想定外の悪魔
『東京都』の標識を通り過ぎた直後、朝日を覆う鼠色の空から雨粒が落ちてきた。
桜の花びらが散った荷台は、あっという間に雨の膜に包まれ、真人は慌ててシートを広げた。
「雨、止まって! STOP!」
真人がリアウインドウを何度も叩いて、ようやくトラックは路肩に停まった。
「……Non sei una bambina?」
ツナギをはだけて拭っていると、隣のマルコが目を丸くしてそう尋ねた。
運転しながら真人の胸元を二度見しているマルコに、真人はなけなしの力瘤をつくって突き出して見せた。
「男! ディ・モールト、シニョール!」
マルコの甲高い笑い声とともに、煙草の匂いが車内に漂った。
太い胸元に揺れる魚のネックレスを睨み、真人は窓のスイッチを少しだけ押した。
……酔った。
荷台にいたときは平気だったのに。
タオルを乱暴に巻いた前髪からはポタポタ雫が垂れて、外の雨足は強くなるばかりだった。
真人はフロントドアに凭れかかった。
陽気な運転手に適当に相槌を打ちながら、真人は遠い長靴の国へ思いを馳せた。
ネアポリス、飛行艇、三色旗。
懐に抱えたスケッチブックの無事を確かめてから、真人は目を瞑った。
*
「ねえ皆、聞いて。綾波が、立川に引越したらしいよ!」
ゼミ生の笑い混じりの声が響いて、真人は紙パックのストローを咥えたまま目を逸らした。
「綾波、自炊とかできてるの?」
「家は片付けられてる? 手伝ってあげようか」
長机の隅っこで大人しくしていたのに、ゼミ生たちがわらわらと集まってきて、朝食代わりのコーヒー牛乳はちっとも味がしなくなった。
「できてる! 心配ご無用。あと、もうその呼び方はやめて。いい大人ですので」
真人が片手を突き出して制止すると、キャミソール姿の学生が隣に腰掛けて、真人の顔を覗き込んだ。
「昭和記念公園、もう行った? 駅のポスターずっと見てたでしょ」
真人の肩口に、ウェーブのかかった前髪がするりと流れた。
「綾波、一人で行ったら迷子になりそう。一緒について行ってあげようか?」
真人が何か言い返すのを待たず、いいじゃん、あだっちーに連れてってもらいなよと、他の学生が囃し立てた。
真人は周囲に睨みを効かせながら、残っていたコーヒー牛乳を一気に吸い込んだ。
思いっきり咳き込む真人の背中に足立が手を伸ばすと、真人は苦しそうな顔で立ち上がった。
「一人で行きます! あと、足立さんはいつも距離詰めすぎです。おれ、パーソナルスペースを大事にしたい人なので!」
真っ赤な顔のまま、真人は机に散らばったファイルを抱え、その場から逃げ出した。
途中でうっかり手を滑らせて、慌てて拾い集めていると、後ろから「かわいー」という声が背中を刺した。
*
別に、けしかけられたから来たわけじゃない。もともと、出かけるつもりだったし。
なんせ、もう都民なのだ。お膝元の公園くらい、ふらっと様子を見に行くのが普通じゃあないか。
意気揚々と繰り出したものの、真人は入園門を抜けてすぐのボート乗り場から動けずにいた。
パドルが跳ねる水音と、楽しそうな笑い声。
長閑な空気に中てられて、何もやる気が起きない。
おれ、春眠暁を覚えず派だもんな。基本、春は眠い。
ゴールデンウィークが明けたら、いよいよ教育実習が始まる。あんまり実感ないけど。
そして、その期間中に、例の面談。
頭をよぎった瞬間、胃の辺りが突き上げるように痛んで、真人は目を閉じてやり過ごした。
あーあ。せめて、ニート期間をもう一年早く脱出していればなあ。
あと少しまともになるのが早ければ、今頃は社会人だったかもしれないのに。
いっつもスタートに出遅れるんだもんな。
こんな調子で、先生になんてなれるのかな。
「悪いこと言わないから、やめときなよ。綾波みたいなタイプは、先生になったら苦労するよ」
足立に昔言われた言葉が思い起こされた。
……わかってるよ。おれだって向いてるなんて思ってない。いいじゃん、頑張ったって。特に取り柄もないんだし。
「綾波の配属先になった担任は、気苦労が絶えないだろうね」
と揶揄われたこともあったな。
結局その予言通り、実習の事前研修には遅刻しているので始末が悪い。
道に迷ってしまい、大汗をかいて職員室のドアを開ける羽目になったんだった。
待ち構えていたベテランの女性教諭は、顔を見るなりさあっと青ざめて、「想定外!」と頭を抱えていた。
いつもこうだ。なんか、うまくいかないんだよな。
池の柵に突っ伏して足をぶらぶらさせていたら、スマホが鳴った。母親からだった。一瞬、出るか迷った。
「もしもし」
次の荷物に何を詰めるかの相談だった。
家にいたときは鬱陶しそうだったのに、なんで離れたら離れたで構おうとするんだろ。
「何言ってんの……いらないって」
納屋のギターのことまで持ち出されて、真人はため息をついた。
雪子との電話を終えるために、真人は歩き出した。
複合遊具から滑り降りる小さな子供と、目が合った。
向かいから歩いてくるゴールデンレトリーバーに匂いを嗅がれた。
観光客から、よくわからない英語で声をかけられた。
みんな楽しそう。
おれ、何でここに来たんだっけ。
「あ」
橋を渡っていると、道の向こうにまるでパレットの絵の具をそのまま空間に撒いたような、パステルの庭が見えた。
スマホを掲げる人だかりへと駆け寄ると、カモミールの匂いが立ち込める。
風に揺られて、リナリアが歌ってる。
モンシロチョウが踊ってる。
ネモフィラの花弁に蜂が包まってる。
小さな宇宙。これは、花弁当だ。
花に見惚れて前のめりに観察していると、背中にふわりと何かがぶつかった。
「あら、ごめんなさい」
控えめな老女の声だった。薄紅色のカーディガンを羽織ったおばあさんが、真人の背中に凭れて、困った顔を浮かべていた。
靴の爪先が、地面の小石に引っかかったようだ。
「何をやっとるのか」
真人が老女の肩を抱えるより先に、呆れた声の老爺が慣れた手つきで老女の腕をぐっと引っ張り上げた。
「目が悪くて、ごめんなさいね」
困ったように笑うおばあさんに、真人もはにかんで会釈した。
そのまま手を繋いだ二人は、小道を歩きながら楽しそうに笑い合っていた。
真人は二人の背中が丘の向こうへ消えるのを眺めた。
カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン。
真人ははっと目を見開いた。
何の音だろう。
──あっち、風の吹いてくる方。
しゃりん、しゃりん。
カン、カン、カンコカンコカン。
音は次第に風とずれて、鐘の鳴る音のように真人を誘った。
小川の流れを辿った先に、水車が見えた。苗が植えられたばかりの田圃と、茅葺の農家。
その母屋の横に、大きな鯉のぼりが四尾、吹き流しに連れられて、ばさばさと空を泳いでいた。
風が吹くたびに、矢車はカラカラと鳴り、木の竿がミシミシと音を立てて、鯉たちは仲良く身体を捩る。
赤の真鯉の、水晶のような眼。その瞳と目が合って、足元がぐらりとよろめいた。
気づけば、真人は立川駅の雑踏の中にいた。
コンコースの上を行き交う人混みのなか、不意に喉元に痛みが走って、真人は首筋を撫でた。
*
登校初日の朝、真人はユニットバスの鏡の前に立った。
薄目を開けると、顰め面の自分と目が合って、顔を思いっきり背けた。
真人は咳払いをして、ゆっくりと視線を戻した。
服装、ヨシ。
髪型……うわ、結構伸びてる。
いや、いける。梳かせばセーフ。
余裕を持って早く出るつもりが、鏡の前でグズグズして出発できない。
「ええい、もう、知らんっ」
手櫛に失敗して、真人はボディバッグを胸に留めながら立川のアパートを飛び出した。
目指すは、中央線。
突き当たりのサンサンロードを曲がる。
見えた。今日もアンビリカルケーブルは健在だ。
教育委員会から振り分けられた実習先は、新居から一駅の、日野市の小学校。
今度こそ遅刻してなるものか。真人は息を弾ませながら駅から走った。
「おはようございます!」
職員室のドアを開けて、久しぶりに大きな声を出したら、声が途中で裏返った。
赤面しながら咳き込んでいると、入り口近くにいた先生が、朝の全校集会までランチルームで待機するように案内した。
息を整えながら座って待つ間に、窓から小学生たちの登校風景が見える。
黄色いランドセルカバーと帽子をつけた男の子が、べたっと窓に顔をつけて変顔した。真人は笑いながら手を振った。
──瀬戸くん、まだかなあ。
事前面談で一緒だった体育大の瀬戸という男子学生。
やたら距離感が近く、声の大きい瀬戸のことを正直あまり快く思っていなかったはずなのに、隣の席が空いたままなのが妙に落ち着かなかった。
そのうちに真人のクラスの担任がやってきて、校庭へと誘導された。
「瀬戸くんはどうしたんですか?」
真人の問いに、松下先生は歩きながら答えた。
「彼なら教育実習を辞退されましたよ。聞いていませんか?」
「辞めた?」
真人が思わず声を上げると、「その話は後」とぴしゃりと言われ、真人は松下先生の背中を駆け足で追いかけた。
後ろで聞いていた保健室の米田先生が、真人にそっと耳打ちした。
「瀬戸さん、劇団四季のオーディションに追加合格したんですって」
「……?」
「すごいですよね。体育大、休学するそうですよ」
真人は絶句した。
米田先生に何と返したのか、記憶がない。
全校集会での挨拶で何を言ったのかも思い出せない。
自分が挨拶をしていたとき、子どもたちがざわついていた気がする。
うわの空で変なこと言ってたらどうしよう。
真人は再び松下先生の後をついて、とぼとぼと教室へと向かった。
こんなんで心を乱されていたらだめだ。仕切り直そう。子どもたちと仲良くならなければ。
真人は背筋を伸ばし、首を振って廊下を歩いた。
*
今日はいつにも増して教室がうるさい。
渚は、自由帳に練り消しを転がして、描いたばかりのドラえもんを消してしまった。
みんな浮かれてる。
うちのクラスに教育実習の先生が来るからだ。さっき集会で挨拶してたみたいだけど、足で砂をワイパーしてたから、顔も名前もわからない。興味もない。
「ねえ、顔見えた?」と他の女子たちは楽しそうに丸くなって話しているし、男子はいつもの調子で消しゴムを投げ合っている。
どうか、体育の石田先生みたいなジャンプ系の熱血じゃありませんように。
こちとら、怒りっぽい松下先生と上手くやるだけでも必死なのだ。早く三週間、終わればいいのに。
もう一度、ドラえもんを初めから描き直す。さっきはヒゲをミスった。本物はもっと短いはず。
廊下側一番前の渚の席は、教室に入ってくる先生の視界に一番早く入ってしまう。だから、絶対に顔を上げない。
そう誓ったのに、目の前のドアがガラッと開く音がした瞬間、渚は見てしまった。
はらはらと舞い散る白い羽。
黒のジャケットから伸びる大きな二つの翼。
柔らかそうな髪の毛と、透き通るような白い肌。
いつもなら「静かになるまで三十秒かかりました」と言われるはずの他の子たちも、ぴたりとおしゃべりをやめた。
松下先生は咳払いをして、チョークを一つとった。濃緑の黒板に白く浮き上がる四文字の名前から、チョークの粉が落ちる。
漢字の横に丁寧にふりがなを添えると、松下先生は声を張った。
「今日から皆さんのもう一人の先生、神谷真人先生です。覚えてくださいね」
知ってる、この人。
チェンソーマンに出てくる人だ。
そっくりだ。漫画から抜け出してきたんだ。頭についているはずの輪っかと……あれ、さっきまで背中から生えてた羽はどうしたんだろう。実習に邪魔だから仕舞ったのかな。
隣の松下先生も、いつも通りを装ってるけど、絶対に気圧されてる。
うっかり触ろうものなら寿命が削られそうだもんな。
「先生、どうぞ」
松下先生に促され、彼は一歩前に出た。
「神谷真人といいます。暁月造形大学の四年生です。小学校の図工の先生になりたくて、ここへ学びにきました」
絶対に内田真礼さんの声が発せられると期待していたのに、まさかの鼻声。
だが、これは……これは、良い、とても。ナイスキャスティングだ。
「一つ、皆さんにお願いしたいことがあります」
彼は人差し指をぴんと立てて、一呼吸置いて続けた。
「身の回りの、自分の好きなものや、心を動かされるものをよく観察しましょう。それが図工で作る作品のモチーフになります」
え? 今なんて言った? 心を動かす?
私すごい心動いてるけど。お前をモチーフにしてええんか。
「っつーかさあ。この人、めっちゃイケメンじゃね?」
前の席の寛太が、急に大きな声を上げて、彼を指差した。
彼の身体がぴくりと跳ねて、僅かに顔が引き攣ったのを渚は見逃さなかった。
しかし、寛太が声を張り上げた直後、教室はどっと笑いに包まれた。
「わかる! かっこよすぎる!」
「おとぎ話に出てきそう!」
「モデルやってたんですか?」
いや、違うぞひかりちゃん。
この人、たぶん自分の見た目にヒクツなタイプだよ。モデルやらないだろ。
でも、すごいな、この人。給食と鬼ごっこにしか興味がなさそうな寛太から、『イケメン』なんて言葉を引き出すなんて。
はしゃぐ子どもたちを松下先生が嗜めていると、彼は「大丈夫ですよ」とジェスチャーした。
「みんな、ありがとう。でもね、かっこいいかどうかよりも、美しいものを美しいと思える心や、それを作りたいと思う気持ちのほうが、ずっと大事だとぼくは思っています」
えっ。その顔でそれを言うのか。
渚が心の中で異議を唱えたのと同じように、他の子からも、えー? という声が飛んだ。
「図工には、正解がありません。でも、『よく見ること』と、『気持ちを大事にすること』は、誰にでもできます」
青年は辺りを見回して、教卓の下に仕舞われていた山吹色のゴムボールを取り出した。
「これは、何だと思いますか?」
「「「ボール!」」」
「はい。普通に見たら、ボールです。でも、よく見てください。何か、違うものにも見えてきませんか?」
彼はボールが皆によく見えるように高く上げた。
「……月?」
「爆弾」
くすくす、と笑う声に、彼は口角をあげている。
「地球」
「風船!」
いいぞ、いいぞ、と言うように彼は頷いた。
「ボム兵!」
くしゃっと笑った彼の目の下に、涙袋が浮かんだ。その瞬間、渚の中で何かが弾けた。
「キンタマー!!」
クラスの問題児、茂がそう叫んで、渚の昂りは一気に急降下した。
何人かの子も「だめだよー」と、顔を顰めた。
そんな教室の雰囲気を気にする風でもなく、彼はふふっと笑って、もう一度教室を見渡した。
「全部、正解です。見る人によって、答えは違っていいんです。図工の時間は、周りと同じじゃなくていい。むしろ、違ったことを思いついたら、とってもかっこいい。ぼくは、これから、みなさんの色んな“世界の見え方”を知りたい」
今日からどうぞ、よろしくお願いします。
彼がそう言って頭を下げると、松下先生が拍手を促した。
彼の気の抜けたような笑顔に、渚は手を叩きながら感嘆のため息をついた。
見たことのない花に吸い寄せられる蝶々みたいに、その日はずっと、子どもたちが真人の周りに群がっていた。
「図工の先生なんだから、何か描いてよ!」
ひかりにせがまれた真人は、昼休みの黒板に『鬼滅の刃』の上弦の鬼を壱から陸まで番号順に描いた。劇画調の半天狗に、暫し渚は見惚れてしまった。
その後、ルフィは? フリーレンは? と子どもたちからのリクエストは止まらなくなった。
昼休みのチャイムが鳴り、松下先生によって円陣の解散が叫ばれたあと、真人は渚にこっそり声をかけた。
「ねえ、そのノート何描いてるの?」
「……絵」
「そうなんだ? 今度見せてね」
もうチャイム鳴ってますよ、と松下先生に怒られた真人は、バイバイと手を振って教卓に戻った。
気づけば、神谷先生ではなく、真人先生という呼び方がクラスに定着していた。




