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位置について  作者: はる
序章
1/27

幸せをたずねて

 (ほく)()の空が、燃えるような朱色に染まる時刻。

 防災無線の老いたメロディが、秋の山風に乗って遠ざかる。


 遠き山に 日は落ちて

 星は 空を ちりばめぬ


 教わったばかりの歌詞をなぞると、繋いだ手がぎゅっと握り返された。

 節くれだった指に包まれて、()(ひと)は深く息を吸い込む。


 風は涼し この夕べ

 いざや 楽しき まどいせん


「真人の歌を聞くと、心が洗われるなあ」

 掠れた声に真人は顔を上げた。

「じいちゃん、〝まどいせん〟ってなに?」

 (かり)の群れを追っていた祖父の目が真人に向けられ、その唇が動いた瞬間。

 ガタン、と大きく車体が揺れて、真人はゆっくりと瞼を開けた。

 白い室内灯に照らされたロングシート。

 開いたドアの向こうに〝おおつき〟の文字が立っている。

 欠伸を噛むと、外の冷気が肺に流れ込んだ。


──〝(まど)()せん〟か。


 勝手なこと言うんだもんなあ。

 そんな言葉を知ったら、恋しくなるのに。


 みんな、誰かと円居してるのかな。

 そうじゃない人は、どこへ行くのがいいんだろう。

 

 真人がもう一度目を閉じると、列車がゆっくりと動き出した。

 窓の外、夜に沈んだ山の稜線を、赤い光が斜めに横切った。


         *


 湿った風がリビングの窓を揺らしている。

 今晩から明け方にかけての雨予報を思い出し、雪子は外の庭に目をやった。

 スイセンの黄色の向こう、白スコリアの道。こちらへ向かって歩いてくる息子の髪が、風に靡いていた。

 玄関ドアが開く音に被せるように、雪子は日めくりカレンダーを破いた。

「ただいま。ねえ、聞こえた?」

 小さく弾んだ声がリビングに響いた。

「ひばりの声。ピイピイ、って」

「聞こえなかった。どこ行ってたの?」

 雪子の問いに、真人から返事はなかった。代わりに、スリッパがパコン、と床に放られた音がした。

──思い詰めたような顔をして、何かと思えば。心配して損した。

 手の中の昨日の日付を眺めたまま、雪子は真人に声をかけた。

「美容院、そろそろ行けば。伸びてる」

 いつものところ、予約しようか?

 そう言いかけたとき、背後から頼りない声が聞こえた。

「ねえ、母さん。おれ、家出ようと思う」

 振り向くと、シャツの裾を握りしめた息子が口をへの字に曲げていた。

「家を、出ようと思うんだ」

 鼻にかかった曇り声が告げた内容を、雪子はすぐには飲み込めなかった。

「……なんで?」

 雪子は腰に手を当てて首を傾げた。

「なんで、ってことはないでしょ。おれ、もう二十三だよ?」

「でも……就職だって来年じゃん。今?」

「今。もう家も決めた。契約も済ませてきた」

「嘘でしょ。お金、どうしたの」

「おれの口座にたくさん貯めてたの、あるじゃん」

 雪子はダイニングチェアを引いて、そのまま腰を下ろした。

 壁の聖句が、先ほど更新された正しい日付とともに“偽りを捨て、真実を述べよ”と告げている。

「だからって……そんな大事なこと、親に何も言わないでどうして勝手に決めるの?」

「だって、ダメって言うじゃん。絶対」

 雪子は首を振った。

「無理だよ。真人、ご飯だって作れないし、洗濯も……」

「作れるよ。焼きそばだって、チャーハンだって、自分でやってるじゃん」

「ぜんっぜんおいしくないじゃん、あれ。頭痛くなってきた」

 雪子が深いため息をつくと、真人も一緒になって肩を落とした。

「ねえ、真似しないでくれない? 呆れてるのこっちなんだけど」

 雪子が額を押さえていると、真人は拳を固く結んだ。

「だから、もういいってば。おれ、全部勝手にやるし。荷造りも、荷運びも、ほっといて。母さんにも、父さんにも、迷惑かけないよ」

「せめて、来年にすれば?」

「なんでだよ。引き延ばす理由ある?」

「だって……心の準備がさあ」

 雪子がテーブルに突っ伏すと、真人はむう、とむくれた。

「なんだよ、心の準備って。おれの一人暮らしになんで母さんの心の準備が……ああ、もう」

 ちょうどコーヒーマグを片手にリビングにやってきた正悠(まさはる)が、頭を抱えている親子を素通りして、シンクの薬罐(やかん)に水を注いだ。

「正悠くん。真人が、家出るって言うんだよ。止めて」

 雪子が声を張った。

「へ?」

 正悠はカチャカチャとコンロのつまみを捻っているが、なかなか着火しない。

「ねえ、聞いてる?」

 雪子が語気を強めて言うと、コンロの火が着いたらしく、正悠は「やった!」と呟いた。

 真人はスリッパをパタパタと鳴らしてカウンター越しの正悠に歩み寄った。

「父さん。友達が自分ちのトラック出してくれるって言ってるんだ。二トン車、うちの庭まで入れていい?」

「荷運びに使うの?」

「うん」

「じゃあ、家の軽トラはどかしとくよ。台車は?」

「友達のところにあるって」

「そうか。なら、養生だけはしっかりね」

「ねえ、話進めないでよ! 私、止めてって言ったでしょ。何(のん)()にトラックの話してるのよ」

 雪子は二人を交互に見やりながら、溜め込んでいた不満をぶちまけた。

「ちゃんとしてよ。私、普通の家族がいいのに」

 雪子の言葉に、真人の肩が震えた。

「雪子、落ち着きなよ。真人だって別に今日発つわけじゃないんだろう?」

 正悠に水を向けられ、真人は目を泳がせながら答えた。

「……今夜だけど」

 雪子が椅子から崩れ落ちるのと同時に、正悠の沸かした薬罐がホイッスルを鳴らした。


         *


 雪子は寝室のベッドの中で、暗闇を睨んだ。

「友達来るの夜中になるから、寝てていいよ」

 いつになく反抗的なあの声。

 通学時間? 教育実習?

 色々理屈を並べてたけど、要するに私が鬱陶しいんでしょ。生意気。

 手伝いを頼んだ友達って、誰なのよ。そんな友達、まだ地元にいた?

 ひとりじゃ何もできないのに、あの子ったら。

 雪子がそう嘆いても、正悠は「まあまあ」と宥めるばかりで、仕事を終えた今はもう隣で熟睡している。

──来た。

 窓の向こうに、エンジン音が響いている。

 雨はまだ降っていないらしい。

 雪子はサイドテーブルの眼鏡を取って、音を立てないようにベッドから降りた。

 廊下の奥、真人と影のような誰かが、玄関前に積まれていた数箱の段ボールを運び出す姿が、眼鏡のレンズ越しに見えた。

 最後のひと箱を「よいしょ」と抱え、真人が玄関ドアを閉める姿を捉えて、雪子はたまらずサンダルを突っかけて外へ飛び出した。

「待って!」

 雪子の声が北杜の夜に響いた。冷たい夜風が吹きつけて、雪子の短い髪が頬に張り付いた。

 雲の切れ間から月明かりが差して、真人の輪郭を浮かび上がらせた。

 何、それ。

 何、その格好。

 ぶかぶかのツナギに、耳当て付きのフライトキャップ。今から空にでも飛び立つつもりなのだろうか。

 息子の奇妙な出立ちに、雪子は小さな拳を硬く握りしめた。

「……こんなの、あんまりじゃない」

 絞り出した声は、途中で喉に詰まった。

 雪子が目元を拭うと、真人は肩をすくめて、雪子に歩み寄った。

「今まで、ずっと迷惑かけてごめんね。これ以上、迷惑かけたくなくてさ」

「……いつ、戻ってくるの?」

「うーん。わかんないや」

 真人は困ったように笑った。

「とにかく、母さんはやっと自由になれるんだから、喜びなよ。じゃあ、元気でね」

 真人はそれだけ言うと、トラックへと駆けて行った。

 真人に促されて、大柄な人影が運転席から降りてきた。

 彫りの深い顔立ち、青い瞳、そして白胡麻をまぶしたような髭面の……誰、この外人。

「あ、友達が急に来られなくなったらしくて、代わりの人を寄越してくれたんだ。マルコっていうんだって」

 真人の紹介に合わせて、マルコなる若者が、毛深い腕を差し出してきた。

 雪子がカタカタと震える手で応じると、マルコは異国の言葉で陽気に捲し立て、雪子の肩をバンバンと叩いた。

「Arrivederci!」

 マルコが指先を額に当て、ニカッと金歯を光らせている後ろで、真人は平ボディのあおりに手をかけ、必死に足を引っ掛けていた。

 宙ぶらりんの真人が情けない声を漏らしていると、見かねたマルコが脇に手を差し込んで、ひょいと持ち上げた。

 転がるように荷台へと潜り込むと、真人はくしゃっと笑って額の汗を拭った。

 段ボールの積荷の隙間に足を突っ込み、後ろ向きに身体を埋めたかと思うと、真人はひょこっと頭を出した。その拍子に、フライトキャップの耳当てが真人の頬を叩いた。

「そうだ、母さん!」

 エンジンが轟音を上げ、トラックのタイヤが砂煙を巻いた。

「マルコも、クリスチャンみたいだよ!」

「……え?」

「だから心配しないで! じゃ!」

 二トントラックは、積荷のことなど気にも留めないスピードで下り坂に突っ込んで行った。

 遠ざかる荷台はあっという間に暗闇に消えて、雪子は立ち尽くした。

 湿った風が坂道を追いかけている。

 温暖前線よりも早く、息子は東京へ辿り着けるのだろうか。


         *


 風が吹いている。めちゃくちゃ寒い。

 でも、そんなことより、マルコの運転が怖い。

 下道で向かうと決めた時点で、長旅になることは覚悟していた。だから、そこまで急がなくてもいいのに。

 リアウインドウ越しに運転席との会話を試みたが、そんなことは無理だった。

 真人が夜空を見上げると、満月と目が合った。

 じっと注がれる視線に動けずにいると、流れる雲が光を喰んでいった。

 いい調子。見送りなんか、要らないんだ。

 問題は、マルコがちゃんと東京に連れて行ってくれるかどうか。

 背中に感じていた重力が、ふわりと軽くなった。平坦な道に差し掛かったかと思うと、トラックはぐるりと身体を捻った。

 遠心力に振り回されて、内臓が大きく引っ張られる。国道に突き当たったのだ。

 積荷の向こうに、線路が見えた。中央線だ。

 ここを辿っていけば、いつも通う大学がある。

 その少し先に、新しい家。

 進んでる。ちゃんと、東京へ。

 真人はほっと息をつき、毛布を引き寄せた。

 雪子にはあんなふうに言ったけど、旅立ちのときに見る景色は、前じゃなくて後ろが良かった。

“故郷を見ながらお別れしたかった”なんて。

 そう言ったら、雪子はどんな顔をしただろう。

 毛布からはみ出ている頬が冷たくて、耳当てのバックルを締め直すと、走行音が遠くなる。

 霧の立ち込める墨の世界を、街路樹が別れのお辞儀をしながら遠ざかっていく。

 また、戻ることはあるだろうか。

 じいちゃんの匂いが(のこ)る、あの街に。

 あのまま居続けたら、どうなってたかな。

 ただ、あのカラスたちが雪子の庭を踏み荒らすのだけは。

 雪子と正悠の生活まで巻き添えになるのは、どうしても嫌だった。

 北杜と東京を結ぶ、まっすぐに伸びたレールに沿って、トラックはひた走る。

 挫けそうなときは、故郷と繋がるこの鉄路が、おれを励ますんだ。

 大丈夫、何があっても。


 中央線は、おれのアンビリカルケーブルだから。


 鼓膜の奥に、警笛の音が聞こえた。

 真人がゆっくりと目を開けると、毛布の隙間から、先ほどまで見えなかった山の端が姿を現した。

 トラックの振動に混じって、列車がレールを噛む音が近づく。ああ、夜明けだ。


 春は、あけぼの。


 柔らかな女性の声が、耳の奥を撫でた。


──そうだ。

 千年も昔から伝わる、呪いの言葉。


 真人は目を擦りながら、一番上の段ボールからいつものスケッチブックを取り出した。

 耳当てのバックルを外すと、フラップがはためいて、頬を叩くように叱咤した。

 真人は顔をしかめて、毛布を脱ぎ捨てた。

 レンブラントのソフトパステルが荷台の上を転がらないよう、一緒に詰めた洗面器の中に流し込み、指のフレームで世界を切り抜く。

 この先はトンネルだ。今描かなければ、手の紫は嘘になってしまう。

 黒が剥ぎ取られていく。色が戻ってくる。

 山の端の曲線を描く間にも、藍は刻々と薄くなる。

 東の雲を編むうちに、陽の光が弓矢のように目を射抜く。

 刹那、頭上で何かが軋む音がして、トラックが揺れた。運転席の屋根にぶつかった太い枝が大きくしなって、天を横切るのが見えた。

 吹雪のように降り注ぐ桜の花びらが、瞬きする間に世界を塗り替えてしまった。

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