山犬の姫
寝返りを打つと、誰かの背中に額をぶつけた。
一瞬、晃かと思ったが、それにしては表面積が広いし、いびきがうるさい。
照夫だ。なんで照夫が、隣に?
一先ずくるりと反対側へ寝返りを打つと、今度は春枝のすっぴんが目の前で寝息を立てていて、真人は慌てて起き上がった。
そうか。あのまま、仏間で寝ちゃったのか。
初夏の朝日がガラス入りの障子戸から漏れている。
居間のほうでパタパタと足音が聞こえた。真人がそっと襖を開けると、晃が裏口の三和土で靴を履いているのが見えて、真人はそっと仏間から顔を出した。
「あ、わりぃ、真人。起こしたか」
「……晃、もう行くの?」
「うん。夕方までYouTube撮影。行ってくるよ」
真人は晃の隣に座り、サンダルをつっかけた。
「外までお見送りする。晃、MAZDAで行くんだろ」
「体調は?」
「なおった!」
晃が真人の額の前に手をかざして逡巡するのを見て、真人はその手を取って、自分の額につけた。
「……まだ少し熱い気がするんだけど」
晃は苦笑して、そっと手を下ろした。
「今日、午後は大学? 無理すんな」
「でも、先週も休んじゃった」
「どうしても体調悪くて、出席しないとやばい講義なら、大学に相談しな。そのための面談だったんだろ」
「……うん。わかってる」
晃のうしろにくっついて、ガレージの砂利道を歩く。デリカの隣で、MAZDA3が朝日に輝いていた。
晃はエンジンをかけた。
「じゃあな。ちゃんと休めよ!」
車の姿が見えなくなるまで、真人は車の行き交う道路にスウェット姿で突っ立っていた。
朝食に、春枝がお粥を作ってくれた。
食べ終わるのにいつも以上に時間がかかってしまった。照夫と春枝が食べ終わったあとも、蓮華で掬ってちまちまと口へ運びながら、真人は目を伏せた。
「……テレビ、ごめんね」
春枝は目を丸くした。
「何のこと?」
「おれに気を遣って、いつもつけてなかったでしょ」
真人は春枝の顔を見られなかった。目が合うと、泣いてしまいそうだった。
「ああ。違うのよ。お父さんがお相撲好きだから、お相撲のときだけつけてるの。今は巡業中だからね」
「それ、本当?」
真人がゆっくりと視線を戻して尋ねると、春枝は頷いた。
「ま、あとは、音楽番組のときね」
真人がくしゃりと笑うと、春枝が釣られて笑った。
「……七月場所、ここでお父さんが観ててもいい?」
「うん。おれも、観る」
「あら、そう? お父さんがきっと喜ぶわ」
結局、午後の講義は休んだ。
春枝が切ってくれた桃を食べて、また少し眠った。
夕方、少しだけ体調が回復したので、バーバーサンライズの床掃除を手伝った。
箒を片づけていると、棚にARCの三人の写真が表紙に載っている古い雑誌を見つけた。
照夫に断りを入れてから、真人はこたつテーブルで雑誌を開いた。
『ARCメジャーデビュー記念10,000字インタビュー』という特集らしい。
編:なぜ芸能界に?
晃:自分の生きている記録を残したかったから。アイドルは手段。
編:WAY POINTを選んだきっかけは?
晃:たまたま。ちょうど新人募集をしてたから。
編:やめようと思ったことは?
晃:一度もない。ここにいることが答え。
晃の受け答えは誌面上でもぶっきらぼうで、真人は笑ってしまった。
これでは、いつまでも一万字にならないではないか。
編:恋愛観で大事にすることは?
晃:恋愛観はありません。しません。アイドルなんで。
真人は目を丸くした。
編:あはは(一同爆笑)! そんなこと言って大丈夫? これから先、いい人が現れるかもよ?
晃:過去に恋愛について悩んだ経験もあるけど、自分の人生には恋愛のピースは必要ないと思っている。いわゆる普通の幸せの形は、デビュー前に捨ててきたつもり。
すごいな。バラティエ編のゾロみたいなこと言ってる。
いや、ゾロはともかく、生身の人間でこれは……ちょっと、極端すぎやしないか。
大丈夫なのか、晃。こんな発言が、実家のマガジンラックで読まれまくってて。
真人は続きのページを捲るかどうか迷った。
これは、本人にとっては黒歴史かもしれない。見なかったことにして、雑誌を閉じるべきだろうか。
逡巡していると、スマホが鳴った。晃からだった。隠す必要もないのに、咄嗟に雑誌をひざ掛けのブランケットの中に仕舞ってから、真人は電話を取った。
「……もしもし」
『おう。体調どう? 大学休んでんだろ』
真人はむう、と口を尖らせた。
「……また位置情報見たな」
『熱は?』
「たぶんない」
『そっか。良かった。帰り、たぶん遅くなるから、声聞きたかったんだ』
「……ねえ、晃」
『ん?」
「今度、晃ん家泊まってもいい?」
おう、いいぜ。と即答すると思ったのに、急に電波が途絶えたのか、受話器越しの晃は何も返事をしない。
「聞こえてる?」
『……ああ』
気だるそうな反応に、急に興が削がれて真人は口を尖らせた。
「ちょっと、晃ん家がどんな感じか気になっただけ。嫌なら、別にいい」
『……』
「おい、聞いてんのかよ、タコ!」
電話の向こうで何かが割れる音がして、ノイズ音が響いたかと思うと、通話相手の声が切り替わった。
『もしもし、神谷くんですか? おれ、宗馬!』
まさかのARCメンバー登場に、真人はブランケットを脱いですくっと立ち上がった。
「あ、あの、いつも晃がお世話になってます」
『ねえ、神谷くん、晃になんて言ったの? なんか、うわ、やめろよ!』
うわあ、やめろ、という悲鳴が聞こえる。真人が心臓を抑えていると、また声が晃に戻った。
『一旦折り返す。嫌じゃねえ。それだけはわかっとけ!』
通話はプツリと切れた。
立ち尽くしているのを心配したハクが膝に擦り寄ってきて、真人はしばらくハクを抱きしめて心を落ち着かせた。
*
「わあっ。なんて、片付いているんだ!」
ボディバッグを斜めにかけた真人が、晃の脇をすり抜けて目を輝かせた。
「わあ、見て見て、すごいよ、夜景だね。下北沢って都会だなぁ。晃、これって何の植物? ねえ、ベッドって大きいの?」
一言も発さない家主の様子は気にもとめず、真人はあちこち自由に走り回った。
さっそくフローリングで足を滑らせ、真人は尻餅をついた。
「くそー。畳に慣れすぎた」
晃が真人の腕を引っ張って立ち上がらせると、真人はすぐさま洗面所のドアを開けて浴室の広さに歓声を上げた。
居る。あの変な生き物が、うちに居る。
晃が頭を抱えてソファに座り込んでいると、一周した真人が戻ってきた。
「晃、おれ、ご飯作る。春枝さんと修行したから、晃に作る!」
「……何を」
「カレー! すごい? すごい?」
真人のカレーは、とても不思議な味わいだった。中辛のはずなのに全然辛くないし、切ったはずのじゃがいもの所在を尋ねたら、「LCL化した」などとよくわからないことを言われた。
無言でカレーを噛み締めていると、真人がぽつりと口を開いた。
「ねえ、晃は、アイドルだから恋愛しないの?」
「……は?」
「だって……昔の雑誌のインタビュー、そう言ってたから」
真人はバツが悪そうに眉を下げた。
「恋愛しません、結婚しません、って、書いてあった」
「……いつの雑誌だよ。デビューのときのやつ?」
「うん」
晃は目を逸らした。
「……まあ、今のところ前言撤回するつもりは、ねえかな」
そう答えると、真人は満足そうな顔を浮かべて、ぱくっとカレーを口いっぱいに頬張った。
「何、その反応」
真人は目を細めて、ふふっと笑った。
「こうやって泊まりに来ても、しばらくは怒られないかなあ、って」
「……」
「もし、好きな人ができそうなときは、教えてね。急に恋人ですって素敵な人紹介されたら、どんな顔していいかわかんなくなりそうだから」
「……真人?」
カレー皿に視線を落とす真人の瞳が、ゆらゆらと揺れた。
「心の準備がいるタイプだから。おれ、遠足の三日前から、天気予報心配するし」
真人はカレーをぱくぱくと頬張った。
晃は観念したように息を吐いた。
「わーったよ。そのときは、ちゃんと言う」
「ん」
「……ただし、真人もな」
「おれも?」
真人が首を傾げたが、晃は何も付け加えなかった。
残っていたカレーをぱくっと口に入れて飲み込むと、真人は小さな声で溢した。
「おれ、久しぶりに友達できて、はしゃいでるから……カレーと晃で、お腹いっぱい」
「……そーかよ」
晃が目を細めて苦笑すると、真人が壁の時計を見て「あっ」と声を漏らした。
「晃、今日ね、ゼミで金曜ロードショーやるって聞いたんだ。しかも『もののけ姫』。晃と観るしかない、これは」
「えっ」
「晃、テレビつけて。民放怖いから、4ちゃんねるにしてからおれに渡して」
真人が目を瞑って晃にリモコンを差し出すので、晃はしぶしぶ日テレをつけた。
画面に映る金曜ロードショーのオープニングと、それを食い入るように見つめながらソファにちょこんと座る真人。
晃は隣に腰をかけた。
壁のカレンダーの日付を確認すれば、もう教採は来週末。
晃は真人の背中に遠慮がちに声をかけた。
「いいのか、記事のこと」
「えっ。なにが?」
「いや……真人、大丈夫なのか。色々言われたりしたらって心配で」
真人はくるっと振り向いた。
「なーに言ってんだよ。そんなことより、教採落ちないようにしないと。これで教採落ちたら、ダサすぎる」
画面に向き直る真人に、晃はなんとも言えないため息をついた。
「……そう思うなら、金曜ロードショー見てないでお勉強されてはいかがでしょうか」
「黙って。今からタタリ神来るから」
真人はぴしゃりと晃の言葉を遮った。
「本当に、いいのか」
「全然いい。黙って」
途端、真人の凝視する画面の中から、禍々しい蜘蛛のような化け物が、石垣を破壊して突入してきた。
「うわあああ!!」
真人が叫びながら晃のシャツにしがみついた。
「……おいお前、これ初見じゃねーだろ、ビビりすぎだろ」
「あ、ヤックルが危ない! 逃げて、ヤックル!」
真人が必死に訴えてくるせいで、晃も画面から目が離せなくなった。
真人は途中で出会った毛深い修験僧がアシタカとサシ飯を食い出したあたりから、丸覚えの脚本をキャラクターの口パクに合わせて誦じ始めた。
どんだけ観てんだよ、こいつ。
「あ、サンだ。ああ、サン、可愛すぎる。世界一大好き」
真人の告白に、晃はまじまじと画面を凝視する。
え、真人ってこういうのがタイプなのか?
「アシタカ、病人を背負ってシシガミの森を越えるんだよ。かっこよすぎる」
「恋敵なのかと思ったら、アシタカも好きなのかよ」
「当たり前じゃん。この二人が好きなの」
髪を髷のように結った女性の頭目に誘われて、ハンセン病らしき患者を匿う庭へと辿り着くアシタカ。
許してくれ、と頭目を庇う患者の長の懇願に、晃は目を逸らした。
自分だったらどうしていただろう。
真人を呪ったやつが、他の誰かを救っていたとして、おれは許せるだろうか。
晃がもの思いに耽っている間に、月明かりの下にサンがまた登場した。
真人の顔をちらっと盗み見れば、口元に両手を当てて、うっとりと目を細めて愛しのサンを見つめている。
その顔、マジでやめろ。
真人は徐に晃のシャツの裾を掴んだ。
「罠だよ、ダメだよ、ねえ、やめてあげて、サンだって良くないけど、女の子ひとりによってたかって、こんなの酷いよ」
サンにご執心の真人を無視して、晃はアシタカの右腕を指差した。
「冒頭の祟り神と、アシタカの腕から生えてるやつ、若干形状違くない?」
「スタンドを自分のものにしたんだよ、アシタカは」
「スタンドって?」
「早く読めよ三部を! いつまで二部で止まってんだ馬鹿!」
叱責を受けているうちに、アシタカが腹部を被弾した。
一瞬の油断が死を招く、恐ろしい映画だ。
「酷い。酷すぎるよ。アシタカが何をしたっていうんだよ……」
真人は涙ぐんで、やめて、血がたくさん出て死んじゃうよお、と晃のシャツをぐいぐい引っ張った。
いや、だからお前何回も見てるんだろ?
山犬の背に負われて山を走るアシタカが崩れ落ち、山犬に頭を噛まれるシーンではさすがに逝ったろうと思ったが、アシタカのご尊顔は無傷だった。
なぜ助けたのだとサンに問い詰められるアシタカの声がやや小さくて、何を言っているかよく聞こえない。
声のボリュームを少し上げてやろうと立ち上がったとき、インターホンが鳴った。
アイスのUber eats。
もしやとLINEを開けば、ARCのグループLINEから応援のメッセージが届いていた。
親切のつもりなのか、邪魔するつもりなのか。
「真人、メンバーからのアイス。冷凍庫入れとくね」
ソファの真人に声をかけると、真人がぷいっと振り返って顔を顰めた。
「……いちばんいいシーンだったのに」
「アシタカ、サンに何て言ってた?」
「……当ててみなよ」
晃はふむと首を傾げた。
「一目惚れです、結婚してください」
真人はぽかんと口を開けた。しかし、次第に顔を顰めて、わなわなと肩を振るわせた。
「そんなこと……そんなこと、アシタカが言うわけないだろうが。発想が、浅はかすぎる」
「え、でも絶対そうだろ? それ以外サンに肩入れする理由、ねーだろ」
「晃、うるさい! アイスよこせ!」
その後も繰り広げられる壮絶な命のやり取りのたび、真人はアイスの棒を握りしめたまま晃にしがみついた。
終盤、シシガミの頸が跳ね飛ばされてからは、二人して絶叫しまくっていた。
コダマの首がカラカラと鳴ってブラックアウトしたあと、エンディングテーマが流れると、真人は「米良さん……」と顔を覆った。
壮大なオーケストラのサウンドが流れ、次週予告が流れると、晃はほっとため息をついた。
「真人、サンに似てるよ」
「へ? どこが」
真人は驚いた顔で隣の晃を見上げた。
「いや、顔とか、表情とか。〝運動神経悪いサン〟って感じ」
晃の軽口に、真人は呆然とした顔でテレビ画面に視線を戻した。
晃は大きく伸びをして、ソファにのけぞった。
「なんちゅう消費カロリーの映画だ。おれは山通いより、雫と多摩で幸せに暮らしたいなぁ」
返事をしない真人を不審に思って顔を覗き込んでみると、みるみるうちに顔を顰めて晃を睨みつけた。
「……じゃ、雫と結婚すれば」
「…いや、そういう意味じゃ」
真人はすっと立ち上がった。
「せっかく楽しく見てたのに。勝手にヒロイン同士を対決させて、晃、やなやつ! おれ、風呂入ってくる!」
バタン、と脱衣所のドアを乱暴に閉めてて、真人は出てこなかった。
引っ込みがつかなくなり、着替えを取りに戻ってこれないであろう真人を案じて、晃は咳払いをしてドアをノックした。
「ご機嫌を直してくださいませんか、山犬の姫」
「今度はアシタカ気取りか。調子乗んな」
「いえ、山犬です。宿敵に噛みついて、姫を守りますので、どうかお召し物を取りにお戻りください」
「山犬はそんな喋りかたしない。晃、さっきまで何観てたんだよ!」
真人が山を降りてくるまで大人しく待つつもりが、一瞬ドアが開いたかと思うと、顔面に何かがペチっと当たった。
床に落下したおさかな柄のパンツを凝視する間に、ドアは再び閉じられた。
「てめ……おい、ふざけんな!」
鍵がかけられるより早く、晃はドアの中へと入った。
風呂場へ逃げ込む真人との第二ラウンドが始まり、二人の応酬と湯桶がひっくり返る音が廊下に響いていた。




