弾劾の咆哮
「真人。真人、聞こえるか?」
晃の声を頼りに、真っ暗な視界の中で腕を伸ばした。
曇った視界が次第に鮮明になり、晃の顔が浮かんだ。
明かりのつけられた部屋の中、時計の音が聞こえる。
晃以上に自分も全身がびっしょりと汗をかいていて、何か声を出そうにも呂律が回らない。
「まひちゃん。大丈夫?」
春枝の声が聞こえた。晃が後ろを振り向いて、いいから、と小さい声を上げた。
「しばらく起きてる。何かあれば言え」
照夫の低い声も奥で聞こえた。
今、何時だ。
あれ? 寝たんじゃなかったっけ?
そうだ。夜中だ。みんな、どうしてここにいるんだろう。
ドアが閉まる音と共に、また部屋は静かになった。
──見られてしまった。
最悪だ。何でだろ。
桜桃忌は終わったのに。
毎日、毎日こんなに良くしてもらってるのに、どうして。
「真人、着替え持ってこようか。汗で気持ち悪いだろ」
晃が背中に回していた腕をゆっくり下ろして眉を下げた。
気持ち悪いだろ。
晃の言葉が頭の中で反射して、真人はぎゅっと目を瞑った。
「……いらない」
真人は枕を抱きしめて、晃に背中を向けた。
朝の食卓で、晃の口から今日のキャンプの延期が伝えられた。
「……おれが、夜中騒いだから」
真人が肩を落とすと、晃は苦笑した。
「おれが心配なだけ。気にすんな」
「いつ、行けるかなあ」
「明日の午後は田中先生のとこに行くからなあ……体調が良くなれば、明後日に日帰りで行こうぜ」
「……晃、もう、次の日からお仕事なのに。ほんのちょっとしか、もう一緒に居られないのに」
真人が絞り出すように訴えると、ハクが真人の隣でくうん、と鳴いた。
真人は朝食にほとんど手をつけなかった。
食事を下げた後、晃の部屋に敷いていた布団をずるずると引きずって客間へ戻り、そのまま姿を見せなくなった。
洗面所で顔を洗う晃に、春枝が声をかけた。
「ねえ、晃。まひちゃん、大丈夫なの。昨晩、あんなに取り乱してたじゃない」
「……びっくりさせて悪かった」
桜桃忌を終えて、油断していた。
何も解決したわけじゃないのに、何を浮かれてたんだろう。
「……まひちゃん、何かよほどのことがあったの」
チューブを何度押しても、歯磨き粉は出てこない。晃は潰れたチューブをゴミ箱に放った。
「そこは、聞かないでくれると助かる。お袋にそこをつつかれるの、真人は一番嫌なんだよ」
「晃は、知ってるの。まひちゃんに何があったか、聞いてあげられてるの?」
「……まだ、全部じゃない」
春枝は涙を浮かべてエプロンの裾を握りしめていた。
「晃、お仕事戻るんでしょう。まひちゃんはどうするの。まさか、あんな状態で一人暮らしに戻るなんてこと、ないわよね?」
「……今、事務所が真人の新しい家を探してくれてる。セキュリティ対策がちゃんとしてるとこ」
引き出しを漁りながら淡々と答える晃に、春枝は顔を顰めた。
「何言ってるのよ。セキュリティとか、そういうことじゃないでしょ、まひちゃんに必要なのは」
「……お袋がそう思ってくれてることは有難いけど、どこで生活を立て直すかは、最終的には真人が決めることだから」
「決めることじゃない!」
歯切れの悪い晃に、春枝は声を張った。
「ねえ、悪いこと言わないから、ここに居させてあげようよ。一人で居るよりはマシでしょ」
「わーってるよ。そんなこと、おれだって」
晃は頭を掻きむしった。
「今後については、真人とちゃんと話すつもりだから。とにかく、お袋は夜中のことは真人に触れないでやってくれ」
「……わかった」
春枝は悔しそうに頷いて、エプロンで涙を拭った。
「真人、ちょっといいか」
何度か部屋をノックしたが、真人の返事はない。
寝ているのかとゆっくりドアを開けると、布団はもぬけの空。
慌てて部屋の窓から外を見ると、砂利敷きの庭、ガレージ横のコンクリート階段に真人が腰を下ろしていた。
スケッチブックを抱え、何かを一生懸命にデッサンしている真人の横で、ハクがお座りして尻尾をパタパタ振っているのが見える。
呑気な姿に安堵すると同時に、勝手に最悪を想像した自分が少し嫌になった。晃は一階まで下りた。
「なーに描いてんだよ」
砂利を鳴らしながら晃が真人に声をかけると、真人はそそくさとスケッチブックを閉じてしまった。
晃が顔を覗き込むと、真人はぷいっと顔を背けてスケッチブックを胸に抱き抱えた。
「けち。前は見せてくれたくせに」
「……これは、見せないで、って言われたから」
「は? 誰に」
晃が首を傾げると、ハクが牽制するようにワン! と吠えた。
ふと、ガレージの中に停められているデリカに視線を移すと、晃は眉を顰めた。
「うわ、何だよ。デリカ、思ったより汚れてんな」
土埃を被ったデリカのボディを人差し指でなぞると、指先があっという間に茶色くなった。
「洗うかな。流石にこれで出かけるのは気が引ける」
真人が立ち上がって晃の隣に並んだ。
「山吹色なのは、わざと?」
真人が尋ねると、晃は苦笑して首を振った。
「違う、違う。親父が選んだやつだし」
「じゃあ、そうかもしんないじゃん」
真人はデリカのボディに手を置いて、中を興味深そうに覗き込んだ。
「洗うの、見ててもいい?」
「……何だ、手伝うって言うのかと」
真人は目を逸らした。
晃は追及を諦めて、ガレージのホースを水道に繋いだ。
水を砂利に撒くと、ハクが嬉しそうに飛び跳ねた。
「何で地面濡らすの」
「埃とか、砂が舞い上がらないように」
「ふーん……」
「真人、そこのバケツ取って」
晃がデリカのボディに水を撒く間に、真人はラックの真ん中に置かれた緑色のバケツを取り出して、晃に渡した。
晃は受け取ると地面に置いて、ホースの水を溜めた。
霧吹きを晃が車体に向けてプッシュすると、泡が貼り付いた。
「スポンジは……あった、あった」
スポンジに水を含ませて、ルーフを撫でるように洗い始めた。
デリカが、心なしか笑っているように真人には見えた。
「晃」
水飛沫の音の中で、真人の鼻声が聞こえた。
「なに?」
「夜、ごめん」
晃は作業の手を止めずに答えた。
「ああ……いいよ、別に」
「春枝さんと、照夫さんも、居たでしょ」
「……」
「そんなに、うるさかった?」
「……お袋が心配症なだけだよ」
「……ごめん」
真人は拳を握りしめて、顔を伏せてしまった。
「通報とか、されてないかな」
「そういうんじゃねえ。叫んでたわけじゃねーし」
「そっか……」
真人は俯いたまま絞り出すように言った。
「そっぽ向いて、ごめん。惨めで、謝れなかった」
「そんなの、別にいい」
晃は乱暴にホースを掴んで、先端をつまんだ。勢いよく飛び出た水が、ボディの泡を勢いよく流していく。
「真人、ここから居なくならなくていいからな」
「……」
「おれ、仕事に戻るけど。お袋も、親父も、ハクも。真人のこと歓迎してるし、昨日のことだって心配してた」
真人は鼻を啜った。
「おれも、帰れる日は日野に帰るようにする」
「……そんなの、迷惑すぎる」
真人は首を振った。
「おれ、ここにいていい理由がないだろ、晃が居なくなったら」
しゃがみ込む真人の頭に、ハクが鼻先をくっつけてくうん、と鳴いた。
「ここに居るのが気が引けるのか。おれの下北のマンション、来るか」
「そんなの、もっと嫌だ。こんな呪いのアイテムと二人で暮らしたら、晃が可哀想だ」
「……その言い方、やめろよ。面白いこといってるつもりなのかもしんねーけど、不愉快だ」
晃が蛇口を止めてホースをバケツに突っ込んだ。ハクが名残惜しそうにバケツの波紋を舐める間に、晃は真人の横にしゃがみ込んだ。
真人は顔を埋めて、消え入りそうな声で訴えた。
「桜桃忌の日、毎年怖くて仕方なかったのに、一昨日は楽しかったんだ」
「……うん」
「ゼミ生のみんなにおかえりって言ってもらえて、子どもたちからも、メッセージもらって。有頂天だった」
「良かったじゃん」
「先生になってもいいのかなって、思った。でも、そんなの間違ってるのかも」
「……なんで」
「晃、おれがチャッピーに送った文章、読んだだろ。あれがすべてだよ」
晃は首にかけていたタオルで雑に額の汗を拭った。
「読んだよ。読んだ上で、別に真人が普通の生活が送れないなんて、思わねえよ」
「それは晃が、判官贔屓してるだけ」
真人の声が大きくなった。
「……おれ、自分から薬飲んだ。二回目以降、ずっと」
「……」
真人は膝に顔を埋めたまま呟いた。
「何の薬かはわかんない。でも、それ飲んだら、怖くなかったから。ぐるぐるしてるうちに、全部終わるから」
「……あいつが勧めてきたのか」
晃の問いかけに被せるように真人が捲し立てた。
「他にもある。おれ、自分から逃げたわけじゃなかった。あの人に捨てられるまで、ずっと逃げなかった」
「……」
「……それで、もう会えない、って言われて、〝捨てないで〟って言った」
「……」
「だから、あの人のこと、好きだったんだと思う。そんなの、おかしい」
「おかしくねえ」
「だって、電話かかってきたとき、ドキドキした。〝久しぶり会いたい〟〝仲直りしたい〟って言われたら、苦しくなった。そんなの、変だ。まだ、好かれてるんだって思ったら、よくわかんない気持ちになったんだ」
「……」
「……ほら、やっぱり。晃だって、変と思っただろ。おれ、おかしいんだよ。このこと考えると、最後は気持ち悪くなるから、考えるのやめることにしてる。そのせいで、いつまでも気持ちがこんがらがったまんまなんだ」
真人の声が震えた。
「真人がそこに引っかかってるのはわかった。でも、本題はそこじゃねーだろ。本人の同意なく踏み越えたのは、あっちだろうが」
「違う! なんで晃、わかんないんだよ!」
真人が顔を上げて、涙目で晃を睨んだ。
「だいたい、そんなに嫌なことされたと思うなら、文句言えば良かったじゃん。それ、悪いことです、って。でも言わなかった。そのせいでこうなった。悪いことって気づかないまま、あの人、今も平気な顔して生きてる。おれのせいだ」
「なんでお前のせいなんだよ」
「おれが被害者振ってるからだよ。おれが騒いでるせいで、みんな迷惑してる。おれさえ落ち込まなきゃ、世界は普通に回るのに、おれが、おれがこんな……パニックとか起こすから、みんな、迷惑してる」
「すんごい喋るじゃん。お前、自分をディスるときばっかり饒舌だよな」
真人の肩がびくりと震えた。
「わりーけど、真人が悪いって話、ひとつも共感できねえ」
晃は濡れた手で真人の肩にそっと触れた。
「自分のせいにすんの、やめろよ。ずっと思ってっけど。わりーの、最初から最後まで榊だろ」
真人の顔がさっと青ざめた。
「だから、やめろって、その名前、呼ぶな!」
真人は晃のシャツを握りしめて首を振った。
「びびってんじゃん。〝名前を言ってはいけないあの人〟状態じゃん。真人、あいつがこえーんだろ」
「怖いだなんて、怠けてる! おれ、男なんだぞ!」
「男だからどーだっつうんだよ」
真人は自嘲するように呟いた。
「……男のくせに、一丁前に被害者気取ってる。何されたって、妊娠するわけでもないのに。ネチネチいつまでもいじけて、だっせえの」
「……それは、誰に言われたよ」
晃の声が低くなった。
「言われてないけど、自分で思うんだよ。男同士で、何が被害だ。何が、苦しいだ」
真人の目は怒りに満ちていた。
「後出しであーだこーだ言うくらいなら、あのとき、舌噛み切って死ねばよかったんだ!」
真人の声が、ガレージに響き渡った。
「すごく、狡い。拡大解釈して、晃の気を引こうとしてるところ含めて、惨めで、無様で……本当に気持ち悪い」
「……そういう声が聞こえんのか。お前をいじめて、そうやってずーっと罵声浴びせてんのかよ」
怒りに真人の目が一瞬揺らいだ。晃は掴み掛けられた真人の腕に手を添えた。
「ふざけんな。そいつ、出せよ。真人のこと、いじめんな。おれが許さねえ。おれがそいつのこと、ぶっ殺してやる」
「うるさい、黙れ!」
真人の手が晃を振り払い、喉元に這わされた。晃は真人の手を掴んだ。
「……真人を侮辱するな」
構わず真人が喉元に指を突き立てようとした瞬間、晃が真人の手首を捻り上げると、真人は苦しそうな顔で晃を睨んだ。
「……おれ、言ったよな。真人のこと、仲間外れにすんなって。ウジウジした真人も、世界の仲間に入れてやれよ、って。話、聞いてたかよ?」
「……離せよ」
「なあ、聞いてたのかって聞いてんだよ!」
「ワン、ワン!」
「黙れ! 今、めちゃくちゃ大事な話してんの。入ってくんな!」
晃の制止を意に介さず、ハクが二人の間に入って、真人を庇うように真人の前に立ちはだかった。
晃は仕方なくハクを抱き上げ、息を吐いた。
「おれ、間違ってた。真人に酷いことした連中を懲らしめることばっか考えてた」
晃の懐のハクが真人を向いて、首を傾げた。
「……そんなこと、しなくていい」
「ああ。それよりも、真人の中にいる、真人をいじめてる奴を退治すんのが先だった」
晃はハクの前脚を掴んで、えい、とパンチした。
「何度でも言ってやる。真人のことをいじめんな。おれの大事な人を、真人が傷つけんな」
「……意味、わかんない」
真人は言いながらハクをそっと奪い返した。ハクは嬉しそうに真人の懐の中で尻尾を振った。
「……おれ、自分でも自分がよく分かんない。悲しいのか、怒ってるのか、好きだったのか、まだ、わかんない」
「いいよ、それで。自分いじめるより、そっちのほうがずっとまし」
「マシじゃない。全然、マシなんかじゃない。全部、取られた。あんなことさえなかったら、美術部のみんなとも、薫とも、ずっと一緒にいられたかもしれなかった」
「……真人が、それを悔やんでるのはわかった。でも、おれは真人がどんな形であれ、生きててくれて嬉しいよ」
晃はハクの背中を撫でた。
真人はぽかんと口を開けた。
……今、何て言った?
「真人?」
真人はふらりと尻餅をついてしまった。
「おーい、大丈夫か」
「……」
晃は真人の背中に腕を回して、よっこいせ、と抱き上げた。
「……ねえ。ショートした?」
目を丸くして固まっている真人にため息をついて、晃は台所の勝手口へと向かった。晃の後ろに続いて、ハクも背中を追いかけた。
勝手口の通路を通る間に、店舗を流れるビートルズの曲が耳に届く。
『In My Life』。これ、晃の好きな曲だ。
ジョン・レノンの語りかけるような歌声が耳に心地よく、真人は次第に目を閉じた。
ああ、そっか。
なくしたものも、たくさんあるけど、今、ここには晃がいるもんなあ。
晃、おれも昔、よく歌ってた曲があるんだ。
いつか、晃に教えてあげられたら、いいな。
「さっきまで騒いでたくせに。すやすや寝てんじゃねーよ」
晃は客間と自分の部屋、どちらに真人を下ろすか一瞬迷って、自分の部屋を開けた。
晃が足で布団を広げて真人を下ろすと、ハクがさっと真人の脇に潜り込み、フンッと鼻を鳴らした。
よく見れば真人の水色のカーディガンには、ハクの短い毛がたくさん絡まっている。
晃は頬杖をつきながら、片手で一本ずつ抜いて、真人の寝顔の横に並べた。
纏めた毛を布団の奥のゴミ箱に捨てようとしたとき、つい手が滑って、真人の上にもう一度落としてしまった。
「……何やってんだか」
カーディガンの毛を摘むと、真人が僅かにみじろいだ。
「……てんむす」
平和な夢を見ているらしい。
ほんと、こいつ、呑気で、間抜けで、ドジで、わがままで、やんなるよな。
なあ、それ、どんな夢だよ。
いい夢なのか。夢の中の方が、幸せかよ。
「……死ぬなんて、言うなよバカ」
言ってしまったが最後、堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。
溢れた涙が、真人のカーディガンに染み込んで、水玉模様を作っていく。
これ以上は、触れてはいけない。
でも、触れていないと何もかもが消えてしまう気がして。
晃は真人の手首をそっと握り、指先に伝わる拍動を確かめた。
ねえ、真人。
おれ、お前に笑っててほしくてさ。
そんだけなんだよ。
真人が一日を笑顔で終えられるためなら、何だってするよ。
だから、あんな顔しないでくれよ、頼むから。
晃は真人の手の甲にそっと口付けた。それでも、その場を離れることはできなかった。




