山吹色の疾走者
「ねえ、晃」
ガレージで言い争った日の夜、明かりを消した後も、晃は布団に入ってからLINEで望月としばらくやり取りを交わしていた。
「悪い。眩しかったか」
晃が寝返りを打って真人に向き直ると、真人はふるふると首を振った。
「……眠れねえの?」
タオルケットを引き寄せて、真人が少しだけ晃に近づいた。
「晃の声、聞くと安心する」
「……そうかよ」
暗がりの中でゆらゆら揺れる真人の瞳に晃は苦笑した。
「……そういやさ、ジョジョ、読んだよ。二部まで」
「……ほんとに?」
真人が目をぱちぱちと瞬かせた。晃は立てた肘に頭を乗せたまま頷いた。
「おもろかったよ。一部も、二部も」
「ジョナサンもジョセフも、かっこよかった?」
「かっこよかった。一部は終わり方が悲しかったから、二部でジョナサンがカーズを倒せて、安心したよ」
「……早く、五部も読んで」
「御意」
晃はタオルケット越しの真人の頭をポンポンと叩いた。
「……『貝の火』、覚えてる?」
タオルケットから、また声が漏れた。
「あぁ。覚えてるよ。一緒に読んだやつだろ。宮沢賢治の」
ウサギのホモイが、ヒバリを助けて宝珠を手に入れるんだったか。そのあと、狐に唆されて慢心になるんだよな。
「最後も覚えてる?」
晃はやや返答に悩んだが、素直に答えることにした。
「うん。目が見えなくなって、終わっちゃうんだよな」
「……狐、カーズみたいになればいいのにな」
「はい?」
晃が眉を顰めると、タオルケットがふふっ、と揺れた。
「どうしたらホモイが幸せになれるかな、ってずっと考えてたんだ」
真人はタオルケットからそっと頭を出した。
「目が見えるようになっても、狐がまた来たら、怖いじゃん。だから、狐がカーズみたいになればいいのになあ、って」
真人はほっとため息をついた。
「宇宙空間に飛ばされればいいのにってこと?」
晃の問いに、真人が真剣な顔で頷いた。
「狐を見なくて済むから。狐が本当に死んじゃうのは可哀想だけど、もう、ホモイと会わなかったら、それでいい。カーズみたいに、宇宙空間に行っちゃえばいいんだ」
「……なんじゃ、そりゃ」
晃は呆れながらも、真人のまっすぐな目に柔らかい笑みを浮かべた。
「わーったよ。じゃあ、おれもその物語に乗っかってやる」
「……いいの?」
晃は頷いた。
「いい。ホモイには、宇宙空間に飛ばされたやつの話はしない。もう、いないから。ホモイは、狐とは違う世界で暮らすってことだろ?」
「……うん」
真人は満足そうに頷いた。
「……ねえ、もう少し、話しててもいい?」
「いいけど。眠くねーの?」
「晃は、もう寝たい?」
真人の瞳が不安そうに揺れて、晃は慌てて首を振った。
「おれも、真人ともっと話したい」
真人はもぞもぞと身体を引きずって、晃の布団に上陸した。
「晃の好きな本のお話、聞かせて」
「……そうだなあ」
*
くそ。最悪、DVD掴んで帰るつもりが。
この延々と続く自己憐憫に付き合ったら、参加賞として返してもらえるんだろうか。参ったな。
テレビ台の重厚なオープンラックを盗み見ても、それらしきものは見当たらなかった。
榊は首を傾げながらリビングをうろつき回っている。
「……参ったな」
向こうは向こうで参ってるらしかった。
「何で、おれはいつもこうなんだ。いつも、いいように使われて、誤解されて。今度は、何だ。おれを犯罪者にでも仕立て上げるつもりかよ」
榊は拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。
晃は本棚を流し見た。著名な作家の文庫本が並んでいる。しかし系統もジャンルもバラバラで、いまいち本人の趣味嗜好が伝わってこない。
本当に読んでるのか、こいつ。
「おれを悪い人間だと思ってるんだ、晃くんは」
「おれがそう思うことに何か、不都合が?」
「……おれは、いい人間でありたいんだよ」
榊の声が震えた。
「出会う人には親切にしてるし、寄付だってしてる。誤解されてばかりの人生だったから、常に人の目を気にして生きてきた。どう見られるかに怯えて、それでも正しくあろうと必死に頑張ってきた結果が、その評価だなんて……耐えられない」
「耐えられないと、何が困んの」
「……おれが、死にたくなる」
思ったよりも大したことじゃなかった。
晃は安堵のため息をついて、おもむろに立ち上がった。
「……もしそうなったら、仲良しの人にでも慰めてもらってください」
晃はテレビ台のオープンラックの前に屈んだ。
「……何してんだよ」
「榊くんと話してても埒が明かないので、真人のDVDを探してます。ったく、どこだよ」
晃は舌打ちして据え置きゲームの横に置かれたバスケットの箱を開けた。
「……何を勝手に……」
「捨ててる? 捨ててるなら別にそれでいいや。ここから逃してやりたいんだよ、DVDを。真人の宝物なんだ。嫌な奴の家に置いとかせるのが嫌なんだと思う、真人は」
榊は晃の肩を掴んだ。
「おれは、悪い人間なんかじゃ、ない」
肩で息をする榊の手を振り払って、晃は榊に向き直った。
「言い分はわーったよ。自分が良い人間だっていう前提が間違ってた場合、その事実に耐えられないんだろ」
饒舌に喋っていた榊は押し黙った。
少しは刺さっているのだろうか。
晃は続けた。
「中島敦と遠藤周作を読んで、自分の行いを点検できない人間に、おれは興味がありません。お互い、縁遠いところで生きましょう」
「……何だよ、それ」
「榊くんと、倫理の話をするのは諦めます。その代わり、榊くんと真人との境界にはっきり線を引かせてください」
榊が眉を顰めた。
「……境界?」
「軍事境界線、もしくはバリアです。真人の生活区域に、足を踏み入れないでください。一生」
晃は時計を仰ぎ見た。
「うちの社長が、まさに今、お前んとこの大将にその話をしてると思うぜ」
榊は困惑の表情を浮かべた。
「どういうことだよ。生活区域って、どこからどこまで」
「真人、中野から東は都会だと思ってるらしいから、あんたは中野より西の中央線二キロ圏内には、立ち入り禁止。出先でばったり出会いたくねーもんな」
「……ふざけてんのか」
「ふざけてねーよ。大真面目に言ってる。仕事でも来んな。ロケも禁止」
榊は鼻で笑った。
「無理だろ、そんなの。そんな要望が、通るわけない」
「……腑抜けたこと言ってんじゃねーよ」
周りがどれだけお前の精神年齢にチューニングして交渉してるか、わかってっんのか。
晃は言いたいのをグッと堪えて、榊を睨み上げた。
フォースを乱すな。
おれはDVDを取り返しにきただけ。
自分に何度も言い聞かせて、晃は口を開いた。
「DVD返せ。返せったら、返せ」
「……嫌だ」
「返せよ。真人、お前と縁切りたいんだってば」
「それなら、真人が来るべきだろ」
「来ねーだろ、この流れで。脈ねえんだよ、諦めろ。横領野郎が」
つい、ツッコミのつもりで言ってしまった。
マスター・ヨーダのお叱りの声が聞こえた気がしたときには、もう遅かった。
榊の目が、怒りに染まっている。
「おれを馬鹿にするな!」
榊が握り拳を振り上げた。
晃がすぐに榊の腕を振り払い、脇をすり抜けて締め上げた。
「……酷いよ、晃くん。おれに死ねって言うのか。おれがいなくなればいいと。真人を傷つけたおれなんか、消えてなくなればいいって思ってるのか?」
思ってるよ。せっかく遠慮して黙ってんのに、なんで自分から当てに来るんだよ、こいつ。
晃がゆっくりと手を解くと、見上げた榊の顔が、涙で濡れていて、いよいよ晃は絶句した。
「違うって言ってよ、晃くん。おれは、悪くないって言って。そうじゃなきゃ、おれは生きているのが辛くなる」
「さっさとDVD返せよ、タコ」
榊の目つきが変わったのと同時に、晃は前屈の構えをとってスタートダッシュを決めた。
廊下をすり抜けて、一番奥の部屋のドアを開けると、大きなキングサイズのベッドが置かれていた。
ベッドにDVDを隠すだろうか。
逡巡する間に榊が追いついて、晃が振り返ると、ベッドの向かいの大きな壁掛けのテレビ画面が視界に映った。
大きく拳を振りかぶる榊の無駄な予備動作に、数年来の武道の勘が蘇る。
腕をいなして背中を軽く肘で突くと、榊は胸を床に強く打ち付けた。
晃は榊を踏んづけて、ヘッドボードの引き出しを順番に開けた。
「何してんだよ、お前!」
晃は覆い被さる榊の姿を視界の端に捉えたが、あえて抵抗しなかった。
榊の大きな手のひらと、長い指が、晃の首を絞めた。
雨の音。
頭上に広がる、眩しい灯りと、怒りに狂った榊の顔。
これが、真人の見てた景色か。
「ねえ、晃」
真人の声が聞こえた。
「晃のメンバーカラーが山吹色なのは、どうやって決めたの?」
ハクを連れて、日野の河川敷を散歩していたとき、真人がぽつりと呟いた。
「おれの名前が、朝日みたいだからだって。鷹見社長が決めたんだよ」
「朝日が、山吹色? 鷹見さんが、そう言ったの?」
真人の目がキラキラと輝いた。
「鷹見さん、漫画読まない、って言ってたのに。もしかして、あの後、読んでくれてたのかな」
目を細めて笑う真人の髪を、南風が揺らした。
「山吹色はね、ヒーローの色。始まりの色。VOWSを書いたのは、きっと鷹見さんなんだね」
歓声が聞こえる。
おれが帰る場所。淡い三色のペンライトの光が目に浮かんだ。
そうだ、俺等はARC。放て、三つの閃光。
晃は顎を強く引いて、首を締め付けている榊の鎖骨に前腕を差し込んだ。
「ふるえるぞ、ハート……」
足を踏み込んで腰を跳ね上げた瞬間、榊の体重がわずかに浮いた。
「燃え尽きるほど、ヒート……」
晃は身体を横に捻る。
首にかかっていた圧が、一瞬だけ緩んだ。
「おおおっ……刻むぞ、血液のビート!!」
ドゴオ、と鈍い音が響いた刹那、榊はそのまま全身を脱力して晃に体重を預けた。晃は大きく息を吸い込んで、咳込んだ。
くそ、せっかく必殺技を叫ぶつもりが。
「キンタマに波紋を流し込んでやったぜ、ザマーミロ!」
晃はベッドから榊を蹴っ飛ばした。
カッとなってやったわけじゃない。
これは正当防衛だ。
手は出してない。波紋を流し込んだだけ。
将軍へのなけなしの言い訳を心で唱え、晃は引き出しを開け放った。
飛行機の挿絵の描かれた、青いケース。絶対これだ。
晃は鞄へ無造作に突っ込んだ。
「お返しだ。なすりつけてやんよ」
晃は入れ替わりに肉食ウサギを鞄から取り出して榊の後頭部に叩きつけた。ぽすんとバウンドしたぬいぐるみが、床に転がり落ちていった。
晃は靴を鞄に放り込んで、靴下のまま玄関を飛び出した。
震える指先で、スマホをタップする。
「もっちー!! 終わった!!」
『え、ちょっと晃? 今どこいるの?!』
「今からそっち行く!」
晃は言いながら笑っていた。
晃は走った。
おれには、待っている人があるのだ。
おれは、信じられている。
芸能界を辞めてお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。おれは、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! アキラ!
おれは信頼されている。
おれは信頼されている。
先日の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。晃、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!
おれは、正義の士として生きるのだ。
晃は黒い風のように走った。降りしきる雨の落ちるより、十倍も早く走った。急げ、晃。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血の味がした。見える。はるか向うに小さく、望月のマンションが見える。足元の水たまりが、雨上がりの街灯の灯りの下で光を受けて、きらきら光っている。
……あの馬鹿野郎、たまには良い話も書くじゃん。
マンションの下で息を整えていたら、見慣れた顔が登場した。
「よう、マリオ。チャック全開じゃん。もしかして、クッパ退治の間、ずっとその状態だったの?」
勇者は、ひどく赤面した。




