末過ごしてたの?」
俯く真人をいずみが呆れたような顔で覗き込んだ。
「うん、過ごしてた。なんか、昔からそうなんだ。自分の引っかかったことを一つずつ解かないと次に進めない」
もう、世の中は次のことで回りはじめてるのに。
真人は言いながら小さくため息をついた。
「ま、それが真人先生の良いところなんじゃないの?」
いずみはそう言うと、ランドセルを掴んでさっと立ち上がった。
「真人先生と話せて良かった。先生、がんばって! 私、先生のそういうウジウジしたとこ、結構好きだから」
*
学校からの帰宅途中、真人は立川駅北口のディスクユニオンへ向かった。
CDショップに行くなんて、何年ぶりだろう。
晃のグループのCDが売っているか、ちょっと覗いてみようと思ったのだ。明日の実習最終日に向けて、緊張をほぐしたかったというのもある。
階段を上って店舗の中に入ると、色んな音が混線していて落ち着かない。真人は“あ”行の棚へと直行した。
──あった、ARC。新譜のアルバムがでかでかと平積みされて、手書きのポップには“祝⭐︎五周年”と書いてあった。
ジャケットには、黒いクラシックカーに凭れたスーツ姿の三人組のシルエット。一番右側で、惜しげもなくスタイルの良さを披露しながら、カメラに向かってガンを飛ばしているのが晃だった。
……ARCって、アイドルなんだよな。
真人は運動会のBGMで流れていたARCの曲を思い出した。
なんか、ベースとサックスの音がしてた気がする。あと、トロンボーン。
アイドルって、そもそも何なんだっけ。
「愛してるぜ」とか「マイハニー!」とか、そういうのじゃないのか?
そんな言葉を晃が叫んでいる姿を想像して、真人はうげっと青ざめた。
恐る恐る、試聴コーナーのヘッドフォンを耳に当て、再生ボタンを押す。
俺等はARC。放て三つの閃光
いきなりの名乗り口上。まるで呪文じゃないか。
ビート音と共にエレキギターが泣いて、疾走するかのように三人の歌声が流れて行く。かなりロックなサウンドだ。
なんだ、これ。
おれの知ってる「アイドル」じゃない。
今から変身して敵をなぎ倒すわけでもあるまいし。なぜこんなに喧嘩腰なのか。
これは、かっこいい……のか?
歌詞の中にARCってグループ名が何度も出てくる。これはデビュー曲なのだろうか。
晃のソロパートを待つうちに、試聴曲は途中でぷつりと途絶えてしまった。
ヘッドフォンを外しながら、いち友人として、買って応援するべきかと考える。
CDプレイヤー、家にないんだけども。
パソコンで聴くか? いや、聴かないな。
ていうか、邦楽なんか、最近全然聞いてないなぁ。
真人の感情はあっという間に急降下していく。
今日は色々やらかしてしまった。
いや、今日も、か。
廊下を歩いている途中、背中からひかりに抱きつかれて、そのまま転倒した。
子どもに怪我がなくてよかったが、受け身を取れずに胸を強打してしまって、まだ肋骨が痛い。
ひかりは松下先生にこっぴどく叱られてしまった。自分の反射神経の鈍さが、話を大きくしてしまった。
音楽の授業は最悪だった。
専科の先生が弾くピアノに合わせて、子どもたちは楽しそうに『やさしさに包まれたなら』歌っていた。ふいに「神谷先生も歌いませんか?」と先生に言われて、はっきり断ってしまった。
あのときの、子どもたちの不安そうな顔。
先生の「前から思ってたけど、私のこと嫌いでしょ」という静かな怒りの顔。
違う。
先生のことが嫌いなんじゃなくて、先生の苗字がどうしても無理だったのだ。
漢字は違うけど、呼び方が同じせいで、ついぞ一度も話しかけられなかった。悪いことをした。
こんな調子で、先生なんてやれるのかな。
一度でも芸能の世界に足を突っ込んだ人間が、普通の生活ができると思うな。
ふいに、瓶子の言葉が過ぎって、真人は目眩がした。
歌う資格のない自分には、ジャケットに写る晃が眩しかった。
CDショップの晃にバイバイと小さく手を振って、真人はとぼとぼと階段を降りた。
一階のローソンでたい焼きカスタードをちらっと見て、家までの道のりを歩いた。
*
音楽番組の収録はまだ続いている。
セット転換の合間、晃は楽屋のソファに腰を下ろし、残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
晃の所属する総合エンターテイメント事務所、WAYPOINTは、創業者の鷹見尚が二十年前にひとりで立ち上げた事務所。
世界に通用する“アイドル”を作る――それが尚の口癖だった。
今や毎日慌ただしく活動しているARCだが、発足当時は全く売れる気配がなく、レッスンの傍ら外部オーディションを受けては落ち続ける日々だった。
六年前、ARCのメジャーデビューを見届けた尚が引退するのと入れ替わりで、どこからともなくふらっと現れたのが、現社長の鷹見紫乃。尚の義理の娘らしい。
芸能人でも通用しそうな顔立ちだが、いつも機嫌が悪く、言葉は全て命令口調。
晃を含めた身内からは、畏敬の念を込めて「将軍」と呼ばれている。
一方、望月の嫌う瓶子が社長を務めているのは、御域プロダクション。
優秀な俳優を定期的に輩出していて、晃も御域所属の俳優とは何度か共演歴がある。
そして、晃は知っている。
かつて、将軍が御域プロの親会社、ブレイムエージェンシーに居たことを。
細かい時期は不明。だが、かつてその件に触れたスタッフが、見るも無惨な姿で社長室から出てきたらしいと、年配の俳優から聞いて以来、晃はこの話を誰ともしたことがない。
瓶子からの“お礼”と言う名の、おそらく食事会。それを鷹見がにべもなく断ったという事実が、晃の中で引っかかっていた。
──あの将軍が、「御域とは距離を置け」と言っている。
晃は、瓶子の顔を知らない。当たり前だ。
晃のような若手アイドルが出る番組の収録で他所の社長とばったり出会うことなど、皆無に等しい。
瓶子への態度を見るかぎり、将軍がBAを辞めた経緯も、やはり円満ではなかったのだろうか。
喧嘩別れで独立なんてこの業界ではよくある話だし、将軍の経歴なんて気にもとめなかったが、こうなってみると神谷真人のことをどう思っているのか、将軍に聞いてみたい気もする。怖くて聞けないが。
やんごとなき方々の事情を考えるのはほどほどにして、晃は空になったカップをテーブルへ置き、真人とのLINEトークを読み返した。
サイゼリヤで晃が本を読んでいたことを覚えていたらしく、そこから読書の話題で盛り上がっている。
『晃さんは読書家なんですね?』
『はい。わりと』
『さすが自認聖司くんですね! どんなジャンルですか』
『純文学系。わりと昔の作品が好きです』
『太宰治とか中島敦ですか?✨』
『半分正解です。太宰は苦手です』
『おれはどっちも好きです☺️』
太宰もいける口か、真人。
あれの何がいいんだよ。自己憐憫のかたまりじゃん。
晃は口を尖らせながらメッセージを打ち込んだ。
『司馬遼太郎とか、遠藤周作。あとは吉村昭も読みます』
『吉村昭!』
続けて、インコの化け物じみたキャラクターが号泣するスタンプが送られてきた。
──何このスタンプは。どういう感情だよ。
晃にはわかったことがある。
真人は返信を溜めない派で、人の返信を抱えること自体がストレスなタイプ。そして多分、友達付き合いもそれほど多くない。
だから、一度始まった会話がぽんぽんと進むのはとても楽しい。
晃もLINEの返信が来るたびに、どの角度からからかってやろうかと虎視眈々と狙っているのだが、心なしか現実世界と画面の中ではパワーバランスが逆転している気がしなくもない。
おそらく、今は教育実習の時間で返信が止まっている。下校時刻になったら、たぶんまた連絡がくる。
だからこうして貴重な休憩時間のソファに座ってトーク画面を開き、待機している。
お、来た来た。
『今日は図書館開放のお手伝いしてました。結果、誰一人として読みに来ず。
晃さんは子どもの頃児童書は読まれましたか?』
『真人の好きな作家は?』
『うあああ書き切れない! 金子みすゞ、新美南吉、重松清……
吉村昭さんの系譜だと、大石真とか今西祐行とかも好きです!』
ほーん。基本は児童文学系なんだ。
先ほどのインコスタンプにリプライをつけて、晃は質問した。
『吉村昭へのこれは、どういう感情?』
『吉村昭さん、奥さんとめちゃ仲良しなんです! そこが個人的激アツポイントです』
晃はがっくりと肩を落とした。
──中身じゃなくて、そこかよ。
『吉村昭書斎って知ってる? 最近吉祥寺にできたとこ。あそこ、おれ行きたい』
「吉村しょうしょさい?」
耳元に声を吹きかけられて、晃は思いっきり身体をのけぞった。
夢中になってて気づかなかった。宗馬、いつから居た。
「宗馬。ダメだって言ったろ、人のスマホを勝手に覗き込んじゃ」
晃が苦笑いしながら諭すが、宗馬は目をキラキラと輝かせて食い下がった。
「晃、誰とLINEしてるの? 吉祥寺でデートするの?」
「……は?」
「凌也が言ってたんだよ。ここ数日、晃がニヤニヤしてるって。こっそり女の子と会ってるに違いないって。当たり?」
晃はわなわなと肩を振るわせた。
「デートではない! 相手は男だ!」
「あれ、そうなのか。じゃあ、吉祥寺で何するの? 吉村なんたらってなに?」
「悪い、宗馬。今相手してる場合じゃねーんだ」
晃が背中を向けてスマホに向き直ると、宗馬が背中に乗っかってきた。
「重い! ヤメロ」
「やっぱり彼女でしょ。ねえ、可愛い? 教えてよ。凌也が言ってたもん、スカイウォーカーに夜明けが来たぞって」
可愛い? じゃねーよ。スター・ウォーズの話すんな。おれは今、真人と文学について語り合ってんだよ。
「いいか、宗馬。いくら身内とはいえ、スマホを覗くのはマナー違反。やましいことがなくても、だ。わかったな!」
晃が宗馬の鼻先にビシッと指を立てた。
「……凌也には黙ってた方がいい?」
「勝手にしろ」
宗馬なんぞにかまけている場合ではない。今やり合ってる間にも返信のバイブが鳴っていた。
晃はソファをカニ歩きで端っこまで移動して、もう一度トーク画面を開いた。
『いいですねー! ぜひ行ってみてください。感想も教えてくださいね』
……あれ?
いや、違う。何でおれがひとりで行くことになってんの。
晃はトーク画面を上からなぞった。どこで掛け違えた。
『吉村昭書斎て知ってる? 最近吉祥寺にできたとこ。あそこ、おれ行きたい』
どう考えても、“一緒に”の含みがあるだろ。
少なくとも晃はそういうつもりだった。
しかし、真人の返事を読んで改めて考えると、同行前提で呑気に構えていた自分がひどく間抜けに思えてきた。
晃はとりなおして、再び文字を打ち込んだ。
『タイミング合えば一緒にどう?』
返事が来るまでの数秒が、やけに長く感じる。
『いいんですか? 行きたいです!』
『教育実習が明日最終日なので、それが終わったらかなり楽になります。
多忙な晃さんの都合に合わせるので、空いてる日教えてください』
顔のパーツが顔の中心にぎゅっと寄った不気味なキャラが睡眠時間を吐露しているスタンプと、バンザイしているトトロ三人集にどんぐりが降り注ぐスタンプが連続で表示された。
思わず口元を押さえてニヤける晃の横顔に、宗馬はぽかんと口を開けた。




