一番たいせつなものは
晃へスタンプを送ったあと、トーク一覧に戻ると、雪子への既読無視が溜まってることに気づいた。
……そろそろ返信しないと、電話がかかってくる頃合いだな。
雪子からのメッセージといえば、自炊の写真は? とか、夏服買った? とか。絶妙に返信の意欲が湧かない。
気が進まないままトークルームを開いた瞬間、雪子から着信が入った。
通話ボタンを押した途端、不機嫌な雪子の声が耳に刺さった。連絡が滞っていたことが許せないらしい。
真人は背中を丸めてフローリングの溝に指を突っ込み、適当に相槌を打ちながら、雪子の声を聞き流した。
『ねえ、自転車なんで持って行かなかったの』
「自転車……ああ、捨てといて」
『何、それ。高校の入学祝いに、清里のおばさまが買ってくださったやつでしょう』
「……」
うるさい。そうだよ。だからいらないんだよ。
『わざわざトラックまで使っちゃってさ。何を積んでったかと思えば、大したもの持ってってないじゃないの。全部、宅急便で送れたんじゃないの?』
部屋の中、色々見たのかな。嫌だな。
置きっぱなしの卒アル、美術部の寄せ書き。ああいうのも、見たのかな。
「ごめん、もう、その話、しないで」
『……ねえ。ちゃんとしてよ』
「……」
『真人が何考えてるか、私、さっぱりわかんない。親にも自分の気持ちをちゃんと説明できないような子、社会人になんてやれると思う?』
どうだろう。やっぱり、無理だろうか。
返事をするのすら億劫で、雪子の叱責を左耳に受けながら、真人はフローリングのあみだくじを目で追った。
『私がこうやって心配することも迷惑なんでしょ。なら、わかった。もうしばらく連絡するのも控えるね。それで満足?』
「いいえ」と口を動かすのが億劫で、真人は「ん」とだけ返事した。電話はプツリと切れた。
望んだはずの結果なのに、やたらと鳩尾が軋んだ。しばらくあみだの溝で爪研ぎしていると、また着信が入った。
画面の名前に、真人は目をまん丸にした。
『あ、真人? ごめん、急に電話して』
「……晃さん?」
『楽屋のプライバシーがクソ過ぎるから、今外に逃げ出してきた』
電話の向こうから車の音が聞こえる。真人は笑った。
「晃さん、楽屋にもパパラッチがいるんですか?」
『いるんだよ。最悪。ねえ、吉村昭書斎なんだけどさ、奇跡的に明後日、空いてるんだ。しばらく予定詰まってるから、そこが空いてたらと思って』
「あ……空いてます! ちょうど実習終わりだし」
『オッケー。やべ……あ、大丈夫。またLINEする!』
電話はまたプツリと切れた。
セントラルドグマからジオフロントまで一気に浮上して、真人は耳が詰まりそうだった。
*
朝、渚は身体が重かった。
母親に測られた熱は、悲しいくらい平熱で、渋々赤いランドセルを背負って、渚は学校までの道を歩いた。
今日で最後だ。
どんな顔をしてお別れしたらいいんだろう。
私、ちゃんと挨拶できるのかな。
自由帳を見せてから気まずくて、話しかけられても目を合わせられなくなってしまった。
……いいよね、別に。
ひかりちゃんみたいに、可愛くてハキハキしてる子が、いつも周りで騒いでるし。今日もハリポタの話で盛り上がるのかなあ。
私も誕生日、三月三日なんだ、なんて。
そんなのどうでもいいよね。
渚の意思とは裏腹に、通学路の信号はずっと青で、いつもより早く着いてしまった。
閑散としている下駄箱で上履きを鳴らしていると、
「あ、おはよう、渚さん」
鼻声がすぐ近くで聞こえて、渚ははっと顔を上げた。
油断した。まさか、下駄箱にいるなんて。
「ねえねえ、見て。これ、すごいよ、ノコギリクワガタ。あそこのコナラの樹に居たんだよ」
……何やってんの、朝から。
頭に葉っぱついてんじゃん。息切れしてるし。まさか、登った?
「あ、今登ったと思ったでしょ。ギリ、登ってない。足を少し置いただけ。内緒ね」
しー、と真人は口に手を当てて、クワガタにハイネックのシャツを噛ませながら、教室への階段を上って行った。
「みなさん。今日はぼくの授業に立ち会ってくれて、ありがとうございます。とっても緊張しているけど、ワクワクもしています」
真人が図工教室の教卓の前に立ち、口を開いた。
「まずは、椅子をまあるく並べましょう」
真人からの唐突な指示に戸惑いながらも、子どもたちは言われた通りに椅子を円形に並べた。
「画板は重いので、椅子に立てかけてみんなが準備できるまで待ちましょう」
担任の松下先生は、真人の意図を事前に聞き、最終的にはGOサインを出したものの、不安を拭えずにいた。
果たして、こんな突拍子もない授業が成立するのか。
せっかくここまで築いてきた関係が、最後の最後で変な記憶として残ってしまわないだろうか、と。
真人は円の中心を指差した。
「みなさんには今日、ここにあるものを描いてもらいます。何か見えますか?」
真人が子どもたちにそう尋ねるが、教室の真ん中には何も置かれていない。
子どもたちは顔を見合わせた。
沈黙する図工室に、寛太の声が響いた。
「ない。見えん!」
誰かが小さく笑い、クラスの緊張が少し和らぐ。
「うん。何も置いていません。置いていないけど、そこに“あるもの”を描いてもらいます」
ざわ、と空気が揺れた。真人は少し間を置いてから続けた。
「この本を見てください。サン=テグジュペリの『星の王子さま』。読んだことある人はいますか?」
真人が本を掲げて教室に尋ねるが、誰も手をあげない。
真人は一度視線を落としたが、またすぐに顔を上げて声を張った。
「ぼくが皆さんと初めて会ったときに言ったことを、覚えてますか? 物の見え方は、人によって違っていい。それから、好きなものや心を動かすものをよく観察しましょう、とお話しました」
子どもたちは黙って真人の顔を見つめた。
「今から、この本の一部を皆さんに読みます。創作のヒントになるといいなと思います。しっかり聞いてください」
真人はスケッチブックで作った紙芝居を教卓の前に立てた。
原書の挿絵を、後ろの席からでも見える大きさに描き写したもの。裏面には三年生でもわかりやすいように自分で和訳したカンペも貼り付けている。
やめろ、こんな授業はエゴだ!
誰かが頭の中で叫んだ。
お前がそんなことを教えていい筈がない。
お前の傷を、子どもに背負わせるな。
鳴り響く叱責の声に、真人は顔を俯けた。
──そんなの、わかってるよ。
これは、洗脳なんだ。
かつて清少納言が朝日を詠ったように、自分も子どもたちに呪いをかけるのだ。
どうか、許してほしい。
苦しみながら、問い続けてほしいんだ。
真人は大きく息を吐いて顔を上げた。
「サン=テグジュペリ『星の王子さま』」
真人の鼻にかかった声が、教室に響き渡った。
「ぼくが六歳の頃に出会った本のことを話すね。『全部が正しい話』というタイトルで、生き物に関することが書かれていた。その本には、ボアという大ヘビがネズミを丸呑みする瞬間の様子が描かれていた。こーんな感じでね」
真人が紙芝居をめくって、描いたイラストを見せると、子どもたちからあはは、と笑い声が聞こえた。
「そこでぼくは考えた。ジャングルではこんなことも起こるんじゃないかなあ? って想像して、色鉛筆で自分なりの絵をはじめて描いてみることにしたんだ。作品番号①。それが、こーんな感じ」
王子さまが描いてほしかったヒツジの話を、真人はユーモラスな語り口で子どもたちに伝える。
最初に読んだときは、なぜ王子さまにとって箱の絵が嬉しかったのかわからなかった。
でも、今は。
「ぼくは今日、授業のまとめを話しません。みなさんひとりひとりが感じたことが、今日の授業でみなさんの選んだ正解です」
何を言っているの、真人先生。
そういう声が飛ぶことも覚悟の上だった。
真人は教室を見渡して、口角を上げた。
「では、始めましょう!」
開始の合図とともに、教室はざわざわと騒がしくなった。椅子をずらす音、笑い声、鉛筆を持ったまま手を振り回す子。
「お前、なに描くの?」
「ねえ、肩ぶつかったんだけど」
「見れば見るほど、ほんっとーに何もないじゃん!」
ひかりが言うと、何人かが同調するように笑った。
真人は柔らかい笑みを浮かべたまま、少し離れた場所からその様子を見ていた。
そのとき、絵梨花が、ふっと背筋を伸ばし、画板に視線を落とした。
鉛筆が紙に触れ、かすかな音を立てて線が引かれる。
描き始めた絵梨花の迷いない筆致に、近くに座っていた子たちがおそるおそる画板を覗き込む。
次第にざわつきが消え、他の子どもたちも鉛筆を動かし始めた。
さっきまで飛び交っていた喋り声が、いつのまにか消えていた。
教室の隅で見守る松下先生が目元を押さえたことに気づかないまま、真人は静かに教室を見守った。
給食当番の子どもたちがチャイムと同時に図工室から駆け足で出て行った。
残った子どもたちは、お互いに描き終わった絵を見せ合いながら、真人の前に列を作った。
「寛太くん、図工の先生になりたいんだね」
寛太が描いたのは、未来の自分。図工室で粘土をこねている先生の姿だった。ぴかぴかの泥団子対決したいね、と真人は笑った。
茂が描いたのは、強面の蜂の姿。
昔、図工室で絵を描いていたときに、蜂が迷い込んで大騒ぎになったことをよく覚えているらしい。図工室に来るたび、またどこかに隠れてるんじゃないかと心配なのだそうだ。
ひかりが差し出した絵には、透明なマントからこっそり顔を出す三人組が描かれていた。
「ハリー・ポッター?」
真人が尋ねると、ひかりは大きく頷いた。
「そっか。見えてないだけで、本当はそこに隠れてるかもしれないもんね、なるほどなあ」
真人が感心して頷いた。
「これは……宇宙?」
「うん。どうしてでしょう?」
絵梨花に尋ねられて、真人はうーん、と悩んだ。
「図工室の、ずっとずっと先に、宇宙があるでしょ」
絵梨花はそう言って“何もない空間”を指差した。
「私、嬉しかった。本当に、本当に嬉しかったの。見えないものが本当はあるんだ、って先生が言ってくれて。先生は、きっとサンタさんがいるって言っても、信じてくれるでしょう?」
絵梨花は言いながら目を潤ませた。
真人は苦笑して画板を置き、机の上の箱ティッシュから一枚を取って差し出した。
隣でひかりは悲しそうに俯いた。
「先生、もっと泣くかと思ったのに。私たちだけ寂しいみたいじゃん」
「大人はね、寂しくても我慢するの」
啜り泣く子どもたちに、真人は目を伏せた。
「ぼくも皆とお別れするの、寂しいなあ。ずっと、皆といたかったなあ」
「やだ! 帰んないでよ。ずっと三年一組にいてよ、真人先生」
鼻水を垂らして泣く寛太が、真人の襟ぐりに縋りついた。
だめだよ、おれなんかに。
そう思うのに、手を離せなかった。
「もう、ひかりちゃんが変なこと言うから、真人先生泣いてるじゃん」
「ティッシュ! ほら、寛太も先生も、鼻拭いて」
渚は教室をそっと出た。
女子トイレまでの道のりがものすごく遠く感じた。個室の鍵をかけ、閉じた便座に腰を下ろしてから、渚は握りしめていた拳をやっと解いた。すると、掌からぐちゃぐちゃになった練り消しが出てきて、呆れてしまった。
……ばかみたい。
見えないものを見ろ、だって。
練り消しに水滴がぽたり、と一粒落ちた。
何言ってんの、先生。
先生が、一番見えてないじゃん。
いつも転ぶし、すぐ物落とすし。
それなのに、あんな授業、しないでよ。
あんなもの見せておいて、今日でさよならなんてさ。ずるいよ。
先生はさ、私のことなんてすぐ忘れるでしょ。
でも、私は忘れられないよ。こんなの、忘れられるわけないじゃん。
私は、ずっと先生だけを見てたのに。
先生はちっとも気づいてなかったじゃん。
唇を噛むのをやめたら嗚咽が漏れそうで、渚は必死に声を押し殺して袖で顔を隠した。
苦しいよ、やだよ。めちゃくちゃ寂しいよ。
人を好きになるのって、こんなに辛いことなの?
そんなこと、教えないでよ。ばか、先生のばか。
──ああ、でも、私はそんな先生が好きなんだ。
先生と会えて良かった。
先生に会えないままの人生じゃなくて、良かった。
ありがとう、先生。大好き。




