クッパ会談
八王子の標識を通り過ぎた後、雨がぱらつき始めた。帰路を急ぐ間にも、雨足は次第に強くなる。
信号を待つ間に、ショートメールで望月に到着予定時刻を送り、晃は息を吐いた。
道路の奥に、シャッターの下ろされたバーバーサンライズが見えた。そのまま横切って裏のガレージへと回り、晃はデリカのエンジンを切った。
「真人、着いたよ。真人?」
到着に気づいたハクが跳ね起きて、ケージの中でワンワン、と吠えた。
「ハク。ちょっと待って。真人、熱あるかも」
晃はもう一度真人の額に手を伸ばした。
「ハク、先に戻って。お袋呼んでこい」
晃がケージの鍵を開けてハクをガレージに解き放つと、ハクは小雨の中を一目散に勝手口のほうへ走って行った。
助手席のドアを開けて真人の名前を耳元で何度か呼ぶうちに、真人はようやく目を開けた。
「……晃」
「着いたよ。真人、立てそうか?」
「……」
晃がシートベルトを外してリクライニングを戻すと、真人はゆっくりと瞬きして唇を噛んだ。
「いい。おれが抱える。真人、吐き気は? 息が苦しかったりしないか」
真人は晃の腕の中で小さく首を振って、安心したように目を閉じた。
晃は真人を抱え上げて勝手口まで走った。ハクが呼びつけた春枝が外廊下をこちらに駆けてきた。
「まひちゃん! どうしたの一体」
「……川に落ちた」
「川? ライフジャケット、使わなかったの?」
「……ごめん、その話は後。一旦、居間に寝かせていいか」
靴を乱暴に脱いで三和土から上がり、真人を下ろした。
座布団を折り畳み、真人の頭を乗せると、額に汗を滲ませた真人がふう、と息を吐いた。
「何してんだよ、お前」
照夫の声が背中に刺さった。
「何目ぇ離してんだ。川、舐めんなよ」
「……わかってる」
照夫が二の句を継ごうと詰め寄ると、ハクが晃との間に立って、照夫を睨んだ。
「熱、37.7よ。確かに、少し熱いわね」
春枝が隣の晃に体温計を見せた。
「真人、平熱低いんだよ。ガッツリ風邪引いてるかも」
「病院には?」
「キャンプ場の近くで受診した。家で安静にして、様子見てろってさ」
険しい顔で照夫が晃を睨んでいると、ハクがグルルル、と唸った。照夫は観念してため息をついた。
「わーったよ、ハク。晃はちゃんとやってたんだな」
「ワン!」
真人の横に寄り添う両親を前に、晃は膝をついて向き直った。
「悪い。お袋、親父。おれ、これから行かなきゃいけないところがあるんだ」
「ええっ。今から?」
狼狽える春枝に、晃は小さく頷いた。
「真人には、事務所に荷物取りに行ったって伝えてくれるか。必ず戻る」
いつになく神妙な顔つきの息子に、照夫は口をつぐんだ。
「でも、まひちゃん、調子悪いのよ。晃がいなくて、またあんな風にパニックになっちゃったら……」
春枝が晃と真人の顔を見比べた。晃は春枝の肩に手を置いた。
「もしそうなったら、真人が何を言っても、〝今、ここは安全な場所だ〟って、言ってくれ。それでちゃんと戻れるから」
晃は照夫に顔を向けた。
「親父、どうしても外せない用事なんだ。真人のこと、お袋のこと、頼む」
晃は頭を下げた。
「……ちゃんと、帰ってくるんだな?」
「ああ」
晃は大きく頷いて、もう一度真人の顔を覗き込んだ。
顔が赤く、額には汗が滲んでいる。
でも、ここに初めて来たときと同じように居間で横たわる真人は、もう、あのときの真人じゃない。
ああ、そばにいてやりてえな。
行きたくねえなあ。
ずっと、隣にいられたらいいのになあ。
歪む口元をきゅっと引き締めて、晃はネイビーのキャップを被り直した。
「行ってくる」
晃はシューズをつっかけて、振り返らないまま駆け出した。
雨の住宅街を走り抜け、待ち合わせの交差点まで向かった。
対面のセブンイレブンに、よく見た顔と事務所の車が停まっていた。
「悪い、待った?」
「いいから、乗って。ああもう、傘も差さずに」
晃は適当に雨を払って、後部座席に乗り込んだ。
「もっちー、将軍の面談にはついて行かなかったんだ」
「うん。なんか、断られちゃった。やっぱ信用されてないのかなー、おれ」
運転席の望月が明るい調子で答えた。
「そんなことねーよ。将軍、ひとりで殴り込みに行ったんだろ。誰も巻き込まないために」
「そうなのかな。で、晃は?」
望月はエンジンのスイッチを入れた。
「会うこと、社長に相談したんでしょ。よく断られなかったね」
晃は苦笑した。
「まあね。一応、出された読み物に手をつけるなとか、何があっても手は出すな、とかは言われましたけど」
「はははっ」
「凌也と宗馬は、何か言ってた?」
「明日、三人で久しぶりにYouTube撮るの楽しみって言ってたよ」
「……そっか」
高速を降りる頃にはすでに日は落ちて、新宿の夜景が目に痛かった。
*
真人が中学生になった頃、真人の担当マネージャーは鷹見から瓶子に代わった。理由は真人も知らされていなかった。
それからほどなくして、鷹見は他のスタッフ数名と共に、仕事を辞めることになった。
真人は鷹見によく懐いていたし、てっきり、鷹見は真人を引き抜いて辞めるのだろうと榊は思っていた。
「鷹見さん、酷いよな。お前を置いてくなんて」
榊の言葉に、真人はギターを弾いていた手を止めて、ぽつりと零した。
「一緒に来ない? って誘ってくれたよ、鷹見さん」
「へえ。じゃ、なんで、ついて行かなかったんだよ」
「……瓶子さん、寂しそうだったから」
「……何それ」
「瓶子さん、たぶん、悲しかったんだと思う」
「何それ。鷹見に惚れてたってこと?」
真人は質問に答えなかった。暗い顔のまま、ギターのマイナーコードを弾いて、何やらよくわからない昔の歌を歌っていた。
真人を見捨てた。
あるいは、真人の言うように、真人に見捨てられた、あの鷹見が。今更、古巣のブレイムに何の用なのだろう。
榊はソファに凭れて、ぐいっとテキーラを煽った。
何の思惑があろうと、もう全ては昔のこと。結局真人は芸能界を辞めてしまったし、鷹見は別の事務所で元気にやっているのだから、皆、仲良くやればいいのに。
アルコールが身体に染みて、心が凪いでいく。
昔は薬に溺れたこともあったな。あれは良くなかったな。
当時は本当に幼稚だった。もう、あんなバカな真似はしない。あんなものに頼らなくても、大丈夫。
榊は手元のデジタル時計を確認した。
そろそろ時間だ。
晃くんは、お酒は好きかな。
テーブルのグラスに浮かぶ氷を眺めていたら、インターホンが鳴った。
カメラには、キャップを被った青年。スタイルの良さで、一目で晃とわかった。
榊が玄関ロックを解除すると、画面上の青年はマンションの中へと足早に入って行った。
「ほんとに、ほんとに大丈夫?」
ウインドウを開けて何度も確認する望月に苦笑して、晃は頷いた。
「幡ヶ谷のもっちーハウスで待ってて。凌也と宗馬にもLINEしてある。あいつらも、仕事終わったらそこに集まるよ」
「もう。人の家を待ち合わせ場所にしないでほしーな」
望月は膨れっ面をした後、少しだけ心配そうな表情を浮かべて、手を挙げた。
「武運を祈ります。じゃあね!」
晃は去って行く車に手を振って、マンションのエントランスを見上げた。
「……武運は使いたくねえんだけど」
部屋番号を押すと、無言で通された。大きなフェイクグリーンの観葉植物が置かれたアプローチを抜けた先、黒いエレベーターが停まっていた。鈍く光る真鍮のボタンを押し、最上階へと昇る。
廊下の突き当たり。もう一度深呼吸をしてインターホンを押そうとしたとき、家主がドアを開けて出迎えた。
176センチの自分よりも、更に数センチ高い目線。
「お疲れ様」
低く落ち着いた声色だった。
ふと、ハーブのような匂いが鼻を掠めて、昔、対談のときの記憶が蘇った。
榊の色気のある声と、鼻先に香る、ラベンダーの匂い。
……ああ、こいつだ。
なんで、今まで忘れていたんだろう。
「忙しいなか、ご足労かけてごめんね」
ラベンダーの匂いが鼻を掠めるたびに、目の前が真っ赤に染まる。
こいつのせいで。
こいつのせいで。
真人は、こんなやつのせいで。
固く握りしめた拳の間から、わずかに鉄の匂いがした。
落ち着け。
怒りに染まるな、フォースを乱すな。
晃は自分を叱咤して、榊の背中を追った。
「事務所の人には、ここに行くことは話した?」
「話したよ」
「そうなんだ。なおのこと、来てくれて嬉しいな。晃くんのとこの社長、うちと因縁あるのに、OKしてくれたんだね」
「……」
「座って」
榊がリビングのコの字型のソファへと促した。
「片付けてなくてごめんね。今、飲んでたんだ。晃くんも、何か飲む?」
一人暮らしにしては大きい冷蔵庫を開けて、榊はワインボトルを取り出した。
「ARCの去年の映像媒体の売り上げ、アーティスト部門二位だったんだって? 凄いじゃん」
「……」
「アイドル、すごいよね。何か発売されるたび、ファンたちの団結力が」
「ファンあっての、アイドルなので」
やっと声を発した晃の言葉に少し驚いた顔をして、榊は笑みを浮かべた。
「……知り合いのアイドルの子がさ、結婚するってニュースでめちゃくちゃ叩かれてて、可哀想でね」
榊はワイングラスを二つ手に取って、リビングへと戻った。
「そりゃあ、俳優だって人気商売だけどさ。アイドルが恋愛することへの、ファンへの拒否感? 凄まじいものがあるなあ、って驚いたよ」
「……何を言いたいんですか?」
「晃くんが恋をしたら、どうなるのかなって。ファンに隠して付き合うのかな、やっぱり。それとも、今は仕事で忙しい?」
榊は晃の斜向かいに座り、グラスにワインを注いだ。
「おれはさあ、この業界にはスカウトで入ったクチでね。酷いもんだと思うよ。物事の分別がつかない頃に、こんな世界に連れてこられて。おかげでいい思いもしたけど、散々な言われようだ」
榊はソファに手をついて宙を仰いだ。
「この世界で幸せになるって、なかなか難しいものがあると思うよ。一般社会じゃ理解されない苦しみがあるっていうかさ」
晃はぴくりとも動かず、ソファの正面を見つめていた。
「ねえ、何か言ってよ。おれ、この気持ちを晃くんはわかってくれると思って、話してるんだ」
「……真人の話って、何でしょうか」
晃の顔が榊へと向けられた。
「今日、榊くんの話を聞いて、納得できたら、おれはまっすぐ帰るつもりです。今日、榊くんとこうして話すことが、少しでもお互いに良い影響を与えるといいなと思って、ここへ来ました」
「……わかった」
榊は大きく広げた膝に肘をついて、上体を斜めに傾けた。
「実はさ、先日、凌也くんと話す機会があってね。そのときに、凌也くんから色々と真人のことを聞かれたんだ」
わかりやすく晃の顔が動揺したのが榊にもわかった。
この様子だと、本人からは聞いていないらしい。榊はクスリと笑みをこぼした。
「凌也くんのお姉さんが、真人のファンだったみたいで。それで、色々と言われちゃったよ。真人が事務所の輪から外されてたんじゃないか、とか。そんなことはないんだけどね」
「……」
「おれ、本当に真人のことも好きだったし、大切にしてた。結果的に仕事を辞めることになったことは、残念だと思うけど、無関係の人たちにまで憶測であれこれ言われるのは、心外なんだ」
「……おれも、そうなんじゃないかって?」
晃が尋ねると、榊は頷いた。
「おれ、晃くんと対談したときのこと覚えてる。読者の企画だったね」
榊は晃を見つめた。
「自分のお気に入りの著者について、語り合う企画。中島敦、それに、遠藤周作も読んだよ。晃くんに触発されてさ」
「……」
「お薦めした、『フォスフォレッセンス』は、読んでくれた?」
「読みました。太宰は昔から苦手だったんで、榊くんに勧められてなかったら、読んでなかったと思います」
「あはは。でも、面白かったろ?」
晃は顔を上げた。
「くっそ、つまんなかったっす」
テーブルの上の氷が、カランと音を立てた。
「おれは、太宰が嫌いだ。文章は美しいのかもしれない。でも、手を替え品を替え、言ってることは全部、自己憐憫。なーにが、夢で会う妻だよ。よくもまあ、あれだけ〝テーマ・おれ〟でペラペラ語れるもんだな」
捲し立てる晃の口元から、鋭い切縁が覗いた。
「それは、それは。太宰治は、文学作家としてもっとも評価されてる人なのに。晃くんには、良さがわからなかったか」
「……それが、話したかったことってことで、いいっすか」
今にも噛みつきそうな晃の鋭い目線に、榊は口角を上げた。
「いいんだよ、別に、なんでも肯定してくれなくても。そういうネガティブな意見も、興味深いし。晃くんとは、こんなふうに今後も色々話せたら嬉しいんだけどな」
晃は目を逸さなかった。
「……榊くんの気持ちは受け止めます。でも、榊くんとは仲良くできません。ごめんなさい」
晃は深く頭を下げた。
「……なんで」
榊は苛立った様子を隠すこともなく、頭を下げている晃を睨みつけた。
「おれが、榊くんと会ってることを知ったら、真人が悲しむからです」
「……何だよ、それ」
榊の声が低くなった。
「騙されてるよ、晃くん。それ、真人の常套手段。自分を憐れんでくれる優しい人に取り入って、味方につけるんだよ。それで、おれがどれだけ疲弊したと思う?」
晃は更に深く頭を下げた。
「真人のDVD、返してください。お願いします」
「……何で、それを知ってる」
「真人と、榊くんのことについて話しました」
晃は顔を上げた。
「もう、榊くんとは会わない。仲良くしない。榊くんとは関係ないところで、自分の人生を歩く。真人は、そう言ってました」
「……話にならないな」
榊は乱暴にグラスを掴んで、残りのテキーラを一気に煽った。
「真人はどこに居るんだよ。お前のマンションにでも、匿ってんのか」
「……言えません」
「アイドルが聞いて呆れる。美少年を軟禁して、何やってんだよ」
「……心療内科に行きました。あと、ドッグランにも行きました」
「バカにしてんのか!」
榊がグラスをテーブルに叩きつけた。粉々に砕け散った破片が飛び散って、晃の腕にも飛んだ。
「心療内科? はあ? まさか、おれのことを今更何か言ってたのか。酷いことをされたんです、って? ふざけるな。おれがいつ、そんなことをしたよ」
榊はソファからピクリとも動かない晃の胸ぐらを掴み上げた。
「一般の社会じゃ、理解されない形ではあったかもしれない。ただ、おれらは芸能の人間だろ。普通じゃないんだよ。一般人の物差しで、後出しで倫理を持ち込むのは、卑怯だ」
「つまり、榊くんは自分の行為は一般倫理に反すると?」
晃が尋ねると、榊は薄く笑みを浮かべた。
「あいつは、何度もおれの家にやってきた。別れ際には泣いて縋った。今更、何が苦しいだ。おれだって、苦しかった。だけどおれは、一度だって真人を咎めなかった」
肩で息をする榊をまっすぐ見据えて、晃は口を開いた。
「真人は、別にあんたを責めてない。今、榊くんが言ったこと、そっくりそのまま〝だからおれが悪い〟って言ってた」
「……へえ、そうか」
榊の掴む腕の力が弱まった。
「……おれからも、質問いいっすか」
晃は襟元を引き剥がして、呼吸を整えた。
「真人に飲ませてた薬って、何すか」
「……」
「いや、単純に。違法なやつだったら、だめじゃん。恋だの愛だの、関係なく」
「……ねえ、今更の質問になるけど、これって録音してたりする?」
榊が額に青筋を浮かべながら晃に尋ねた。
「してない。ドアを開けるまでは、ワンチャン友達のままでいられるかもって期待してたから。裏切りたくない、っていう最後の良心だった」
「……そうなんだ」
榊は手を閉じたり開いたりしながら、晃を見下ろした。
晃は大きく息を吐いた。
「おれ自身、ときどき境界踏み越えそうになってるんで、自分もあんた側になりかけてる瞬間があるのは自覚してます。でも、踏みとどまりたい。真人を、傷つけたくない」
ゆっくりと立ち上がり、晃は榊を見据えた。
「今、ここの自分が、正しく居られてるか、見定める。自分がどう在りたいか、あんたを鏡にして、決める」
「……全然、言ってる意味が、わかんない」
榊の口元が歪んだ。
「ふふふーん。録音はしてないけど、盗聴はしてるんだなあ」
凌也はイヤホンを片耳につけたまま、小鳩の運転するマネージャー車の後部座席でスーパーマリオGALAXYをプレイしていた。
「車に乗りながらゲーム、酔わないんですか?」
小鳩の呆れた顔がバックミラー越しに覗いた。
「へーきへーき。それより急いで、こばちゃん。これは早くスピーカーに繋いで聴きたい系だよ。クライマックスはすぐそこなのだわ」
マリオがヨッシーに飛び乗って、クッパ城へと突き進む。
「いけー、晃! ヒップドロップ決めちゃっても、おれは許すぞ!」




