水柱の受難
「晃ー!」
ドスドスという望月の足音で叩き起こされ、晃は大あくびをした。
「見て! これ、手紙。こないだ助けたでしょ、か・み・や・く・ん」
かみやくん、のところだけ一応小声にしているものの、内容は隣の凌也にも筒抜けだった。
「おっ、ラブレター?」
マリオカートでコテンパンにされ、そのまま不貞寝していた晃が起き上がるよりも早く、横のソファでスマホを見ていた凌也が立ち上がった。
望月の手には封が開けられた手紙が握りしめられている。
「……もっちー、これ読んだの?」
晃が尋ねると、望月は一応ね、と答えた。
「ファンレターは、一旦会社のほうで内容チェックしないとだから」
「助けた子の手紙も、ファンレター扱いなわけ?」
望月は不服そうに眉を顰める。
「わかってるよ、おれだって。しょーがないじゃん、そういう決まりだから……ってかさ、読んでよ、ほら、早く!」
「もっちー、こないだと言ってること違わない?」
呆れた顔の晃に、望月はいいから、と手紙を差し出した。
受け取った手紙を晃が広げると、凌也がソファを移動して隣に座り、顔をぐっと近づけてきた。
「おいくっつくな。ってか、もっちーも! なんだよお前ら」
「早く読めよ。おれが音読してやろうか」
凌也に唆され、仕方なく晃は二人の顎を肩に乗せたまま、縦書きの便箋に目を通した。
「わー、達筆ぅ。女の子みたいね」
「凌也、静かに」
拝啓
ARC 晃さま
新緑が爽やかな季節となり、ますますお元気のことと存じます。
先日、電車内でパニック発作を起こし、晃さんに助けていただいた者です。
大変ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
正直なことを申し上げますと、当日の記憶はあまり残っていません。
電車の中で気分が悪くなったときに、誰かが声をかけてくださったことはぼんやりと覚えています。
意識が戻った後、自分が電車内でパニックを起こしたことや、近くにいらっしゃった若い男性が救護にあたってくださったことを医師から聞きました。
突然の発作に、おそらく周囲の方は驚かれたことと思います。
正視に耐えない姿を見せてしまったかもしれません。
にもかかわらず、目の前の困っている一人の人間として、晃さんが手を差し伸べてくださったと知って、とても勇気づけられました。
普段あまりメディアを見ておらず、ニュースを把握するまで、助けてくださった方が晃さんという芸能人であることや、ARCの皆様のご活躍に関しましても、存じ上げておりませんでした。
私事ではありますが、現在は大学で美術を学びながら、教育実習に奮闘しております。
まだまだうまくいかないことばかりですが、私も社会に出ていくひとりの人間として、晃さんのように、困っている人に手を差し伸べることができる大人、自分の生き方に胸を張って生きていける大人でありたいと、この一件を通じて強く感じました。
深く感謝申し上げます。
皆様のこれからの活躍を応援しています。
神谷真人
「わぁ……これはやばいわ」
凌也がぽつりと呟くと、「でしょ! 可愛い! 推せる!」と望月がはしゃいだ。
「そして、見て、この封筒の住所。立川に住んでるのも好感度高い。港区在住だったらなんか嫌」
「個人情報……もっちーさぁ……」
やり合っている二人の間でしばらく黙っていた晃は、徐に口を開いた。
「つまり、こないだの事務所からの連絡と、この神谷って子の手紙は、全く別軸で動いてたってこと?」
「ん?」と二人が顔を見合わせたが、先に反応した望月がじれったそうに手紙を指差す。
「そこは一旦置いとく! 君さぁ、情緒とかないわけ? 素直に感動しなさいよ。エモくない? ってか、健気。おれ、この子好き!」
「……何、その話。俺聞いてない。別軸ってなんのこと?」
凌也が眉を顰めて望月を見やると、望月はうっと目を逸らして口笛を吹いた。
「凌也、これはおれの問題だから、ここまで」
言いながら晃は手紙を畳んだ。
「ほら、読み終わったんだからもっかいやるぞ。次は絶対スタート失敗しねえ」
「晃、おれはスピンして黒煙噴いてるマリオはもう見飽きたよ。あと、いい加減、宗馬は? まだトイレから戻ってきてないんだけど」
「宗馬、朝の古いロケ弁で腹壊したんじゃねーのか」
晃が言いながらコントローラーを握ったが、凌也は乗ってくれずにスマホをタップしている。
「もー。宗馬見てくる」
望月がまたドスドス、と走って行った。
晃はコントローラーをこっそり床に置いて、もう一度手紙を取り出し、最初からゆっくり読み直した。
手紙の最後に書かれた「神谷真人」という四つの漢字の並びが、人の名前と呼ぶにはあまりにも禁欲的で、晃にはひどく冷たく映って見えた。
*
真人は小さい頃から本当に運動ができなかった。
平均台からは二秒で落下し、跳び箱ではロイター板につまずく。
ドッジボールでは味方にぶつけるし、ダブルドリブルの意味はいまだによくわからない。
そのままではチーム戦のお荷物になってしまうので、真人がシュートを決めると無条件にそちらのチームが勝利になるという“まひちゃんルール”が同級生によって発案された。クィディッチのシーカーみたいでいいじゃん、と周囲は笑っていた。
ゆえに、“運動会”は、真人がもっとも嫌いなワードだった。
かりそめの戯れ“まひちゃんルール”の通用しない、自分と他人の差がはっきり見られてしまう場所。
ゴールテープを切る感触を知らぬまま、真人は大人になった。
だから、わんぱくなBGMと空砲の音を聞くだけで、真人は少し具合が悪くなる。
「明日は暑くなるので、熱中症対策をしましょう、水分補給をこまめにしましょう。少しでも気分が悪くなったら、かならず先生に伝えましょう」
帰りの会で、松下先生が子どもたちにそう話すのを、真人は深く頷きながら聞いていた。
*
燦々と降り注ぐ朝日に真人は目を覚ました。
窓を開ければ、澄み渡る青空。風に乗って子どもたちの声が聞こえてきそうだった。
真人がダンボールの中から取り出したのは、大学時代にメルカリで買った、ヨレヨレのジャージ。紫の生地が初号機みたいで、結構気に入っている。
普段はほったらかしにしている髪の毛も、今日ばかりは後ろで束ねた。
抜刀斎、と独りごちてみる。
……今日のおれは無敵だ。
真人は大きく息を吐いて家を出た。
「おはよう、真人先生!」
「あ! 先生、髪結んでるー!」
真人の些細なイメチェンを見るや否や、子どもたちが一斉に群がった。
「……強そうでしょ」
「全然!」
「何かに似てると思わない?」
「「水柱!!」」
「……おれ、嫌われてるの?」
真人が自分の顔を指さすと、子どもたちは大笑いした。落胆する真人に、子どもたちは続けた。
「真人先生、ズル休みするかと思った。来て偉いよ」
「リレーがんばってね。ビリでもバカにしないからね」
「……ありがとう」
休み時間の鬼ごっこで距離が縮まったことと引き換えに、真人の運動神経の悪さは子どもたちの間にすっかり浸透していた。
子どもたちと話しているあいだ、真人は近くを通り過ぎていく保護者たちの視線が気になった。やたらと見られているような気がする。
……何。そんなに目くじら立てるほど髪伸びてないよ。水柱っていうか、金田一少年だし。
真人は白組帽子を深く被り直した。
自分が昔、「位置について」の先生の声にビクビクし、ピストルの空砲に肩を震わせている間に、他の子たちはレーンを走り抜けていった。
皆がゴールしてからも、真人の孤独な100M走は続いた。
自分の吐く息と心拍音だけの世界が延々と続くような感覚を、真人はよく覚えている。
でも、今、真人が引いたラインの上を駆ける子どもたちは、そうではない。
そもそも、徒競走は自由参加。
手を挙げた子だけが参加し、手を挙げなかった子は、別の集団競技に参加する。
さらに、徒競走がタイムの近い子同士で組まれていることにも真人は驚いた。
「今は色々と配慮の必要な時代ですから」
そんな先生たちの根回しなど誰も気にしてないかのように、三年一組の子どもたちは仲良く肩を組んで、白組応援歌を歌っている。
──ああ、この日、おれみたいな気持ちになる子はいないのか。これで良かったのかな。
でも、おれみたいな気持ちを知ってる子も、いなくなるのか。それはそれで、なんか寂しいな。
バトン落として、皆、ごめん。
騎馬戦、すぐ崩れて、ごめん。
あの日、皆がワイワイと盛り上がっている中で抱いた、自分はここにいて良いのだろうかという問い。自分が透明になったような気持ちは、まだ心の中に残っている。
『次は棒引きです』
放送委員のアナウンスに、真人はシャキッと自分を奮い立たせた。
「みんなー! 二組と戦うよ!」
「はーい!」
「勝つぞー!」
そんな偉そうなこと、おれが言っていいのか?
焦る真人をよそに、子どもたちはスタートラインを空砲とともに踏み越えて行った。
誰も痛い思いをしませんように。喧嘩も起きませんように。
盛り上がる会場の隅で、真人が手を組んで祈った。
砂煙が舞う中、普段は松下先生を手こずらせている茂が、棒を抱えて走って戻ってきた。
「茂くん、すごい! みんな、がんばれ! がんばれ!」
棒を奪った子たちが笑顔で帰還するたび、真人は子どもと一緒に飛び上がった。
結果は、10対14で、二組の勝ち。
向こうで勝利のバンザイが響く中、何となく下を向いてやり過ごす一組の子どもたちに、真人は、よくがんばったよ、ぼく、ちゃんと見てたよ、と励ました。
三年生の次の競技は、昼食を挟んだ後。
ちなみに昼食の前には、PTA競技のリレーがある。
「真人先生はアンカーやれますか?」
副校長にそう言われたときは、胸の前で手を組む副校長が「真人、エヴァに乗れ」と命令する碇司令官に見えた。
やれない理由も、できればアンカー以外がいいです、という明確な根拠も示せず、真人は若手先生チームの最終走者になった。
このタイミングでの抜擢──待てよ、もしかしてPTAリレーには、もともと瀬戸が出る予定だったのではないか。
急に実習辞退なんてするものだから、こうしておれにお鉢が回ってきたんじゃあないだろうな。
おのれ、瀬戸。おれは君がブルーアイズを破り捨てたときから、君のことを許してないんだぞ。
瀬戸への呪詛を唱えながら、真人はジャージのジッパーを全開にして、パタパタと風を送った。
首筋に汗がにじみ、髪の毛も少し湿ってまとわりつく。
朝はのんびりピクニックシートを敷いていた保護者たちも、次第に日陰へ撤退し始めた。
子どもたちの笑顔が、どうか最後まで守られますように。
日向エリアの児童席に、お水足りてない子いませんか? と真人は聞いて回った。
「真人先生、二年大縄のライン引きお願いします。終わったらすぐリレーなので、退場門を出たらまた入場門までぐるっと回ってください」
「はい、わかりました!」
「観覧エリアってあそこですか」
学校の校門前、PTAの受付テントで、スタッフに青年が声をかけた。
青年は少し身を屈め、指先でマスクをほんの少し下ろした。
あ、とスタッフのひとりが声を上げ、慌てて口元を押さえて頭を下げる。
帽子を目深に被った青年は、人差し指で「しー」とジェスチャーし、口角を上げた。
マスクを戻した青年はスタッフに促され、フェンスにもたれると、スポーツドリンクを口に含んだ。
「みてみて! 真人先生」
近くの児童席に座っていた女子たちが、校庭の真ん中あたりを指さして、声をあげている。
「あはは、自分もぴょんぴょんしてる」
「真人先生、ほんと可愛いよね」
ケタケタと笑う子どもたちが指差す先を見て、青年は、目を見開いた。




