地下鉄に沈む街
うげぇ。何か偉そうなこと言ってる。のび太のくせに。
教室に響き渡る自分の声にぞわぞわして、自己紹介中は引き攣りそうな口元を抑えるのに必死だった。
クラスの問題児、茂のキンタマ発言を笑顔でスルーしたことについては、松下先生から早速の指導が入った。
次に同じようなことが起きたとき、どうすれば彼らを叱らずに済むだろう。
初日を終えた夜、キンタマのことばかり考えながら湯船の中でブクブクと泡を吐いていると、背中が滑って沈没してしまった。一人暮らしの怖いところだ。危うくひっそり死ぬところだった。
牛乳アレルギーのある渚には除去食をと指示されていたのに、うっかり牛乳瓶を配ろうとしてしまい、慌てて謝ったこともあった。
気にしないで、と消えそうな声で呟いた渚の、真っ赤な顔が忘れられない。
体育の時間では、五十メートル走やシャトルランなどの体力測定があった。
「先生も走って」とひかりから言われたときは、冷や汗が頰を伝った。
せっかく子どもたちとの関係がうまく行き始めているのに、壊滅的に運動ができないことがバレたら、関係に支障が出るかもしれない。それは何としても避けたい。
ゼミの足立さんといい、押しの強い女子と上手くやるにはどうすれば良いのだろうか。
体力測定後のドッジボール中、子どもたちの間を飛び交うキンタマを目で追っていたとき、ふと、幻の同期、体育大の瀬戸のことを思い出した。
彼がもしここに残っていれば、体育の授業でさぞかし輝いたことだろう。真人はため息をついた。
しかし、さらばだ、瀬戸。
君は決闘者みたいな名前をしているが、夢のために〝偉大なる航路〟へと向かったのだ。武運を祈るよ。
おれは〝凪の帯〟から逃げ出した敗北者じゃけえ。
今となっては顔もよく覚えていない仲間に別れを告げていたら、顔面にキンタマがヒットした。
今日は週の真ん中、水曜日。
実習を終え、真人はボディバッグを斜めにかけた。
空はまだ明るいが、影は長く伸び、日差しが少し柔らかくなっていた。
憂鬱だ。いっそ、いつも降りる立川の駅でこのまま降りてしまいたい。
都心まで行くと、いったいどれだけ混むのか。一駅ごとに、どんどん増えていく人、人、人。
──そうだ、だいたい中野のあたり。あのあたりから、空気が変わる。
立川に残る、雨上がりの草の匂い。
土の湿り気を含んだ風は、都会の気配に溶けて少しずつ消えていく。
更地になったままの中野サンプラザが乗客の頭越しに目に入って、胸がざわついた。
JR四谷駅の改札を抜け、地下へと続くエスカレーターへ向かうと、頭上で丸ノ内線の赤い輪のアイコンが光っていた。
最後にここを通ったのは、もう五年前だ。どんな顔して通ってたんだっけな。
真人は昔、「地下鉄が怖い」と零したことがあった。
空が見えない乗り物に乗ると、どこか違う世界に連れて行かれるんじゃないか。
ほんの少しだけズレた空間にワープしてるんじゃないか、って。
言い終えてすぐ、真人は話す相手を間違えたと後悔した。
話を聞いていた正悠は、
「それは“観測者効果”っていう概念だよ」
と、書斎に散らばった本を拾いながら答えた。
「そんなこと言い出したら、エレベーターもトンネルも、君の理屈に従えば“成立しない空間”ということになるね」
「そうだよ。だから、目を瞑りたくない。瞬きだってしたくないの。寝るのも本当は嫌なんだ。目を閉じた瞬間の世界を、一度だって見たことなんかないもの」
「……君は物理学者みたいなことを言うね」
正悠はそう言うと、壁一面の本の中から、無造作に一冊を引っこ抜いた。その拍子に、本がいくつも床に落ちた。
量子力学理論と書かれた本を真人に寄越して、正悠は仕事に戻ってしまった。
腕に抱えていた金子みすゞの詩集は、ついぞ一度も父さんの手に渡ることはなかったな。
仕事に打ち込む正悠の横顔も、後頭部もよく思い出せるのに、正面からの顔をよく思い出せない。薬罐に火をかけていた父さんの、まつ毛の長さはわかるのに。
親指と人差し指を、無意識に開いたり閉じたりしているうちに、地下鉄は目的の駅に到着した。
地上へと続く階段を抜けると、建物の明かりが灯る薄暮に、ビル風が吹いていた。
ボディバッグのベルトに手をかけ、深く息を吐く。
何を、そんなに緊張する必要があるのか。別に、取って食われるわけじゃあるまいし。
おれだって、この日まで何も考えてこなかったわけじゃない。堂々と、すればいい。
立ち尽くす足を叱咤して、真人はガラス張りのビルの中へと入った。
「十八時からの面談をお願いしている神谷です」
視線を下げたままそう告げると、内線の呼び出し音が鳴った。
エレベーターへと促されて、真人は奥に歩を進める。
箱の中の時間が、いやに長く感じる。
昇っているのか、地下に向かっているのか。
窓のない空間では、七階という数字を信用できなかった。
真人は仕事を辞めた頃の記憶がほとんどない。
高校の卒業式には出られなかったから、倒れたのは春先だったと思う。
ほとんど眠ったまま何ヶ月も過ごす間に、あの男が一度だけお見舞いに来たと、後から雪子に聞いた。
サツマイモを収穫しながらそう話す雪子の声は、少し震えていた。
あれから五年。
真人は美大生になり、あの男は社長になっていた。
ガラスのパーティションで区切られた応接セットにそっと腰を下ろすと、向かいの革張りの椅子に座る男と目が合った。
値踏みするような視線が七分丈のカラーシャツに注がれている。
「……そう、怯えた猫みたいな目で見るなよ」
瓶子は肩を竦めて笑った。
「驚いたな。美大生。それに、先生目指してるとか」
「……」
「で、どう。体調は。薬とかはまだ飲んでる?」
「……のんでません」
「良かったじゃん。回復してきたんだね」
……あれ?
目が、よく見えない。
「大丈夫?」
瓶子は徐に身を乗り出し、机を挟んだ真人の顎に手を添えた。太くて硬い指先が、頬に食い込む。
「顔、上げて」
心臓の音がうるさかった。
瓶子の指の先から、どろりとした何かが自分の中に逆流してくる。
息ができない。
「相変わらず……いや、いい」
瓶子は笑いを堪えるように肩を揺らし、真人から手を離した。
「芸能活動やめるとさ、だいたい皆、なんかこう一般人ですーって感じになっちゃうじゃん。久しぶりに会う真人が、どんな顔になってるかと思ったんだよ」
「……」
「本当、いいツラしてるよね。相変わらず、腹立つくらい」
瓶子はくるっと椅子を回して、肘掛けに頬杖をついた。
瞼が重い。くらくらする。
「心底思うよ。世の中不公平だよなあって」
瓶子の声から、笑いが消えた。
「そのツラで、どれだけお前さんが得をしてきたか、許されてきたか」
「……」
「一般社会で悠々自適に暮らすのも結構だけどね。そこにぶら下げてるご大層な顔を、世のため人のために還元しようとは思わないのか」
「……すみません」
「学校の先生。まあ、そういう生き方もあるだろうよ。ただね。芸能界でやり残したことをほっぽらかして、事務所や現場にも迷惑かけて、そのままトンズラっていうのは狡いんじゃないのか」
瓶子の色素の薄い虹彩が、レンズ越しに真人を射抜いた。
「違約金の件。別に、全額払えとは言わないよ。現実的じゃないし」
途中から瓶子の声は沈んでいった。
言葉の輪郭がふやけて、水の中にいるみたいだった。
相変わらず瞼は重くて、言葉が出てこない。
真人は何とか唇を動かして、声を絞り出した。
「……かんがえます。いま、本当に……教育実習がいそがしくて、ほかのこと、なにも……」
向かいの瓶子の顔が、湾曲しながら笑みを浮かべた。
「一度でも芸能に足突っ込んだ人間が、一般社会で楽できるとは思わないほうがいい」
「……はい」
水が、少し引いた気がした。
真人が呆然と机の木目を見つめていると、瓶子は内線に手を伸ばした。
「おれの机のあれ、持ってきて」
ほどなくして事務所の人間がやってきて、黒い紙袋を真人の前に差し出した。
「それ、持って帰れ」
受け取った紙袋はずっしりと重く、身体がよろめいた。
「新しい契約書。なくすなよ。実習終わるまでは待ってやる」
「……」
「頑張って。真人は才能あると思うから」
瓶子は最後に笑みを浮かべたが、真人は紙袋を掴み、逃げるようにその場を後にした。
──ねぇ、じいちゃん。
貝の火がね、壊れたのはどうして?
ホモイがかわいそうだよ。
どうしてここでおしまいなの、じいちゃん。
「助けて」
自分の喉元に這わせた手首にギョッとして、真人は思い切り手を振り払った。
吹き抜けるビル風が、目尻を冷たく撫でている。
紙袋を掴んでいた手の指には、紐の擦れた跡が赤く残っていた。
空はすっかり夜の色に染まり、遠くに見えるネオンが瞬き、車のヘッドライトが行き交っていた。
「……」
通行人が地下鉄の入り口に吸い込まれていく。見慣れない駅名のサインに、真人はスマホを取り出した。
GPSで現在位置を確認する。
目的地に立川駅と入力すると、画面がギュッと縮小されて、帰宅ルートが表示された。
初めて乗る路線。聞いたことのない駅名。
知らない場所に来てしまった。
なんか……こないだもこんなことあったよな。おれ、変なのかな。
いや、たぶん疲れてるんだ。ここ一ヶ月、いろいろあったし。
真人は改札を抜けて、目の前の電車に駆け足で乗り込んだ。
この電車に二駅乗って、東西線、それからやっと、中央線。
アンビリカルケーブルが遠い。こんがらがって窒息しそうだ。
人混みに挟まれながら、また乗り換え。
吐き出される乗客と共に、別の路線へと続く地下道を歩く。帰宅ラッシュが始まっている。
実習先の日野の小学校は、今、存在しているだろうか。
洞窟みたいな通路を歩くうちに、元の世界からどんどん遠ざかっている気がする。
窄まった視界の奥に、自動販売機のボタンを押す人が映った。長い脚が斜めに傾いて、青年の腕が自販機に伸びる。
その青年の耳元から、白いイヤホンが零れ落ちた。
あっ、と目で追う青年を揶揄うように、白い粒は不規則な放物線を描いて真人の方へ跳ねてきた。タイルの溝に挟まって動けなくなったイヤホンを、真人は屈んで救出した。
「すみません」
真人より少し背の高い、ネイビーのキャップを目深にかぶった同年代くらいの青年。
イヤホンを手渡された青年が「ありがとうございました」を言い終わらないうちに、真人は“ヨッ!”と手を挙げて足早にその場を離れた。
──何だ、今の返事。
普段なら絶対にしない対応だ。急に緊張から解放された反動だろうか。
あのお兄さん、びっくりしただろうな。
イヤホン落としたら謎の人物が即座に拾って、ヨッ! だもんな。変なの。
くすくす笑いながら階段を降りると、電車がちょうどホームへ到着するのが見えた。
混雑した車両のドア横、座席との間のわずかなスペースに身体を潜り込ませて、紙袋を足に挟んだ。やっと身体が落ち着いて、自然とため息が漏れた。
揺れる電車の壁に寄りかかって、真人は目を閉じた。
さっきの人、スタイル良かったな。もしかしたら、芸能人だったのかな。
混雑した車内。空気が重い。
──のど、乾いたな。
──あの自販機で、おれも水買えば良かったかな。
『次は榊坂、榊坂』
なんてことのない車内アナウンスのはずだった。
『The next stop is SAKAKIZAKA』
だが、真人が駅名を聞いた瞬間、キーンという耳鳴りが頭を突き抜け、思わず首元を抑えた。
その直後、電車がぐらっとよろめいて、地下鉄は急停車した。
『只今、次の停車駅の榊坂におきまして、緊急停止ボタンが押されました。こちらの車両も運転を見合わせております。駅の安全状況の確認を行っています。運転の再開までしばらくお待ちください』
榊坂。榊坂。
頭上から降り注ぐ駅名に、身体が小刻みに震え始めた。
「大丈夫ですか?」
頭上から男性の声が聞こえた。返事する余裕なんてない。
サカキザカという音を遮るように、両手で耳を塞いだ。目の前が霞んで、景色がぼんやりとしか見えない。
──どこ、手すり。
何かに縋りたくて、腕をドアに這わせた。
顔を上げると、電光掲示板には『次は榊坂駅』の文字。
おいで、真人。
「大丈夫ですか? 気分悪い?」
胸が押し潰される。視界が揺れる。息が、吸えない。
やめて、やめて、やめて!
身体が震える。息が震える。
全身が、自分じゃないみたいだ。
真人は必死に目を閉じて、歯を食いしばった。そうしないと、大声で叫んでしまいそうだった。
「すみません、この人体調悪いかも……座らせてあげてくれませんか」
真人の近くにいた青年が、真人に代わって、座席の一番端に座っているサラリーマンらしき人に声をかけた。青年の言うことに従い、中年の男性は席を立つと、気まずそうな顔で視線を逸らした。
「大丈夫? 座れる?」
青年は真人の肩に手を置き、倒れないように支えた。促されるまま席に座り込み、真人は両手で頭を覆うように蹲った。
『お知らせします。安全確認が取れました。順次運転を再開いたします』
アナウンスが流れると、車内からは安堵の声が漏れた。
青年は真人の様子を見たが、項垂れたままの姿でぴくりとも身体を動かさない。
『なお、こちらの車両は車両間隔の調整のため、榊坂駅にてしばらく停車します。お急ぎの方などは振替輸送もご検討ください』
来た道と同じ電車に、ただ乗れば良かったのに。
いつもこうだ。
間違えてばっかりで、失敗して、皆を困らせる。
普通のふりをするな。出来損ないのくせに。
本当のお前を知ったら──誰も残らない。
「やめて!!」
叫び声が車内に響いた。
「やめて、やめて、やめて」
微かにざわついていた車内は次第に静まり返った。
「いやだ、いやだ。いやだ、いやだ!」
一息ごとに、掠れた声が大きくなる。
うるさい、と誰かが吐き捨てた直後、大きく息を吸う音がして、耳を突き抜ける叫び声が響き渡った。
周囲の乗客が波を引くように声の主から離れていくなか、ネイビーのキャップの青年だけが、その潮流に逆らって手すりを掴んでいた。
電車は再び運転を開始し、速度を上げ始めた。
「次の駅で降ろします、道を開けてください。この人、たぶんパニックになってます。早く外に出してあげないと……」
青年が差し伸べた腕は、振り上げられた手によって跳ね除けられた。
青年は意を決したように、目の前でカタカタと震える手首を引っ張り上げ、そのまま肩を抱き寄せた。
車両のスピードが落ちて、駅のプラットホームの光が車内に差し込んだ。
ドアが開く。
『榊坂、榊坂』というアナウンスに被せるように、青年が「はい、降りるよー」と淡々とした声で真人を抱き上げた。
真人はもう抵抗せず、力の抜けた足を揺らしながらホームに降ろされた。青年は真人の背中に腕を回し、上体を起こした。
「聞こえますか? 聞こえますか?」
返事はない。
目は虚で、顔は真っ青。
全身から汗が噴き出し、細い腕がだらんとホームの床に投げ出された。
巡回していた駅員が異変に気付き、駆け寄った。青年は状況を手短に説明した。
この人が車両の中でパニックを起こしたこと。
誰も傷つけていないこと。
脈が異常に早く、意識も朦朧としているから、早く病院に連れて行ったほうがいい。
そう訴える青年の腕の中で、真人はゆっくりと目を開けた。
「聞こえる? 今ね、とりあえず駅を降りたから。病院行こう。ちゃんと診てもらおう。ね」
返事をする代わりに、真人は首筋に手を伸ばして、僅かに爪を立てた。青年は咄嗟に真人の手首を取って、握りしめた。
帰宅ラッシュの人波が、青年たちの前でわずかに速度を落とし、奇異の目を向けながら流れていく。
「ここでは人が多いので、地上で救急隊と合流しましょう」
駅員の誘導とともに、青年は真人を軽々と抱き上げた。
「抱えられます。どっちっすか。こっち?」
指で尋ねる青年に、駅員が頷いて通路を先導した。
駅員の声が響き渡る階段を、青年はそのまま小走りで駆け上がった。
青年の腕に抱かれながら、混濁した意識の中で、真人はその服からわずかに土の匂いを感じ取った。
──なんだろう、この懐かしい匂い。
揺られながら階段を登り切ると、空気が変わった。夏の湿った空気と、街灯の光が目に痛い。再び目を閉じた真人は、なぜか先ほどよりも少し安心していた。
額から汗が滑り落ち、青年の黒いシャツに染みた。
真人が唇をわずかに動かしたのを、青年は見逃さなかった。
「……水? 飲める?」
真人が小さく頷いた。
「すいません、おれの背中のバッグにペットボトル入ってて。取ってもらえますか?」
青年が駅員に頼んでペットボトルを出してもらい、よいしょ、と真人を抱え直した。やや上体が起こされ、飲んで、と促されると、真人はかすかに嚥下して、そのまま頭を青年の胸に埋めた。青年は外に向かって何か喋り、真人の毛先が青年の声に揺れた。
真人を胸元に抱えたまま、青年は救急車に乗り込んだ。




