BGMは卒業生
事務所の食堂に宗馬が戻ると、先ほどまで居たはずの望月と晃の姿が無かった。
「あれ? 二人はどこ行った?」
「もっちーは将軍に呼び出し喰らってる。晃は日野」
凌也は言いながらサンドイッチを咥えた。
「日野……ああ」
「毎年のやつ。律儀だよね」
「夜の打ち合わせは?」
「知らね。戻ってくんじゃね」
凌也は昼食を片手に雑誌の記事に目を通している。
「そっかあ、もうそういう時期か。えらいなあ、晃。おれなんか、小学校ほとんど通った記憶ないもん」
「えらいっちゅーかさあ……やめられないんじゃない、踏ん切りつかないと」
宗馬が凌也の向かいに座って、回収したロケ弁を机に重ねた。
「宗馬、かっぱらいすぎ。まーたお腹壊すって、やめな」
「お腹壊さない! SDGs目指してるから、おれ!」
宗馬はそう言うと手を合わせてロケ弁の蓋を開けた。
「わあ。凄い。叙々苑。泣ける」
満面の笑みで箸を運ぶ宗馬に、凌也の口元が緩んだ。
「あーあ。ジジイもなあ。あともう少し生きてりゃあ、愛しの宗馬くんがドームに立ってる姿観られたのになぁ」
凌也がぼやくと、焼肉をぱんぱんに頬張った宗馬が首を傾げた。
「また言ってる。おれ、別にそんなに好かれてないって」
「いーや、そんなことないね」
凌也は先代社長の顔を虚空に思い浮かべた。
「ジジイの教えを誰よりも忠実に遂行してたのは晃なのにさあ」
「晃、最初怖い人と思ってた。ずーっと眉間に皺寄せてさ。おれ、ヤンキーなのかと思ってたもん」
「金髪の不登校児が何言ってんだよ。ってか、それ何個目だ宗馬」
「まだ三個目」
空のロケ弁を傍に携えた宗馬の顔にスマホを向けて、凌也はシャッターを切った。
「あとでもっちーに送っとく。公式のインスタに載せてもらおーっと」
*
なんだろう、目がチカチカする。
真人は競技を終え、退場門を走り抜けると、そのまま入場門へ向かった。他の出場者は既に整列している。
真人が駆けて行く途中、三年一組の児童席が声を揃えて、真人先生も飛んでたよ! とツッコミを入れた。
「え、そうだった?」と慌てながら、真人は若手先生たちの列の最後尾に並んだ。
「先生、お疲れ様です。お茶とか飲んでますか?」
「……へ?」
「若い先生って、自分のこと後回しにしがちだから、自分で気をつけないと」
自分が熱中症になることなんてまったく考えてなかった。
そういえば、運動会が始まってから一度も水分をとっていない。
その事実に気づくと余計に汗が吹き出た。
PTAのリレーは、午前中の最終競技としていちばん盛り上がった。
児童の競技と違い、遠慮のないヤジが飛びかうリレーでは、走者が変わるたびに笑い声と歓声が響いた。
四チーム中二位でバトンを渡されたアンカーの真人は、途中でしっかり転んだ。
起き上がるまでの間に熱血教師・体育の石田先生が猛追し、会場の熱気は最高潮に達した。
『今、新町小学校の校庭は、サバンナです。シマウマが、ライオンから追われています。助かるのでしょうか』
六年生の放送委員がアナウンスでそう煽ると、全校児童は一斉に
「真人先生ー!! 逃げてー!!」
と声を張り上げた。
シマウマは無事、ライオンに喰われずに生還した。
倒れ込むようにぐったりとした真人に、先にゴールした先生たちが声をかけると、保護者席からは拍手が起きた。
子どもたちからはもみくちゃにされ、真人は息も絶え絶えに、本部テントまで戻った。
公費のペットボトルを消費するのは気が引けたが、校庭の隅に置いてある水筒を取りに行く気力はなかった。
テントの陰、通行の邪魔にならない場所に移動し、小さく身体を丸めてミネラルウォーターを流し込むと、冷たい水が萎びた身体に染みていく。
走り終えた後から、頭がズキズキと痛かった。一度ゆっくり休みたい。
『午前の競技は以上で終了です。児童は教室に戻りましょう』
アナウンスが流れると、児童は校舎の中へと吸い込まれていき、保護者たちも観覧エリアから移動し始めた。
人混みがはけて、真人は少しほっとした。
一番心配してたリレーも終わったし、前半はなんとか無事だ。良かった。
保健室で休ませてもらおうかなぁ。
お弁当は教室で皆と食べたいけど、どうしよう。
いまいち判断がつかないまま、フラフラと立ち上がって校舎へ向かう途中、反対側から歩いてきた青年と、正面衝突した。
すみません、と言おうとした瞬間、跳ね返った衝撃でよろめく。
後ろに倒れそうなところに腕が伸びてきて、ぐいっと手首を引っ張り上げて立て直された。
あっという間の出来事に言葉を失っていると、ネイビーの帽子を被った青年の真剣な眼差しに、見覚えがあることに気づいた。
青年の頬から、汗が一筋滑り落ちる。
青年は汗を吸ったグレーのマスクを顎までずり下げた。
あれ? この顔……。
「……神谷、真人?」
「ひっ……うわああ!」
驚く真人の口を青年の手がパシッと素早く塞ぎ、反対の手で、しいー! と制した。
その場に誰もいないことを確かめると、青年はゆっくりと手を離した。
「……なんで? なんでいるんですか?」
「それはおれが聞きたい。それより、汗。大丈夫? すごく顔色悪い」
青年が指摘する間にも、束ねた髪の根元に沿って汗がたらたらと滴る。
「昼休みなんでしょ。保健室行けば?」
「だいじょぶです。ほら、水! 今、飲んだし。顔色はもともとこんなもんです。おれ、日焼けしない体質なんで」
「おまえ、倒れるぞ。また」
また、という言葉が真人の脳天にズキリと響いた。しかし同時に、自分と大して歳が変わらないはずの青年のやや横柄な物言いに、真人はムッとした。
「あれは熱中症関係ない。あ、あのときはありがとうございました」
怒っていたかと思えば、急に素直な声で真人がお礼を言ったので、青年は呆気に取られてしまう。しかしまたすぐ真面目な顔で真人を諭した。
「……悪いこと言わないから、休みなよ。頑張りすぎ。リレーの前も大縄飛んでたろ」
ため息をつく青年に、真人はゆっくりと後退りした。
いつから見てたんだよ。怖。
「ご心配ありがとうございます。ほんとーに、大丈夫なんで。午後の競技もお楽しみくださいっ」
じゃ! と手を挙げて、真人はヨタヨタと校舎へ向かった。
「もう帰るつもりだったんだけどな…」
小さくなっていく真人の背中を目で追いながら、青年は独りごちた。
……何だ、今の。
世の中には不思議がいっぱいだぜ。
真人は肩で息をしながら靴を脱いだ。
屈んで靴を拾おうとした瞬間、視界がずんと黒くなった。
スリッパを握りしめたまま、真人は目をぎゅっと閉じた。
頭がガンガンする。気持ち悪い。
一度保健室に寄るか。少し横になれば良くなるかもしれない。
目を開けて立ち上がると、視界が斜めに歪んだ。
あ、だめだ。
保健室一択だ。倒れる。
壁に手をついて息を吐いていると、チカチカと明滅する視界の奥に、晴れた校庭と、こちらへ向かってくる青年の姿が見えた。
頼む、来ないでくれ。また、見られてしまう。
次の瞬間、青年が真人の前に現れた。柔らかい声で青年が問いかけた。
「肩貸して。保健室どっち?」
真人は、あっち、と指差してからの記憶がない。
次に気づいたときには、保健室のベッドで横たわっていた。
「神谷先生、体調どうですかー?」
はっと目を覚ますと、カーテンの開く音とともに保健室の米田先生が顔を覗き込んだ。
「もうすぐ午後の競技が始まりますけど、体調どうですか?」
上体を起こすと、ジャージの上着がベッドの柵にかけられていた。
「良くなりました。頭痛もないし」
「軽い脱水ですね。無理なさらないでください、頭痛は結構危険ですよ」
やってしまった。
子どもたちとのお弁当。
最初で最後の給食以外のお昼ご飯チャンスが。
悲しい。しかし、今はそれどころではない。
「それで……聞きにくいんですけど、おれって誰かに運ばれてここまで来た感じですかね……」
真人が目を泳がせながら尋ねると、米田先生は困った顔で、保健室のドアの辺りを指さした。
その先には、腕を組んで壁にもたれた青年の姿があった。
「げっ……」
「もう大丈夫ですよ、って言ったんですけどね。心配だから、って居てくださっていて。神谷先生、順番前後して申し訳ないんですが、体温測りましょう」
米田先生がテキパキと処置を進める背後に、禍々しいオーラのメルエムが立っている。
とても不機嫌そうに見える。馳走を用意せねば殺されるかも。
「36.7。まあまあですね。一応心拍も見ていいですか? あ、一度カーテン閉めますね、日下さん」
日下さんと呼ばれたメルエムは、会釈のあと、カーテンによって視界から消えた。
消えたことが逆に怖い。カーテンの奥に、やばいのがいる。
そんな真人の心情を察したのか、保健室の先生が小声で教えてくれた。
「ARCの晃くん、って知ってますか? あの方、ここの卒業生なんです。お忍びでたまに運動会観に来てくださってるんですよ」
言われて真人は漸く合点がいった。だから来てたのか。
「先日も人助けでニュースになってたんです。神谷先生のことも軽々抱っこされて、ここに登場したときは私も腰が抜けました」
「あはは……」
校庭からロックなBGMが鳴り始めた。
「おれ、あ、違う、ぼく、行きます。午後の二番目の競技が三年生なので、それまでに行かないと」
「そうですか。無理のないようにお願いしますね。先生たちにもこのことは共有されているので、皆さんにちゃんと頼ってください」
「わかりました。すみませんでした」
真人は挨拶もそこそこに、柵にかかった上着を小脇に抱えてカーテンを開けた。
こそこそ、と青年の前まで歩き、真人は目を合わせられないままペコリと頭を下げる。
「一度ならず二度までも、ご迷惑をおかけしました」
「……」
「もう行かないと。失礼します」
「手紙読んだ」
短い青年の言葉に、真人ははっと顔を上げた。
「話がある。終わるまで待ってる」
「……」
「終わったら、駅のサイゼリヤ来て」
そう言って、青年は固まっている真人よりも先にその場から立ち去った。
手紙読んだ。
青年の落ち着いた声が、頭の中でじんと響く。読んでもらえてたんだ、あの手紙。
しばらく立ち尽くしていると、外から競技再開のアナウンスが聞こえて、真人は慌てて駆け出した。




