となりのあの子
日下 晃〈くさか・あきら〉。誕生日は四月二日。
三人組アイドル、ARC〈アーク〉のメンバー。本名。
所属事務所はWAY POINT〈ウェイ・ポイント〉。アイドルとしての活動時には下の名前のみ使用。
中学二年生の頃、履歴書を現事務所に送ったことがきっかけで芸能界入り。東京都出身。
真人は青年の紹介ページをしばらく眺めてから、画面をそっと閉じた。
めちゃくちゃ迷惑をかけてしまった。
申し訳ない気持ちもある。だがそれ以上に、きちんとお礼を伝えるのが礼儀だろうと思った。
名前も連絡先も残さなかったらしいから、そういうのは迷惑だろうか。
そこまで考えたところで、またこうも思った。
自分は、一度でもそんなことあっただろうか。人の役に立ったこと。
ふやけた記憶を探しても、自分の中には見当たらなくて、鼻の先がツンとした。
教師になったら、子供たちに、何か与えられる人になれるものだろうか。
っていうか、そもそも教師なんてやれるのかな。わかんないな。
時計の音が部屋に響く。明日からはまた教育実習が始まる。
二日間休んでしまった実習は、その分終了を後ろ倒しにしてもらい、日数を確保することになった。
五月に終わるはずの実習が、六月までかかってしまう。早速の出遅れだ。
泣き言を言っても仕方ない。
真人はよし、と気合いを入れて、来月に迫る教員採用試験の問題集を開いた。模範回答とノートを見比べていたら、ふと、戸棚の一番下に仕舞われたままのボンビー入り紙袋のことを思い出した。
いいや、今は忙しいから。また後で。
真人は一瞬戸棚の方を見やったが、また作業に集中した。
*
「「真人せんせーーー!!!」」
月曜日、教室に入った瞬間に浴びた子どもたちの歓声に、真人は目を見開いた。
朝の職員会でも、三年一組の教室でも、申し訳なさそうに頭を下げることはできたのに、子どもたちの笑顔に囲まれると、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
真人は少し遅れて笑った。
「先生、見て!」
中休みに、ひかりに連れられた絵梨花が、一枚の紙を渡してくれた。
「……すごい、これ、絵梨花さんが作ってくれたの?」
「絵梨花、絵上手でしょ? 真人先生のこともよく描けてるよね」
《教えて! まひと先生》というタイトルの質問集。
ピースにウインクの「真人先生」が、吹き出しで答えている。
陽キャすぎるイラストに苦笑して、真人はひとつひとつの質問に目を通した。
しつもん① 先生の好きな食べものは?
こたえ: くだものぜんぶ。
しつもん② 先生の趣味は?
こたえ: むかしのまんがとアニメのかんしょう。
しつもん③ 先生のたんじょう日は?
こたえ: ないしょ。
「わあ。皆から聞かれた質問をまとめてくれてるんだね。これ、どうやって印刷したの」
「松下先生に頼んだ!」
……松下先生、これ、見たのか。
でも、印刷してくれたんだ。
真人は苦笑しながら質問を読み進めた。
しつもん15: 先生の初恋は?
こたえ: ようち園の先生。ミモザのお花をあげたら、たぬき組の先生とけっこんしてしまった。
……こんなの、載せるなよ!
「先生、なんで誕生日内緒なの」
「えー。ださいから」
「何、ダサいって。教えてよー」
ひかりが腕をぐいぐいと引っ張って尋ねてくるが、真人はプリントに食らいつく。
「真人先生、ださいとか言うの、よくないよ。同じ誕生日の人が嫌な気持ちになるよ」
絵梨花に諭されて、真人はしぶしぶ答えた。
「……三月三日」
「え? そうなんだ。ARCの宗馬くんと同じじゃん!」
思わず顔を逸らして、真人はくしゃみをした。
「大丈夫?」
くしゃみの飛沫と共に、雛祭りコンプレックスもどこかへ吹き飛んだ。……ここでARCかよ。
「先生、ARC知ってる? 私はね、凌也くんが好きなんだあ」
ひかりが教えてくれた。
「し、知らない。ARCって小学生にも人気なの?」
「人気だよ! 金曜日、給食の放送でも流れたんだよ」
「へええ……そうなんだ」
「私、もうすぐ、誕生日……」
隅っこの桃子が消え入りそうな声で言うのを、真人は聞き逃さなかった。
「そうなんだ。桃子さんの誕生日はいつ?」
真人が尋ねると、桃子は嬉しそうに顔を上げた。
「私はね、もうすぐ! 六月一九日」
「……」
「……先生?」
はっと我に返って、真人は慌てて視線をプリントに戻した。
「ごめんごめん。桃子さんの誕生日、桜桃忌だなあと思って」
「オートーキ?」
しがみついているひかりが真人に首を傾げた。
「太宰治さんって、わかるかな。その人の命日がね、そう呼ばれてるんだ」
「え、じゃあ縁起悪い日ってこと?」
絵梨花が顔を顰めると、真人は首を振った。
「ううん。太宰治さんは、すごくファンの人に愛されてるから。命日が記念日みたいになってるんだよ。それに、桜桃っていうのは桃子さんの桃の字も入ってるよね」
心臓が速かった。
焦りを隠すように、真人はふふん、と鼻で笑った。
「でも、私、太宰治なんて知らない」
桃子が顔を赤くしてそう答えた。
「そう? 『走れメロス』は知ってるでしょ」
「「知らなーい」」
ひかりを筆頭に、他の女子たちも首を振る。
「……金子みすゞは?」
「知らなーい」
……嘘だろう。
「み、宮沢賢治は流石に……」
「「知らなーい」」
真人が机に突っ伏すと、子どもたちから先生、元気出して、と肩を叩かれた。
ちょっと泣きそうだよ、と冗談めかして目元を拭ってみたものの、特に嘘の涙は出てこなかった。
休み時間、腕を引っ張られるのを言い訳にちっとも外に出てないなあ。
男子ともっと仲良くなりたいし、外遊びの鬼ごっこに混ざってみるかなあ。気が進まないけど。
「先生、日曜日はもう運動会だよ。先生はリレーとか出るの?」
絵梨花の問いかけに真人は目を丸くした。
「あはは。まさか。出ないよ、ぼく先生側だもん」
「先生も出るPTAのリレーがあるよ。出ればいいじゃん」
ひかりが屈託ない笑顔を真人に向けた。
「そうなんだ、そんな恐ろしいプログラムがあるんだねぇ。スゴイナー……」
そうか。言われてみれば、今週末は児童は運動会だ。
もともと金曜日までで終わるはずだった教育実習は、運動会当日には終わっている予定だった。当初は観客として応援に行こうかなと軽い気持ちで考えていた。
ところが、である。
「真人先生、運動会の日はご都合いかがですか」
昼休みの校庭から帰る途中、アンダーリムの眼鏡をかけた副校長が笑顔で尋ねてきた。
「あ、空いてますけど……」
「神谷先生も、良かったら当日色々やってみませんか? 運動会は年に一回の大きなイベントなので、実習で関わった経験は今後に役立つと思いますよ」
熟年の副校長にそう言われると、断るわけにもいかず、真人は、「はい、では是非。よろしくお願いします」と答えた。
「わぁ、良かった。ライン引きも男性の人手が増えると正直助かるんですよね。ありがとうございます」
……ライン引きかあ。なら、いいか。
真人は乱れた髪の毛をかき分けた。
今さっき、茂一派の鬼ごっこに参加してみたが、誰ひとりとして捕まえられなかった。
地獄のような二十分だった。
服のあちこちに泥をつけて、呆けた顔で突っ立っている真人の様子に、副校長先生はクスクス笑った。
「その後、体調は大丈夫ですか?」
「はい。おかげさまで」
「ちょうどその日、アイドルの方が急病の人を助けたっていうのが話題になったでしょう」
「……」
「あれが神谷先生だったんじゃないかって言ってる先生がいましてね。違いますよね?」
「ち、ちがいます違います! そうだったら面白かったですね」
違いますよね? という問いに、つい乗っかってしまった。あはは、と真人が作り笑いを浮かべていると、副校長が目を落とした。
「個人情報だから、これだけね。アイドルの日下晃さん。うちの卒業生なんです」
「……そうなんですか」
「だから、あのニュースを見て、先生方も変に物語をつくりたがったんでしょうね。気を悪くさせてしまったらすみませんね」
「……いえ、全然」
──あのアイドルの人も、この校庭を走っていたのか。
そう思った刹那、今週末にやってくる運動会という嫌な響きに、キリキリと痛む胃を思わず押さえた。
帰りの会が終わり、子どもたちの下校を見送っていると、松下先生が放送で呼ばれて教室を出て行った。
回収したノートの丸つけ作業をしようと真人が教卓に座ろうとしたとき、「あの」と声をかけられた。
牛乳アレルギーの渚が、俯いてもじもじと立っている。手には自由帳が握られていた。
「絵? もしかして、描いてくれたのかな」
真っ赤な顔で渚はそっぽを向いて、ノートを伏せたまま、そっと教卓の上に置いた。
「見ていい?」と尋ねると、ゆっくり頷いたので、真人は自由帳をひっくり返した。
「わあ……天使の悪魔だ」
「……知ってるの?」
「うん。知ってる。渚さん、とっても上手だね。バランスがいい。髪の毛って描くの難しいのに、ちゃんと柔らかさが出てる。色塗りもすごく丁寧だね」
「……」
「チェンソーマン、好き?」
真人の問いかけに、渚は首を振った。
「デンジは嫌い」
「あはは。デンジ、ちょっと困ったやつだもんなあ」
「……」
「どうして天使の悪魔を描いてくれたの?」
渚は口をへの字に曲げてじろっと真人を睨んだ。
真人ははて、と首を傾げる。
「天使、ねえ。ぼくもね、天使のキャラクターが出てくる好きな作品があったなあ」
ここに描いてもいい? と真人はノートの隣のページを指差した。
「羽が大事なんだ。ちゃんと飛ぶには」
そう言いながら、真人は鉛筆ですらすらと絵を描いた。
前縁のカーブから、翼角までの曲線。まだ羽ばたく前の、折り畳まれた羽が大きくノートに描かれていく。羽の付け根から描かれる、人間の背中と、長い白衣のようなワンピースから覗く細い足首。
「大好きなんだ、この話」
真人がそう言って顔を上げると、目が合った瞬間、渚は教卓の上の自由帳を乱暴に掴んで、あっという間に走り去ってしまった。
……まだ顔も描いてなかったのに。おれ、何かした?
途中で没収された手元が寂しくて、真人はしばらく鉛筆を握ったまま固まってしまった。
気づけば教室には誰も残っていなかった。ひとりで佇む教室はとても静かで、広く見えた。
「真人せんせー」
廊下の声に顔を向けると、ショートヘアーの見慣れない子が覗いていた。「こんにちは」と真人は挨拶した。
「見ちゃった。真人先生、女の子を口説いてたでしょう」
口説く、というワードに軽い衝撃を覚えつつ、真人はその子の元へと歩み寄った。
「何年何組さん?」
「四年三組。いずみっていうの」
「いずみさんか。いずみさん、今日の学校はどうでしたか」
「楽しかったー! 運動会のダンス、頑張ってるの」
「四年生はエイサーだよね。頑張ってね」
真人がグーを作って、いずみの前に差し出すと、いずみもグーでタッチしてくれた。
「ねぇ、先生ってさ、トトロ信じてる派?」
さっきまで大人びた発言をしていたと思ったのに。
真人は面食らったが、いたずらっぽく顔を覗き込んで期待しているいずみの様子に、大真面目にうん、と頷いた。
「信じてる派。っていうか、いる。絶対いる」
「だよね! わたしもそう思ってるの。トトロ大好きでさぁ、あんまり大人になったら見られなくなっちゃいそうだから、早いうちに見ておきたいんだよね」
「あはは。確かに。中学生とかになると見られなくなりそうな気はするね」
「先生は……見たことある?」
慎重に問いかけるいずみに、どう答えるか迷った。少し考えてから、真人は口を開いた。
「ううん。見つけられないまま、大人になっちゃった。でも、まだ諦めてない」
「ええ?」
「年齢よりも、トトロを信じる気持ちが大事。だからまだ、ぼくにも可能性はある」
真人がそう言うと、いずみはくしゃっと顔を綻ばせた。
「うける、先生! ありがとう。また話そうね!」
バイバイ、と手を振って、いずみは颯爽と走って行った。初夏の風が吹き抜ける廊下が、いつも以上に眩しく見えた。




