一番星の嘘
JR長坂駅の改札を出ると、殺風景な故郷の景色が広がっていた。
数年ぶりの帰郷には特に何の感慨も湧かないものの、ゆっくり深呼吸をしてみると、東京の汚れが少し洗い流された気がした。
バス停の『武川町方面』の時刻表は、悲しいくらいに数字が閑散としていた。
次に来るのは一時間後。
下調べもせぬままに電車に乗ったのが悪かった。
待つくらいなら、歩くか。どうせ、一時間も歩けば家に着くし。
薫はあくびを噛み殺してスマホを開いた。
通知が溜まっている。
この色気のない街にいると、仕事の連絡も、女の子たちからのメッセージも、全てがどうでも良くなる気がした。
それよりも、明日の披露宴でスピーチする内容を何ひとつ考えていないことのほうが、やばい。
中学の友人代表ってことらしい。
あーあ。めんどくせぇ。
もう、何年も会ってねーのに。他にいなかったのかよ。
長旅で寝違えたのか、首が痛い。ロータリーを迂回しながらのんびり歩き出すと、前方から軽トラックが侵入してきた。
少しずつ速度を落としたトラックは、薫とすれ違うタイミングで停車し、運転席から黒縁眼鏡の男性がにゅっと顔を出した。
「あ、やっぱり。浜野くん、だよね」
「え?」
「真人の父です」
「あ……」
この田舎町で、もっとも会いたくない人物ワースト三のキャラに会ってしまった。
寝ぼけまなこで薫が頭を回転させようとする間に、正悠は薫に話しかけた。
「もしかして、今駅に着いたのかな? 武川町に帰るの?」
「あ、え、えっと……はい」
「乗って行きなよ。僕も今、戻るところで。ちょうどよかった」
何度か断ったものの、いいからいいから、と促され、薫はしぶしぶ助手席に座った。
低い天井に頭がぶつかりそうだった。
シートベルトをしめると、エンジンが動き出して、運転席と助手席の身体が鈍く揺れる。
男二人でぎゅうぎゅうの軽トラ。むさくるしい。
「家に忘れ物してしまって、一度取りに帰ろうと思ってね」
「……はあ」
「見た顔がいると思ったら、浜野くんだったからびっくりした」
「よくわかりましたね。最後に会ったの、だいぶ前じゃないっすか」
「わかるよ。真人の一番の友達だもの」
衒いのない正悠の言葉に、薫は咄嗟に視線を窓の外に逃した。
雨上がりの雑草がトラックの風に靡いて泣いている。
「薫くんは、今どこに住んでるの?」
「……東京っす」
「そうか。真人も、先月から一人暮らし始めたんだ」
「えっ。真人が?」
思ったより大きな声が出てしまい、薫は慌てて唇を噛んだ。
薫の反応を特に気にする様子もなく、正悠は続けた。
「うん。大学も都内だし、通学時間を減らしたかったみたいでね」
「……そうなんすか」
「でも、急だったから、雪子は怒ってたよ」
大学、行ってるんだ。そっか、そりゃそうだよな。
ずっとあのままのわけ、ないもんな。
「……真人、元気なんですか?」
「うん。ああ、そうか。薫くん、真人と最後に会ったの、真人が倒れてた時期だったっけ」
「……そうっす」
「……」
沈黙の間、窓から吹き込む風の音だけが頼りだった。上り坂のせいで、背中の重力がやたらに重い。
早く何か喋ってくれよという薫の願いが通じたのか、正悠はまた口を開いた。
「あのときの真人は、心配だったなあ。というか、雪子がどうにかなりそうだった」
「……」
「毎日、やっぱり芸能活動なんか、やらせるべきじゃなかったのかも、って」
「はあ……」
「薫くん、そういえばなんで北杜に戻ってきたの?」
薫は顔を引き攣らせた。
おい、お前の親父、会話の流れガン無視じゃねえか。
無垢な笑顔に突っ込む気力もなく、薫は質問に答えることにした。
「中学の友人の、結婚式があって」
「中学? 真人も知ってる人?」
「はい。三谷って、サッカー部のメンバー。おれも同じ部活だったんで」
「そうなんだ。いつ?」
「明日っす」
「そうか。真人からはそんな話を聞かなかったけどなあ」
「……まあ、神谷くんは、三谷とはそこまで仲良くなかったですから」
「そうなの? 真人が引越しの手伝い頼んだのは、三谷くんだった気がするけどなあ」
「へえ?」
信じられないくらい間抜けな声が出てしまった。唖然とする薫に構わず、正悠は続けた。
「確か、三谷くんのところが資材屋さんでしょう。引越し当日は三谷くんが来れなかったみたいで、代わりに従業員の子の方が手伝ってくれてたらしい」
軽トラがぐるん、と右折する。咄嗟にグリップを掴もうと薫は手を伸ばしたが、簡素な軽トラにはそんなものは装備されていなかった。虚空を掴んだ薫はそのまま身体がドアに吸い寄せられる。
「待ってください。どういうことですか? 引越し業者に頼まないで、三谷に頼んだんですか?」
旋回の終わりに、荷台の荷物がガシャンと音を立てた。
「うん。だから仲良しなのかと思ってた」
薫は頭を抱えた。
……わからねえ。おれ、まだ真人のこと、よくわからねえ。
この、あまり話の通じない相手との二人きりの坂道が、薫には永遠に続くように思えた。
*
ベッドの上で、真人はふわりと意識を取り戻した。
身につけた覚えのない病衣。見上げれば白い天井と蛍光灯。腕に違和感を覚え、視線を下ろすと、点滴の管が刺さっていて、真人は思わず息を呑んだ。
「失礼しまーす」
カーテンが開けられて、看護師が顔を出した。真人は慌てて身体を起こした。
「お、顔色いいじゃん。お話、できそう?」
看護師は血圧計を取り出して、点滴の刺さった腕と反対の腕にカバーを巻いた。
「……おれ、はこばれた?」
「あれ、神谷さん、何も覚えてないのか」
看護師が顔を上げて眉を顰める間に、腕が締め付けられていく。
事務所を出たあたりから、いまいち記憶がない。どこかの地下鉄で乗り換えたような気がするけど、その後、どうしたっけ?
「大丈夫、大丈夫。あとでちゃんと先生からお話あるだろうから。心配しないの」
プシュー、と音がして、血圧計から空気が抜けていく。
「……しかしイケメンだったなあ、あのお兄さん」
看護師がノートにさらさらと数値を書き込みながら、思い出したように呟いた。
「……誰のことですか」
「神谷先生を助けてくれたお兄さんだよ。実際に見ると、やっぱオーラが違うわ」
「助けた?」
「神谷さんと一緒に、救急車にも乗ってくれたんだよ。全然覚えてないの?」
真人は頭を抱えた。
そういえば、苦しくなってるときに、誰かに抱えられた気がする。
なんか、懐かしい匂いがしたんだよな。なんだっけ。
真人がそっと腕を解いて顔を上げると、看護師は手元のカルテを覗き込んで苦笑いを浮かべていた。
「ねえ、今、神谷さんの生年月日見た。高校一年生くらいかと思ってた。私と三歳しか違わないんだね」
看護師は真人の肩をトントンと叩いた。
「やだ、ごめん。めちゃくちゃ年下かと。あはは、ごめんごめん」
真人は咳払いをして、自分の左腕を指差した。
「……これ、いつ取れますか」
看護師は涙を指で拭って首を傾げた。
「へえ? なんで?」
「……痛いから」
「うそ。どこが痛い? 液漏れしてる感じはないけどな」
看護師はすっと真顔になり、真人の腕を取って針のあたりに指を添えた。針の動く感触に、ぞくっと悪寒が走った。
「いや、なんか……刺さってる感じが、痛い」
真人が呟くと、看護師はまた笑い出した。
「かーわいい、神谷さん。私の推しは、断然キミだわぁ」
真人は観念してベッドに沈んだ。
*
一夜明け、真人は早朝の中央線に揺られていた。
──パニック発作、だって。
ストレスが原因じゃないか、って言われたな。
叫んだりしたのかな。嫌だなあ。
助けてくれた人も、周りの人も、きっとびっくりしたんだろうな。
立川駅で改札を抜け、曇天のコンコースを歩きながら、医師から尋ねられたことを思い出した。
「……教育実習、しんどいですか?」
医師の言葉に、さっと顔が青ざめた。
「今実習中とお伺いしましたので。引越しに加えて、色々とストレスが重なっているのではないですか」
そう言われ、反射的につい、声を張ってしまった。
「しんどくないです!」
怯えた顔の真人を安心させるように、医師は穏やかな笑みでこう答えた。
「大丈夫ですよ。今回のことで、神谷さんの意思を無視して、実習を中止しろなんてことは言いませんから」
助けてくれた人は、容体が落ち着いたことを伝えられた後、帰宅したと伝えられた。名前も名乗らなかったそうだ。
申し訳ないことをした。
玄関ドアから手を離すと、オートロックがガチャンと音を立てた。
真人は手にぶら下がった黒い紙袋を恨めしそうに睨んだ。
パニック発作のドタバタの中で、紙袋は紛失されることなく、しっかりと自分にくっついて帰宅を遂げた。
この妙にずっしり重い紙袋。
外から触れるとふわふわと柔らかい反発が返ってくる。
気持ち悪い。何か、呪いの人形でも入っているのだろうか。
そうだ。桃鉄のボンビー。電車の後ろにくっついて、どこまでも追いかけてくる貧乏神。ああいうのが、この中に入ってるんじゃあないだろうな。
「真人社長! 真人社長!」という声が袋の中から聞こえてくる気がして、真人は首をブンブンと振って思考を止めた。呪いの紙袋は急いで戸棚の一番下に仕舞い、一旦寝かせることにした。
あーあ、やっちゃった。実習、休んじゃったなあ。
明日も念のため休むよう医師から言われ、復帰は週明けの月曜日になってしまった。
真人は時計を確認した。そろそろ、誰か職員室にいる頃だ。
真人は新町小学校に電話をかけた。
「……すみません、体調崩しました」
『えっ。大丈夫なんですか?』
松下先生のつっけんどんな声に、心がじんと温かくなる。
良かった。倒れている間にも、日野の小学校は健在だった。
電話を終え、真人はボディバッグを漁った。
帰り道に寄ったミスド。ムシャクシャして、つい、三個も買ってしまった。
一番好きなチョコポンデリングをぱくりとひと口齧ると、もっちりとした食感が、先に口の中に広がった。
よし、甘い。甘いぞ、たぶん。
良かった。どんなときでも、ポンデリングは美味しいのだ。そういうことにしてとこう。
ひとりで食べると、どうも確信が持てない。
真人は指についたチョコを舐めながら、反対の手でスマホを取った。
入院中は極力スマホに触らないようにしたけど。
──もし、あの駅での騒ぎを誰かに知られていたら。
震える指で、ニュースアプリを開いた。
『元子役、駅で発狂』なんて、騒ぎになっていませんように。
薄目でヘッドラインを確認していると、こんな文字が目に入った。
『アイドルグループARCの晃、人命救助の姿に賞賛の嵐』
人命救助、という言葉に、ついそのニュースをタップしてしまった。
表示された画面には、帽子を目深に被ったスタイルの良い青年が、到着した救急車を背景に、気を失っているように見える〝誰か〟を抱きかかえている様子が写っていた。
『人気急上昇中のアイドルグループARCに所属する晃(26)が、人命救助をしていたことに賞賛が集まっている。
五月二十日、帰宅ラッシュの神楽坂駅に、ハスキーな声が響いた。
「すみませーん! 通してください!」
体調を崩したと思われる青年をお姫様抱っこしている端正な顔つきの青年。今をときめく売れっ子アイドル、ARCの晃(26)だ。
目撃した乗客は語る。
「体調を崩された方をスタイルのいい男性が介抱しているなーと思って見守ってたら、途中で、晃くんだと気づきました。あんな姿を見たら、あっという間にファンになっちゃうよねって友達と話しました」(30代・女性)
また、この状況を撮影した動画をSNSに拡散しているケースも散見される。
人助けは賞賛されるべきだが、良識に欠ける便乗騒ぎには、慎重に対応したい』
「……悪夢だ」
真人は床に頭をぺたりとくっつけて、土下座のポーズで固まった。
──まさかの、助けてくれた側が有名人。
「んおおおお……」
真人はよくわからないうめき声を出しながら、スマホを握りしめたままごろんと仰向けに転がった。
ARC。聞いたことあるぞ。
たしか、足立さんが推してるグループだ。こないだ、チケット当たったって叫んでた。
足立さんにこのことがバレたら……想像するだけで頭が痛い。
あ、でもそういえば、おれのことは記事に書かれてなかったな。
そりゃあそうだよな。こんな有名人がキラキラ輝いてる横で、昔ちょっと芸能齧ってたような一般人がノビてても、誰も気づかないよな。
もう一度スマホをタップし、画面を拡大してみるが、やはり自分はほとんど映っておらず、青年の広い背中にすっぽり隠れ、だらしなく垂れた白い腕だけがはみ出ていた。
あれ、この人。
もしかして、イヤホンを落としてた人かなあ。こんな帽子を被ってたような気がする。
──おれを庇ってくれてたのか。
ただの通りすがりでしかない、おれを。
真人を抱えている青年の写真をしばらくの間眺めて、真人は唇を噛んだ。
*
楽屋のテーブルには、スタッフが並べたふた付きプラカップがいくつも置かれていた。
晃は自分用にひとつを手に取り、軽く揺らして温度を確かめた。
「晃、ちょっといい?」
楽屋の入り口からマネージャーの望月が顔を出した。望月のいつになく真剣な面持ちに、晃はコーヒーカップを片手に駆け寄る。
「あー……ちょっと、こっち」
望月はあたりをきょろきょろ窺って歩いた。
「あ、ここでいいや、ちょっと入って」
空き部屋のパイプ椅子に座ると、向かいに座った望月が、五分、と指でジェスチャーをする。
「メンバーにも内緒の話?」
晃が尋ねると、望月は頷いた。
「昨日、うちの事務所に電話がかかってきてね。晃の人命救助の件で、お礼がしたいって」
「……誰から」
「御域プロダクション。そこの社長から直々に。晃が助けた神谷真人、うちの子ですのでって」
「かみや? 誰それ」
尋ねる晃に、望月がスマホで画像を検索した。
「この子。たぶん、ちょっと昔の写真だけど…」
望月の差し出したスマホの画面には、中学生か、高校生くらいの少年の姿が映っていた。
舞台か何かのワンシーンの様子。ギターを弾き語りしているようなスナップ写真もあった。
「少年時代って感じだな」
「どうなの? 当たってる?」
「名前聞いてないんだよね。でもまあ、似てるかも」
呑気に答えている晃に、望月はもう、と言ってスマホを尻ポケットに仕舞った。
マネージャーの望月は、ガテン系でフットワーク軽めの三十歳。見た目はイカついのに動きが軽やかでコミカルなところが晃は結構気に入っている。
「なんかやばいの?」
「あそこの社長、おれ嫌いなの。なんかさー、すっごい感じ悪い」
「それはもっちーの主観だろ」
ぶほ、と晃がコーヒーを吹き出しそうになると、一段声のトーンを落として、望月は続けた。
「その社長がね、所属タレントが世話になったなら、晃にお礼させてほしいって言ってきたらしいんだよね。何か変な感じしない?」
「そう?」
「そう! だからっていうか、それを判断したのはおれじゃなくて、うちの鷹見社長だけどさ。晃に確認する前に断っちゃった。メンゴ!」
手を合わせて望月は頭を下げて謝った。
「人として当然のことをしただけです、お礼をしていただくほどのことではありませんので、って」
「普通じゃん。それで」
「違うのよ、なんかおかしいんだって。その神谷真人って子、今ほとんど芸能活動してないのよ。おれ調べたもん。御域プロのホームページにも名前載ってないし。最後メディアに出てたの、もう五年くらい前みたいだよ」
「ふーん……」
「そんな開店休業状態の子、パニック起こしちゃうくらい働かせてたってこと? もしくは完全にプライベートでのことなのかもしれないけどさ。晃の人助けに向こうの事務所が感謝ってテイでいっちょかみしてくるの、なんか変」
内緒話のはずなのに、声を荒げる望月に晃は苦笑した。
「わかったよ。わかった。で、おれは何をすればいいの?」
「助けた人のこと、もしこれから誰かに詮索されても、はぐらかして。あんまりアソコの事務所と晃を繋げたくない。神谷真人の名前も、禁句」
「はい、よくわかりました」
天を仰いでソファに凭れた望月は、急にシャキッと起き上がった。
「行こ! ここにいたらまた誰かに聞かれるかも」
手招きしながら立ち上がる望月と一緒に、晃は空き部屋から抜け出した。
「ごめんね、休憩中に」
廊下を歩きながら、後ろについている晃に望月は謝った。
「いや、いいよ。もっちーのそーゆーちゃんと人見てる感じ、おれ嫌いじゃないし」
晃がそう答えると、望月は目を丸くして少し笑った。
──患者A、もとい、神谷真人。
不要な情報を知ってしまった、と晃は舌打ちした。
あの日、自分の腕の中でぐったりと意識を飛ばしていた青年。
青白い肌と、浅い呼吸。
薄く開いた焦点の合わない目が瞬いて、思わず「死ぬな」と叫びそうだった。
ストレッチャーの上で医療従事者の手が次々と伸ばされる身体は、人形のようだった。
「患者A」と呼ばれ、酸素マスクをあてがわれると、反射で身じろぐ姿に、胸の奥がざらりとして、つい目を逸らした。
知り合いでもない自分が、付き添ってきてしまった事実が不愉快だった。
容態が安定したと待合室で知らされると、誰に何を言うでもなくその場を去った。
まさか、同業者だったとは。
空カップをゴミ箱に投げ捨て、晃は望月の背中を追いかけた。




