イタリア料理を食べに行こう
六年生の代表児童が壇上に上がり、マイクを通じて閉会宣言を高らかに告げると、夕方の校庭に拍手が鳴り響いた。
「神谷先生、本当にお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
ポロシャツ姿の副校長が、片付けを手伝う真人に声をかけた。
「実習日数に入らないのに、色々お願いして申し訳なかったです」
「いえ、熱中症は完全に僕の落ち度です。それも含めて、勉強になりました」
正職員の先生たちはこれから駅の居酒屋で打ち上げだそうで、真人も誘われたが丁重に断った。
……先生たち、駅で飲むのか。
鉢合わせしたらまずいなぁ。
真人は意を決して、鏡の前に立った。
校舎トイレの鏡に映った己の姿に、心臓が跳ねる。
土埃とラインの粉で白くなったジャージと、汗で汚れたボサボサの髪。
こんなことなら、着替えを持ってくれば良かった。しかし今更言っても仕方ない。
「サイゼリヤに来て」だって。
ずいぶん粗食なメルエムだなあ。
……あれ?
おれ、尻軽? 足軽? なんかこう、都合よく呼び出されてないか?
ま、いっか。
真人はクスッと笑って、鏡から目を逸らした。
日野駅までの道を小走りで急ぐと、息が上がる。
駅前の長細いビルの二階部分に、サイゼリヤの特徴的な三色の看板が見えた。
建物の階段を上ると、店舗の入り口には入店待ちの列ができていた。
あの人、もう中に居るのかな。
真人は列に頭を下げて、そそくさとドアを開けた。
道路に面した大きな窓から、オレンジ色の空が滲んでいる。
その一番奥のボックス席に、青年が座っているのが見えた。
入り口側に体を向け、ネイビーキャップを被ったまま、紙のブックカバーをかけた文庫本を読んでいる。その耳元に、白いワイヤレスイヤホンが光っていた。
真人がおずおずと歩み寄ると、青年は片方のイヤホンを指先でそっと摘み出し、ちら、と一瞥して、「座って」とだけ促した。
言われるまま座ると、また一言。
「水、飲みなよ」
席の前には、水の注がれたグラスが既に置かれていた。
真人がおずおずとグラスを口に運ぶ様子を、青年は文庫本を手にしたままじっと見ていた。
水を全部飲み切って、ふう、と真人が脱力すると、青年はキャップを外し、文庫本をテーブルに置いた。
片耳に残っていたイヤホンも丁寧に外されて、ケースにカチッと収納された。
一連の淀みない所作に、真人は見惚れてしまう。
ケースに目を伏せたまま黙っている青年に、真人は恐る恐る話しかけた。
「あの……席、取ってくださってありがとうございます」
青年はちら、と真人の目を見た。
「今、外にかなり並んでたから。先に来てくださってたんですね」
青年は手で顔を押さえて、肩を震わせ始めた。
真人が怪訝そうな顔で青年の様子を窺っていると、青年はブッと吹き出した。
「面白すぎる……」
「……は?」
「何、あの、縄跳び……! なんで、お前も釣られて飛んでんだよ」
「……」
「しかもリレー、あれ最高。普通さ、足速い人がヒーローじゃん、リレーって。お前が走ってるとき、全世界がお前の味方してたよ」
言いながら真人の走りっぷりを思い出したのか、また青年は笑い出した。
大声を出してはまずいという理性が一応働いているのか、心底面白そうに体を震わせているのに、くっくっ、と身体を丸めて必死に笑いを噛み殺している。
真人は呆気にとられてしまった。
広い肩幅に、健康そうな褐色の肌。
爽やかな短髪のアップバングと富士額。
どこを取って見ても、自分とは正反対だった。
「まあ、いいよ。ドリンクバー頼んだからさ、好きなの取って来な。おれのもついでに取ってきてもらえると助かるわ」
むかむかむか!
まただ。また子ども扱い。
二学年しか違わないんだぞ。クラピカとレオリオだぞ。偉そうに。
真人は青年に促されるままドリンクバーへ向かい、ジンジャーエールのボタンを押す。
あいつの分、ウーロン茶とオレンジジュース混ぜたやつにしてやろうか。
いや、やめよう。個人的な嫌がらせのために混ぜ物にされるウーロン茶とオレンジジュースが可哀想だ。
一体このドリンクの中のどれがセンスのいい選択なのか。これを間違えるとまた子ども扱いされる。
「で、選んだのがこれね。はい、ありがとう」
青年は真人からアイスコーヒーを受け取ると、一緒に渡したストローの封は切らず、そのまま口をつけて飲み始めた。
「あの、先生たちが今日この辺りで飲み会してるんで、出るとき気をつけてください。ここにいたことバレるかもです」
「バレたらどーってんだよ。ここ、おれの地元だぜ? サイゼくらい行くだろ」
青年は言いながら半分くらいになったアイスコーヒーをトン、とテーブルに置いた。
「神谷真人。正直そんな名前のやつ実在すんのかよって思ったけど……まさかこんなにおもれーヤツだとは」
青年の笑顔から白い歯がこぼれた。先ほどの小学校での不機嫌はどこへやら、青年は帽子でパタパタ扇ぎながら、パスタ食うかな、などとブツブツ言っている。
「名前。あなたの」
真人は青年に向かって口を開いた。
「ちゃんと聞いてない。本人の口から」
真人のまっすぐな眼差しに、青年は背筋を伸ばして答えた。
「日下、晃。芸能の仕事してる」
「はい」
「真人、って呼んでいい? おれも晃でいいよ。仕事で苗字取ってるから、言われ慣れてないんだよね、フルネーム」
真人は視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。
「……怖い人かと思った」
晃はうん? と首を捻った。
「さっき、学校で。なんか、怒ってたように見えたから」
「……ああ、そうだった? そう思わせてたなら申し訳ない。一応ね、パブリックイメージがありますから。私情は外では出さないようにしておりますので」
そう言って晃は肩をすくめた。
──売れっ子アイドルでも、サイゼも行くし、電車も普通に乗るんだなあ。
いや、この人がそういう人なんだ。
「パスタ食おうぜ。真人、何パスタ好き?」
晃はパスタのページを開いて、真人の前に差し出した。
色とりどりのパスタの写真に、真人のお腹がぐうと鳴った。
うーん、どれにしよう。たらこも好きだけど、カルボナーラも捨てがたい。
このきのことパルメザンチーズのボスカイオーラっていうのも、美味しそう。
メニュー表と睨めっこしてると、全部食えやいいじゃん、と晃は呆れたように言った。
「いーよ、おれが払うから。食いたいの全部頼めよ」
「さすがにそれは申し訳ないので結構です。決めました、たらこにします」
「結局たらこかよ。ハイハイ、わーりやした」
晃はよいしょ、とスマホを取り出してテーブルのQRコードを読み込んだ。
「晃さん、日野が地元なんですね」
「田舎だろ。おれが子供の頃に過ごした場所」
「だからか。土の匂いがしたのは」
「……土?」
「今、思い出したんです。晃さんが助けてくれたとき、土の匂いがしたのを。日野の匂いだったんだ」
「……そんなこと、言われたことないけどな」
「あ、変な意味じゃないです。なんて言ったらいいかな。懐かしい匂いっていうか。おれなんか、日野よりずーっと田舎で育ったから、土の匂いがすると安心なんです」
真人は眼下の中央線を眺めた。
遠い北杜の草原。秋には真っ赤に染まる南アルプスの山々。
風が吹くたびに鼻をくすぐる、湿った土の匂い。
しかし、サイゼリヤにいると、北杜の手前でどうしてもマルコのヤニ臭い笑顔がよぎってしまった。
北杜よりイタリアが近い。なぜだ。
真人は目を閉じたまま苦笑いした。
「おれも誤解してた。神谷真人、って名前のインパクトが強すぎて。あと、あの手紙もさ、なんつうの。すんごい体温が低いっつーか……」
晃は言葉を選ぶようにしながら、そう零した。
「体温が、低い?」
「上手く説明できないんだけど。そんなに落ち込むなよ、って思った。おれは、困ってる人がいたから助けた、そんだけだから」
「……でも、嬉しかった」
心細かったから。
気を失う前から、ずっと。
あの日、晃がいなかったら、自分はどうなっていただろう。
「いや、違うな。カッコつけすぎた。困ってる人がいたから助けたわけじゃない」
晃はそう言うと、ポケットからケースを取り出してトントンと叩いた。
「覚えてる? 真人、これ拾ってくれただろ」
晃の掌の中で、白いケースの中にイヤホンが二つ収まっていた。
「あ……」
真人が目をぱちくりさせている様子に、晃は苦笑した。
「落とし物を拾ってくれた好青年が体調崩してたら、助けてあげたいじゃん。だから、これでおあいこ」
「……ずいぶんお礼が高くつきましたね」
真人も自然と笑みがこぼれた。
「助けてくれて、嬉しかったです。あの日はちょっと色々あって、落ち込んでたから」
真人が視線を落とすと、青年は頬杖をついて真人の顔を覗いた。
「……そっか。体調、大丈夫なの?」
「はい。今日は熱中症になっちゃいましたけど。あれからは元気です。新生活の疲れですかね」
「新生活?」
「中途半端な時期なんですけど、先月の頭に都内に引っ越したんです。自立したくて」
「そうだったんだ」
店員がパスタを二つ運んできた。
手前の真人が皿を取って晃に渡す。
「ありがと。あとでピザも来るから半分こしよーぜ」
「ピザ? 何の?」
「パンチェッタ。好きそうかなって」
パンチェッタがどういうものかわからないので、答え合わせはピザが来るまで待つことにする。
「先生目指してんの?」
「はい。都採用で考えてます」
「いーじゃん。向いてるよ」
晃はパスタをくるくるフォークで雑に巻きながら続ける。
「子どもからめっちゃ好かれてるなって。今日見てて、思った」
真人の手が止まる。晃の言葉の続きが聞きたくて、真人は無言で晃の顔を見つめた。
「正直さ、行くか迷ってたんだよね。最近仕事立て込んでたし、長らく顔出してなかったし。でも、来て良かった。まさか、手紙の中で教育実習頑張ってます、って言ってたやつが母校のグラウンドですっ転んでるとは思わなかったけど」
「……」
「おれ、子供の頃から運動得意だったから、運動会って自分が輝ける最高の舞台、って思ってたんだ。でも、今日の真人見たら色々思うことがあった」
「……」
「だって普通、足が速いやつが抜かすのが気持ちいいのにさ、子どもたちみんなで、真人先生!! 逃げてーー!! だぜ?」
「……」
「運動ができるやつも、できないやつも、皆楽しそうだった。あの空間、いいなって……」
晃は真人に目を向けて、話すのをやめた。
真人の目から、はらはらと涙が溢れていた。
急いでジャージの裾で擦り、真人は鼻を啜った。
「……ありがとう。今日も、またやっちゃったな、って思ってたから。そう思ってくれた人がいたんだなって」
晃がビリッと袋を破って、紙製のおしぼりを差し出した。受け取って目元を拭うと、顔についていた泥が一緒に取れて真っ黒になってしまった。
「取れた」
真人が照れくさそうに笑ったのと同時に、ピザが運ばれてきた。晃が腕を伸ばして取ってくれた。
「はい、どうでしょうかパンチェッタ。お気に召しそうですかね」
晃が真人の前に焼きたてのピザを差し出す。
ベーコンとチーズだけの、シンプルなピザ。
真人には、世界で一番美味しいピザに見えた。
「連絡先交換しよ。LINEやってる?」
*
晃は地下の駐車場に車を停め、自宅マンションに戻った。
駐車場から直通のエレベーターで自室のフロアへ上り、鍵を開ける。ここでの生活ももう六年近くになる。
凌也も宗馬も、下北沢は遊びに行きづらいからもっと都心に引っ越せとうるさいが、あいつらの溜まり場になるのはまっぴらなので、願ったり叶ったりである。
さっとシャワーを済ませ、歯を磨きながら事務所からの連絡を最終チェック。リビングの明かりを消すと、広い窓から、夜の街の明かりが冷たく差し込んだ。
──つい、してしまった。連絡先交換。
晃は寝室のベッドに腰を落として、大きくため息をついた。
真人のティラミス完食を見届けた後、晃はすぐ事務所へ戻った。
これまで事務所の犬として、NG一切無し、ノースキャンダルを通してきた晃が、まさか社長の言いつけを破っているとは思いもよらないだろう。
それでもあの空間、あの真人の表情を思い出すと、同じことが目の前で何度起きたとしても、連絡先を交換してしまう世界にしかならないと思った。
猫のようにキリッとした眼と、弧を描く眉の線。
身に纏う安っぽい藍色のジャージ。そこから伸びる透き通るような白い肌。
量が多いのに、細くて柔らかそうな髪はときどきクーラーの風に揺れて、伸びた前髪がちくちくと頬を撫でていた。
宗馬とは同学年か。筋骨隆々のあいつとは、似ても似つかないな。
──神谷真人。
サイゼリヤのボックス席で、晃はその名前を何度も心の中で反芻していた。
人ならざる者を想起させる、妙に整いすぎた美しい名前。芸名かと思ったら、そうでもないらしい。
真人。まことの人。
その名を与えた親は、赤子の真人にどんな未来を思い描いていたのだろう。自分の息子の人生に、相当な自信があったのだろうか。
以前、楽屋で望月に見せられた真人の昔の顔を晃はよく覚えている。
豊頬の美少年。
──『山月記』の李徴。彼も幼い頃はこんな顔だったのだろうかと思った。
晃にイヤホンを差し出したときの、あの白く細い腕。駅で抱き上げたときの、あの生気の抜けた冷たい身体。
彼の輪郭を静かに削いだ何かを、勝手に想像して苛立っていた。
それなのに今日の真人ときたら、どうだろう。
大縄の横で一緒に跳躍、全校生徒の声援を受けながらの生還劇。晃の顔を見つけた瞬間の大絶叫。ドリンクバーで右往左往。小さい口で一生懸命ピザを頬張る真剣な顔。ひとつひとつ、思い出すだけでまだ笑えてくる。
……結局、御域プロのことは聞かずじまいだったな。
望月の話から考えると、契約はまだ切れていないのだろうか。
あるいは御域プロの連中が、過去の所属俳優を事務所間の貸し借りに使った、ってことなのか。どっちにしろ、あんまり褒められたもんじゃねーな。
ただ、呑気にピザ食いながら故郷を懐かしんでるやつに、野暮な話題を持ち出すのは気が引けた。
──そうだ。おれは、『元芸能人』の神谷真人と関わるなと言われただけで、『日野の教育実習生』の神谷真人と関わるなと言われたわけじゃない。
おれがLINE交換したのは、実習生の真人。
こっちの真人から「おれも昔はヤンチャしてましてね」なんて話を聞いたわけじゃねーし?
……考えてみれば、手紙にも、本人の口からも、そんな話は一度も出てこなかったな。
メッセージのひとつでも入れてからかってやるかとLINE画面を開くと、既に二件、真人からメッセージが入っていた。
どれどれ、とアイコンをタップすると、短めのメッセージと、続いてトトロが扇風機の前で口を大きく開けて涼んでいるスタンプが、画面内に収まっていた。
「何だよこのバカみたいなスタンプは」
『今日はありがとうございました。
結局全部ご馳走になっちゃって恐縮です。
パンチェッタピザ、とても美味しかったです。
これからどんどん暑くなりますので、晃さんも熱中症にはお気をつけて。
今後のご活躍応援してます』
読みながら、真人の柔らかい声が聞こえる気がした。
晃はトーク画面にメッセージを打ち込んだ。
ポフ、と音がして、自分の返事が画面に台詞で浮き上がる。
『ジブリ好きなの?』
すぐ既読になった。
『はい。高畑勲監督と宮崎駿監督の作品は、全部履修済みです』
へえ。具体的に何の作品が好きなんだ。
晃がメッセージを打ち込んでいると、続いて真人からのコメントが追加された。
『すみません、嘘つきました。ホーホケキョ となりの山田くんだけ未視聴です』
なんだよ、その作品。知らねぇし。
晃はニヤニヤが止まらず、そのまま横向きに寝っ転がって笑いを堪える。
『おれ、それ知らない。真人がオタクなことはわかった』
またすぐ既読になった。もう二十三時を回っているが、どうにかこのラリーをしばらく続けたい。
『オタクではありませんが、ジブリは大好きです。晃さんはオタクではありませんか』
『はい、違います。ジブリは耳をすませばくらいしか語れません』
『耳をすませば、お好きなんですね。天沢聖司くんみたいですもんね、晃さん』
そのメッセージのすぐ下に、天沢聖司がキメ顔で口角を上げているスタンプが提供された。
はあ? どこが。
『一度そう思ったら、これまでのやりとりが自認天沢聖司の晃さんに見えてきまし』
『た』
晃はどう切り返すかと暫し考える。
しかし、あまり間をあけると会話が終わる可能性があるので、それは避けたい。
『実世界ではちいかわ系男子なのに、LINEでは随分と饒舌なんですね、真人さん』
どう出る。真人。
既読がついたのに、返事が来なくなった。
煽りすぎたかとやや不安になった直後、画面が跳ねた。
『だめだ。ぜんぶ天沢聖司で再生されててお腹痛いです、すみません笑笑笑』
おい、ふざけんな! と思わずつられて吹き出してしまった。
明日は四時に現場集合なので、そろそろスマホを閉じねばならない。
わかっているのに、返事が来るとつい開いてしまって、結局日付を回るまでラリーを続けるのだった。
余談ですが、
真人はサイゼリヤから帰宅した後、家で爆睡。
23時ごろ起きて、はっ! 晃さんにお礼のLINEをせねば! と寝起きでメッセージ打ってます。
普段はちゃんと23時には寝るいい子です。




