真人の問い
テント道具に調理道具、ファイヤースターター、折りたたみ椅子、クーラーボックスにはペットボトルの水と桃を詰めて、荷台に積んだ。
「……ずいぶんラフな格好ですね、真人さん」
晃の呟きに真人はむうと口を尖らせた。
「晃だって短パンじゃん。いいの。寒かったら着替えるし」
「……へいへい」
ライフジャケットは、大昔に買った子供用のサイズのものしか見つからなかったが、真人に着せてみるとビスチェのようにすっぽり入った。真人は「やったー!」と飛び跳ねた。
「楽しそうだな、まひ男」
定休日の照夫がわざわざガレージまでやって来た。
「おれもついて行こうか」
「させねえよ。親父はお袋と仲良く日野で留守番してろ」
晃が青筋を立てて照夫を制している隙に、春枝が二人の横をすり抜けて真人におにぎりを手渡していた。
「わあ。ありがとうございます!」
「キャンプだから、塩むすびにしてるわ」
「飯盒あるからいいのに……」
「焼きおにぎりにすればいいよ。ねえ、ハクー?」
ハクがワンワンと吠えて尻尾を振った。
まごまごしていると本当に両親が着いて来そうで、晃は真人を助手席に乗せすぐさまエンジンのスイッチを入れた。
道志村にある、水の元オートキャンプ場を目的地にセット。
テンションの上がっているハクをなだめて、移動用キャリーと一緒に後部座席の足下に乗せる。
真人がシートベルトをしっかり締めたのを確認して、晃はアクセルを踏んだ。
「出発!」
真人の号令と共に、ユーミンの歌声が流れ始め、真人は幸せそうに目を細めて首を揺らした。
相模湖の雄大な湖面に差し掛かったところで、晃はエンジンをかけたまま、一度車を降りた。
「おれ、缶コーヒー買うけど、真人は?」
「ハクいるし、ここで待ってる」
晃はコンビニへ駆け込み、缶コーヒーを手早く手に取った。真人の好きそうな甘いお菓子もいくつかカゴに入れ、セルフレジで会計をすると、合計金額が“619円”と表示された。
晃はしばらく画面を見つめてから、適当にその辺のガムを追加して、会計を済ませた。
両手にコーヒーとお菓子を携えて、運転席のドアに手をかけたとき、窓の向こうに呆然と前を向いて固まっている真人の横顔があった。
「……真人?」
晃は急いでドアを開けた。
返事のない真人の顔を覗き込むと、真人は真っ赤な顔で俯いてしまった。
晃は首を傾げて数秒、とんでもないミスをやらかしていたことに気づく。
再生リストに、真人の『Drifter』を入れっぱなしにしていた。
「……これ、聴いてたの?」
真人が絞り出すように尋ねた。
──やっちゃった!
晃は頭を抱えて、ごめん、ごめん、と謝りながら運転席のドアを閉めた。
「真人、ごめん、これはその……」
晃が謝る間にも、十六歳の真人の歌声が耳に届いて、晃は観念して項垂れた。
「聴いてたよ。もう、何百回も。ずっと、聴いてた」
真人の名前を初めて検索した夜に見つけた、キリンジのカバーソング、『Drifter』。
その後、いつ、ダウンロードしたんだったか。結構すぐに欲に負けた気がする。
「……そうだったんだ」
真人は目をぎゅっとつぶって、顔を覆ってしまった。
「すいません、キモいです。これに関しては本当に何の弁明の余地もなく……」
晃は言いながら、買ったばかりの缶コーヒーに手をつけることもなくがっくりとハンドルに額をつけた。
堀込兄弟の紡ぐ旋律と歌詞をなぞりながら、八年前の真人が鳴らすアコースティックギターの響きに、柔らかくて鼻にかかる甘い声が、車内に溶けている。
「……いい声してんじゃん」
真人のことは直視できなかった。
曲が終わり、晃は無音の車内でサイドブレーキを下ろし、運転を再開した。
「……暑い」
真人はパワーウィンドウのスイッチを押した。夏の山風がパタパタと真人の髪を跳ね飛ばして、火照った頬を冷やしていく。
「晃、堀込兄弟知ってる? 原曲歌ってるバンド」
「知ってる」
「そっか。Oasisの、ギャラガー兄弟は?」
「知ってる。おれ、『whatever』好きだもん」
真人はアンプラグドの曲が好きだ。ミニマムなサウンドで、歌声が空気に溶ける感じ。
「いいよね、兄弟バンド」
「だからカーペンターズが好きなのか」
晃の問いに真人は嬉しそうに頷いた。
「うん。サイモンとガーファンクルも。たぶん、二人組が好きなんだ」
ステージに立ったときに、音楽が共鳴するあの感じ。観客のために歌っているはずなのに、二人だけで通じ合っている瞬間を感じると、たまらなく羨ましくなる。
「リアムもノエルも、喧嘩ばっかりしてないで、仲良くすればいいのにねえ」
真人が晃のスマホのミュージックから『whatever』を再生すると、開き直ったかのように、晃がリアムのようながなり声で歌い出した。
恥ずかしそうに歌う晃の横顔を眺めながら、真人ははためく髪に指を通した。
*
川のせせらぎの音と涼しい風。晃がエンジンを切ると真人が勢いよくドアを開けて伸びをした。
晃が積荷を下ろす間に、真人はパーカーを羽織り、ハクのリードを握りしめて砂利道を駆け出した。
積荷の中からテントを取り出し、晃はまずはじめにテントのペグを打った。
「すごいなぁ、ホイポイカプセルみたい」
晃の澱みない手捌きでテントが立ち上がるのを真人はハクと一緒に横で観察した。
「ねえ、水切りしたい」
ハクが真人の背中を鼻で突いて、川遊びに誘っている。
「いいけど、先に昼メシ作ろうぜ」
真人は晃が昼食の準備をする様子を見ながら、そろりそろりと後退して、ハクと一緒に水切り用の石を探し始めた。
「わっ、冷た! ハク、やめてよ、冷たいって」
「真人、少しでも入るなら、ライフジャケット着な。待って」
晃は一旦手を止めて、車の荷台からライフジャケットを取り出した。
「晃、いいって。それ、ほんとに子供みたいでださい」
「ダサくても死ぬよりマシ。川舐めんなよ」
晃はぴしゃりと窘めて、ジャケットのベルトを緩めて調節した。
「はい、行ってらっしゃい」
「よし、ハクー! もっかいやるぞ!」
真人が駆け出して行くのを見送りながら、改めて周囲を見渡すと、平日ということもあって人影はほとんどなかった。
晃はクーラーボックスを取り出して、桃をネットに入れて川の浅瀬に沈ませた。天然の冷やし桃だ。
ハクへのご褒美の和牛ステーキも出して、ほりにしとクレイジーソルトを混ぜた特製調味料をジップロックでシェイクする。
あーあ。日帰りか。
せっかくこのテントで星空を眺めながら……いや、いい。別に日帰りでも、真人楽しそうだし。
真人にファイヤースターターを触らせたらきっと喜ぶだろうと思って、背後で遊んでいる真人に声をかけるが、返事がない。
振り返ると、川のそばにはハクも真人もおらず、もっと上流の方に豆粒のような一人と一匹が見えた。
「何ですぐ目を離すと消えるんだよ、あいつは!」
晃は怒鳴りながら真人のいる川上へずんずん歩いた。
真人が川でハクと戯れていると、河原に一人ぽつんと立っている男の子がいた。ライフジャケットも着ず、ぼんやりとした顔で浅瀬で足を揺らしている小学三年生くらいの子に、真人はバシャバシャと歩み寄った。
「大丈夫? お父さんやお母さんは?」
「お父さんもお母さんも向こうにいる。喧嘩した」
男の子はビジターセンターの方向を指差した。「三センチでも溺れると思え」という晃の声が頭に響いて、真人はライフジャケットを脱ぎ、「これ着な」とその男の子に羽織らせた。ベルトの長さを調節していると、「あなたは誰?」と男の子は首を傾げた。
「ぼくは、神谷真人。学生。これはもともと子供用のライフジャケットだから、ほら、ここ締めたらピッタリ。いいね、かっこいい!」
真人がにっこり笑うと、男の子はありがとう、とライフジャケットのベルトを撫でた。
「なんだ、天使かと思った」
無垢な顔でとんでもない発言をする男の子に、真人は顔を赤くした。照れ隠しに、あはは、ダメだよ、そんなに向こう行ったら溺れるよ、と真人は川の奥へバシャバシャと逃げた。
天使だって。変なの。そんなわけあるかい。
不思議と嫌な気はしなかった。
「真人!」
晃の声に振り向くと、河原に立ち尽くした晃が泣きそうな顔でこっちを眺めていた。
「ばかお前、戻れ。そっち危ない。てか、ライフジャケットはどうした」
「さっき、そこの子に貸してあげたー」
浅瀬を指差すと、うっかり体勢を崩してよろめいてしまった。
ここでしっかり踏みとどまらねば、また晃に叱られる。
真人は慌ててバランスを取ったが、片方のサンダルが脱げてしまった。川面を流れて行くサンダルに慌てて手を伸ばすと、どこからか声が聞こえた。
真人、おいで。
そんなはずはないのに、じいちゃんに呼ばれた気がした。
サンダルは奥の方へ流れていき、つられてほんの数歩、足を伸ばすと、危ない、と叫ぶ声が聞こえた。晃のほうへ振り返ろうとして、失敗した。後ろから抱きしめられるように川の水が真人を包み込んで、川底へと引き込まれていく。
空気の泡が口からボコボコと溢れて上へ上がる。太陽の光が川面を照らしていた。
そこで、真人はようやく思い出した。
そうだ。昔、川で溺れた。
じいちゃんが死んで、ちょうど一年くらい経った頃。
夏の川に、家族三人で行った。
じいちゃんがいつもとなりに座っていた後部座席。そこに、真人がひとりで座った。
小学生になって、チャイルドシートが外された後部座席はがらんと広くて、ほんの数時間の山道がやたらに長く感じた。
渓谷に辿り着いてからも、真人の心はずっと心細かった。
じいちゃんがいたら、きっと釣りを教えてくれたし、手を繋いで川にも一緒に入ってくれたに違いなかった。
せっかく自然の中にやってきたのに、いつもと変わらず二人で楽しげに会話する両親の姿が、真人は悲しかった。
川で水切りをして気を紛らわせていたら、ふいに、誰かから声をかけられた気がして、真人は顔を上げた。
しばらく経って、「おい、しっかりしろ!」と怒鳴る声が聞こえた。
父親の正悠が、げほげほと咳き込みながら、息も絶え絶えで真人の体を揺すっていた。
周りには人がたくさん集まっていた。
正悠が地面に突っ伏してぐったり倒れ込む横で、雪子は顔を覆って泣いていた。
「坊主、大丈夫か」
遠慮がちに他の観光客が真人に声をかけた。真人は仰向けに倒れたまま、うん、と返事するしかなかった。
まるで自分に何も興味のなさそうだった正悠が、自分を助けてくれた。
その事実が心を温かく包むかと思ったのに、そうはならなかった。
雪子は正悠の横で、怖かった、怖かったと泣いていた。真人はヨロヨロと起き上がって雪子に抱きついた。
「ごめんなさい。心配かけて、ごめんなさい」
雪子は首を振って、真人に縋りつかれたまま崩れ落ちてしまった。
もしかしたら、助からないほうが良かったのかもしれないと、真人は思った。
自分は雪子に迷惑をかける。傷つける。いつも、悪気なく。
「神様って誰? 偉いの?」
「神さまは、どうして悪いことする人間も作ったの?」
「お母さんの神さまは、どうしてじいちゃんは天国に連れていかないの?」
きっとこの質問を雪子に投げかけた頃には、雪子から嫌われていたのだろう。
もしくはそれよりずっと前。
雪子のお腹に、大きな一本の傷跡を作ったそのときから。
それでも、雪子の前ではいい子でいたかった。
学校で嫌なことがあっても。
時間局の人たちに連れて行かれても。
大人の人たちに、「出来損ない」と言われても。
そもそも、生まれてきたのが間違ってたんだから仕方ない。そう自分に言い聞かせてやってきた。
だってそうじゃなきゃ、皆が悪いことになる。皆がひどい人になる。
それよりずっとまし。自分だけが間違ってる方が、ずっとまし。
ああ、あのとき。
あのとき死んでたら、どうだったかな。
川面から腕が伸びて、真人の身体を包み込んだ。
じいちゃんが迎えにきたのだろうか。
真人は目を閉じて引き上げる腕に体を委ねた。
「真人!! しっかりしろ!!」
真人は激しく咳き込みながら目を開けた。
はっとして顔を上げると、見たこともないような怒った顔の晃が居た。
「ばっか野郎が……水温何度だと思ってんだ、この大間抜け!!
ジャバジャバと大股で川を渡りながら、「ハク、テントからタオル取ってこい!!」と晃が叫んだ。
「寒いだろ、唇真っ青だ。まず服脱げ。テントに入って身体暖めねえと……」
なぜこの人は、当たり前のように助けるのだろう。
電車で倒れたときも、そうだった。
冷たい暗闇の中で、踠きながら伸ばした手を、晃は掴んで離さなかった。
晃がそうやって、余裕のない顔で助けてくれるとき。
もしかしたら、自分はそれなりに大切な存在なのかも、って。
不思議とそんな気分になる。
嘘でもそう思えているとき、川に落ちてからずっと冷たかった身体の中が、じんわりとあたたくなる。ほんの少し、心に灯りが灯る。
ねぇ、晃。
助けてくれたこと、嬉しかったんだ。
ずっと、誰かに見つけてほしかった。
おれ、晃と会えて、良かった。
心の中で言ったつもりが、口に出していたらしい。
真人の言葉を聞いた晃は、目を大きく見開いて、真人をおもいっきりつねった。
「ふっっっざけんな!! 何今際の際みたいなことほざいてんだ、ボケが!! おれはなぁ、溺水は地雷なんだよ! 太宰嫌いっつったろうが! 服、脱げっつってんだろ、低体温で死ぬぞバカが!!」
もう知らん、と吐き捨てるように言うと、呆然としてる真人をバンザイさせて晃は服を淡々と脱がせた。
「流石に下着は自分で脱げ!」
晃は真人の頭にパンツを投げつけ、毛布を頭から被せると、テントを出た。
ぽつんと残された真人の元へ、ハクが心配そうに身体に抱きついてきた。ハクの体の熱で、初めて自分の身体が冷え切っていることに気づく。
身体を震わせながら下着を履き替えていると、火おこしに成功した晃が、すぐ戻ってきた。
「真人、ライフジャケットが川縁に落ちてたぞ。どういうことだ」
真人が男の子に着せたはずの山吹色のライフジャケットは、ベルトが締まったままの状態で晃の手にぶら下げられていた。
「……幽霊?」
真人の真っ青な顔に、晃は大きくため息をついて、真人をブランケットで包んだ。
「なんで、目を離すとすぐこうなるんだよ。こっちの身が持たん。頼むから、心配させないでくれよ……」
晃は真人を抱きしめながら、どこかの病院に電話をかけていた。
「はい、はい。わかりました。ここから三十分くらいで着くと思います……はい、ありがとうございます」
ブランケット越しの晃の身体が暖かかった。
電話を切った晃に、真人は晃に訴えた。
「思い出したよ、晃。おれ、こういうことよくあるんだ。昔から」
川にも落ちたことあるし、誘拐未遂にも遭ったことある。
山で、迷子になったことも。
その度、このまま神隠しになったほうがいいのかな、っていつも思ってた。
帰る家のこと考えるんだ。
川に落ちる子、誘拐された子、芸能界辞めた子。
家を出る前の自分よりちょっとだけダメな子になって帰ったとき、待ってる家族の顔を考えると、このまま帰んないほうがいいのかなぁ、って。
晃は、がっかりしない?
おれがどんなにダメなやつでも、ポカやらかして、泣きながら帰ってきても。
何ひとつ、差し出せるものがなくても。
それでも、隣にいてくれる?
おかえり、って笑ってくれる?
「当たり前だろ。真人は、おれの推し。趣味でやってんだから、わあわあ言うな」
*
帰りの車内は静かだった。
ウインカーを出しながら晃が信号が変わるのを待っていると、真人の目がぱちりと開いた。
「……着いた?」
「まだ。今高尾」
「真人、寒くねえ?」
「へいき」
真人は瞬きしながら晃のかけたタオルケットに顔を埋めた。
「……高尾って、天狗いるんだっけ。トトロもいるのかなぁ」
「……お前、ほんとそればっかだな」
晃が呆れたようにため息をついた。
「……そうだ、トトロで思い出した。晃に聞きたいことがあったんだけどさ」




