幸せをたずねて
北杜の空が、燃えるような朱色に染まる時刻。
防災無線の老いたメロディが、秋の山風に乗って遠ざかる。
遠き山に 日は落ちて
星は 空を ちりばめぬ
教わったばかりの歌詞をなぞると、繋いだ手がぎゅっと握り返された。
節くれだった指に包まれて、真人は深く息を吸い込む。
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
「真人の歌を聞くと、心が洗われるなあ」
掠れた声に真人は顔を上げた。
「じいちゃん、〝まどいせん〟ってなに?」
雁の群れを追っていた祖父の目が真人に向けられ、その唇が動いた瞬間。
ガタン、と大きく車体が揺れて、真人はゆっくりと瞼を開けた。
白い室内灯に照らされたロングシート。
開いたドアの向こうに〝おおつき〟の文字が立っている。
欠伸を噛むと、外の冷気が肺に流れ込んだ。
──〝円居せん〟か。
勝手なこと言うんだもんなあ。
そんな言葉を知ったら、恋しくなるのに。
みんな、誰かと円居してるのかな。
そうじゃない人は、どこへ行くのがいいんだろう。
真人がもう一度目を閉じると、列車がゆっくりと動き出した。
窓の外、夜に沈んだ山の稜線を、赤い光が斜めに横切った。
*
湿った風がリビングの窓を揺らしている。
今晩から明け方にかけての雨予報を思い出し、雪子は外の庭に目をやった。
スイセンの黄色の向こう、白スコリアの道。こちらへ向かって歩いてくる息子の髪が、風に靡いていた。
玄関ドアが開く音に被せるように、雪子は日めくりカレンダーを破いた。
「ただいま。ねえ、聞こえた?」
小さく弾んだ声がリビングに響いた。
「ひばりの声。ピイピイ、って」
「聞こえなかった。どこ行ってたの?」
雪子の問いに、真人から返事はなかった。代わりに、スリッパがパコン、と床に放られた音がした。
──思い詰めたような顔をして、何かと思えば。心配して損した。
手の中の昨日の日付を眺めたまま、雪子は真人に声をかけた。
「美容院、そろそろ行けば。伸びてる」
いつものところ、予約しようか?
そう言いかけたとき、背後から頼りない声が聞こえた。
「ねえ、母さん。おれ、家出ようと思う」
振り向くと、シャツの裾を握りしめた息子が口をへの字に曲げていた。
「家を、出ようと思うんだ」
鼻にかかった曇り声が告げた内容を、雪子はすぐには飲み込めなかった。
「……なんで?」
雪子は腰に手を当てて首を傾げた。
「なんで、ってことはないでしょ。おれ、もう二十三だよ?」
「でも……就職だって来年じゃん。今?」
「今。もう家も決めた。契約も済ませてきた」
「嘘でしょ。お金、どうしたの」
「おれの口座にたくさん貯めてたの、あるじゃん」
雪子はダイニングチェアを引いて、そのまま腰を下ろした。
壁の聖句が、先ほど更新された正しい日付とともに“偽りを捨て、真実を述べよ”と告げている。
「だからって……そんな大事なこと、親に何も言わないでどうして勝手に決めるの?」
「だって、ダメって言うじゃん。絶対」
雪子は首を振った。
「無理だよ。真人、ご飯だって作れないし、洗濯も……」
「作れるよ。焼きそばだって、チャーハンだって、自分でやってるじゃん」
「ぜんっぜんおいしくないじゃん、あれ。頭痛くなってきた」
雪子が深いため息をつくと、真人も一緒になって肩を落とした。
「ねえ、真似しないでくれない? 呆れてるのこっちなんだけど」
雪子が額を押さえていると、真人は拳を固く結んだ。
「だから、もういいってば。おれ、全部勝手にやるし。荷造りも、荷運びも、ほっといて。母さんにも、父さんにも、迷惑かけないよ」
「せめて、来年にすれば?」
「なんでだよ。引き延ばす理由ある?」
「だって……心の準備がさあ」
雪子がテーブルに突っ伏すと、真人はむう、とむくれた。
「なんだよ、心の準備って。おれの一人暮らしになんで母さんの心の準備が……ああ、もう」
ちょうどコーヒーマグを片手にリビングにやってきた正悠が、頭を抱えている親子を素通りして、シンクの薬罐に水を注いだ。
「正悠くん。真人が、家出るって言うんだよ。止めて」
雪子が声を張った。
「へ?」
正悠はカチャカチャとコンロのつまみを捻っているが、なかなか着火しない。
「ねえ、聞いてる?」
雪子が語気を強めて言うと、コンロの火が着いたらしく、正悠は「やった!」と呟いた。
真人はスリッパをパタパタと鳴らしてカウンター越しの正悠に歩み寄った。
「父さん。友達が自分ちのトラック出してくれるって言ってるんだ。二トン車、うちの庭まで入れていい?」
「荷運びに使うの?」
「うん」
「じゃあ、家の軽トラはどかしとくよ。台車は?」
「友達のところにあるって」
「そうか。なら、養生だけはしっかりね」
「ねえ、話進めないでよ! 私、止めてって言ったでしょ。何呑気にトラックの話してるのよ」
雪子は二人を交互に見やりながら、溜め込んでいた不満をぶちまけた。
「ちゃんとしてよ。私、普通の家族がいいのに」
雪子の言葉に、真人の肩が震えた。
「雪子、落ち着きなよ。真人だって別に今日発つわけじゃないんだろう?」
正悠に水を向けられ、真人は目を泳がせながら答えた。
「……今夜だけど」
雪子が椅子から崩れ落ちるのと同時に、正悠の沸かした薬罐がホイッスルを鳴らした。
*
雪子は寝室のベッドの中で、暗闇を睨んだ。
「友達来るの夜中になるから、寝てていいよ」
いつになく反抗的なあの声。
通学時間? 教育実習?
色々理屈を並べてたけど、要するに私が鬱陶しいんでしょ。生意気。
手伝いを頼んだ友達って、誰なのよ。そんな友達、まだ地元にいた?
ひとりじゃ何もできないのに、あの子ったら。
雪子がそう嘆いても、正悠は「まあまあ」と宥めるばかりで、仕事を終えた今はもう隣で熟睡している。
──来た。
窓の向こうに、エンジン音が響いている。
雨はまだ降っていないらしい。
雪子はサイドテーブルの眼鏡を取って、音を立てないようにベッドから降りた。
廊下の奥、真人と影のような誰かが、玄関前に積まれていた数箱の段ボールを運び出す姿が、眼鏡のレンズ越しに見えた。
最後のひと箱を「よいしょ」と抱え、真人が玄関ドアを閉める姿を捉えて、雪子はたまらずサンダルを突っかけて外へ飛び出した。
「待って!」
雪子の声が北杜の夜に響いた。冷たい夜風が吹きつけて、雪子の短い髪が頬に張り付いた。
雲の切れ間から月明かりが差して、真人の輪郭を浮かび上がらせた。
何、それ。
何、その格好。
ぶかぶかのツナギに、耳当て付きのフライトキャップ。今から空にでも飛び立つつもりなのだろうか。
息子の奇妙な出立ちに、雪子は小さな拳を硬く握りしめた。
「……こんなの、あんまりじゃない」
絞り出した声は、途中で喉に詰まった。
雪子が目元を拭うと、真人は肩をすくめて、雪子に歩み寄った。
「今まで、ずっと迷惑かけてごめんね。これ以上、迷惑かけたくなくてさ」
「……いつ、戻ってくるの?」
「うーん。わかんないや」
真人は困ったように笑った。
「とにかく、母さんはやっと自由になれるんだから、喜びなよ。じゃあ、元気でね」
真人はそれだけ言うと、トラックへと駆けて行った。
真人に促されて、大柄な人影が運転席から降りてきた。
彫りの深い顔立ち、青い瞳、そして白胡麻をまぶしたような髭面の……誰、この外人。
「あ、友達が急に来られなくなったらしくて、代わりの人を寄越してくれたんだ。マルコっていうんだって」
真人の紹介に合わせて、マルコなる若者が、毛深い腕を差し出してきた。
雪子がカタカタと震える手で応じると、マルコは異国の言葉で陽気に捲し立て、雪子の肩をバンバンと叩いた。
「Arrivederci!」
マルコが指先を額に当て、ニカッと金歯を光らせている後ろで、真人は平ボディのあおりに手をかけ、必死に足を引っ掛けていた。
宙ぶらりんの真人が情けない声を漏らしていると、見かねたマルコが脇に手を差し込んで、ひょいと持ち上げた。
転がるように荷台へと潜り込むと、真人はくしゃっと笑って額の汗を拭った。
段ボールの積荷の隙間に足を突っ込み、後ろ向きに身体を埋めたかと思うと、真人はひょこっと頭を出した。その拍子に、フライトキャップの耳当てが真人の頬を叩いた。
「そうだ、母さん!」
エンジンが轟音を上げ、トラックのタイヤが砂煙を巻いた。
「マルコも、クリスチャンみたいだよ!」
「……え?」
「だから心配しないで! じゃ!」
二トントラックは、積荷のことなど気にも留めないスピードで下り坂に突っ込んで行った。
遠ざかる荷台はあっという間に暗闇に消えて、雪子は立ち尽くした。
湿った風が坂道を追いかけている。
温暖前線よりも早く、息子は東京へ辿り着けるのだろうか。
*
風が吹いている。めちゃくちゃ寒い。
でも、そんなことより、マルコの運転が怖い。
下道で向かうと決めた時点で、長旅になることは覚悟していた。だから、そこまで急がなくてもいいのに。
リアウインドウ越しに運転席との会話を試みたが、そんなことは無理だった。
真人が夜空を見上げると、満月と目が合った。
じっと注がれる視線に動けずにいると、流れる雲が光を喰んでいった。
いい調子。見送りなんか、要らないんだ。
問題は、マルコがちゃんと東京に連れて行ってくれるかどうか。
背中に感じていた重力が、ふわりと軽くなった。平坦な道に差し掛かったかと思うと、トラックはぐるりと身体を捻った。
遠心力に振り回されて、内臓が大きく引っ張られる。国道に突き当たったのだ。
積荷の向こうに、線路が見えた。中央線だ。
ここを辿っていけば、いつも通う大学がある。
その少し先に、新しい家。
進んでる。ちゃんと、東京へ。
真人はほっと息をつき、毛布を引き寄せた。
雪子にはあんなふうに言ったけど、旅立ちのときに見る景色は、前じゃなくて後ろが良かった。
“故郷を見ながらお別れしたかった”なんて。
そう言ったら、雪子はどんな顔をしただろう。
毛布からはみ出ている頬が冷たくて、耳当てのバックルを締め直すと、走行音が遠くなる。
霧の立ち込める墨の世界を、街路樹が別れのお辞儀をしながら遠ざかっていく。
また、戻ることはあるだろうか。
じいちゃんの匂いが遺る、あの街に。
あのまま居続けたら、どうなってたかな。
ただ、あのカラスたちが雪子の庭を踏み荒らすのだけは。
雪子と正悠の生活まで巻き添えになるのは、どうしても嫌だった。
北杜と東京を結ぶ、まっすぐに伸びたレールに沿って、トラックはひた走る。
挫けそうなときは、故郷と繋がるこの鉄路が、おれを励ますんだ。
大丈夫、何があっても。
中央線は、おれのアンビリカルケーブルだから。
鼓膜の奥に、警笛の音が聞こえた。
真人がゆっくりと目を開けると、毛布の隙間から、先ほどまで見えなかった山の端が姿を現した。
トラックの振動に混じって、列車がレールを噛む音が近づく。ああ、夜明けだ。
春は、あけぼの。
柔らかな女性の声が、耳の奥を撫でた。
──そうだ。
千年も昔から伝わる、呪いの言葉。
真人は目を擦りながら、一番上の段ボールからいつものスケッチブックを取り出した。
耳当てのバックルを外すと、フラップがはためいて、頬を叩くように叱咤した。
真人は顔をしかめて、毛布を脱ぎ捨てた。
レンブラントのソフトパステルが荷台の上を転がらないよう、一緒に詰めた洗面器の中に流し込み、指のフレームで世界を切り抜く。
この先はトンネルだ。今描かなければ、手の紫は嘘になってしまう。
黒が剥ぎ取られていく。色が戻ってくる。
山の端の曲線を描く間にも、藍は刻々と薄くなる。
東の雲を編むうちに、陽の光が弓矢のように目を射抜く。
刹那、頭上で何かが軋む音がして、トラックが揺れた。運転席の屋根にぶつかった太い枝が大きくしなって、天を横切るのが見えた。
吹雪のように降り注ぐ桜の花びらが、瞬きする間に世界を塗り替えてしまった。




