ハイエナの倫理
「真人は、誰に似たの?」
ベッドに横たわる真人の髪を梳かすと、真人の額から汗が流れ落ちた。
喃語しか喋れなかった真人に飲み物を与えると、次第に目の焦点が合い始めた。
榊の問いかけに真人は答えなかった。まだ言葉が出てこないのだろうか。
「前に母親と会ったことあったけど、全然似てないじゃん。今、“神谷建築事務所”って検索したら、父親の写真が載ってた。真人とは似ても似つかない」
真人にスマホの画面を見せるが、興味がないのか真人は目を逸らした。
鳶が鷹を生む、とはまさにこのことだと思った。
凡庸な夫婦から生まれた類稀な美貌を持つ子ども。これほど美しい子が、どうして家に居場所を無くすんだろう。
「大好きなじいちゃんの写真、残ってないのか。真人と似てたのか」
真人は首を振った。
「そうか。なら、真人は誰に似たんだろうなあ」
榊は検索に使った真人のスマホを軽く放ると、真人をそっと抱き寄せた。
「……母さんの、お母さん」
真人はようやく口を開いた。
「母さんのお母さん、母さんが小さい頃にいなくなっちゃったんだって。じいちゃんが、真人に似てた、って言ってた」
「へえ。さぞかし人目を惹くご婦人だったんだろうな。どこに行ったの」
「そんなの、知らない。どうでもいい、そんな人」
気分を損ねたのか、真人は拗ねたようにくるりと背中を向けてしまった。手首を掴んで振り向かせ、深く唇を重ねると、真人の抵抗はおとなしくなった。
愛は倫理を超える、と思いたい。
立場や性別、禁忌で自制できるような思いは嘘だろう。
現におれは、こうして真人に惹かれている。他の男には欲を持つことなどないのに。
これが愛でなくて、何なのか。
桜桃忌以降、真人はよく神楽坂のマンションに泊まりにきた。
家に帰りたくないらしい。翌日に仕事があるときはもちろん、そうでない日も、神楽坂に泊まる頻度は次第に増えていった。
高校の出席日数がどうのと言って、始発で出て行くこともあった。「シャワーくらい浴びれば」と提案しても、服を着ればバレないと言って部屋を出ていく真人のズボラさに呆れたこともあった。
「榊くん、最近はお兄さんから殴られないの」
真人がうとうと微睡みながら榊に尋ねた。
「うん。身体デカくなったから。一昨年くらいに身長追い越したんだよね」
「そうなんだ。もう、痛いことないの」
「大丈夫だよ。真人は優しいね」
真人は美しいだけではなく、思いやりのある子だった。
母親からは愛情を貰えていないのに、母の日にはカーネーションを買ったと言っていたし、道端で泣いている子を見つけたら、声をかけて一緒に親を探したこともあった。
「そうだ。家族に、真人を紹介していいかな。会って欲しいんだ」
榊の提案に、うつらうつらしていた真人の目が見開かれた。
「皆、きっと真人を見て驚くよ」
「……勝手にすれば」
照れ隠しなのか、榊のシャツに顔を埋めて真人は目を閉じてしまった。
顔合わせには、地元の中華街の個室を予約した。
両親と祖父母、兄と、その婚約者のいる席に真人を連れて現れたときの、兄の顔を榊はよく覚えている。
「弟とは、どういう関係なんですか?」
鋭い目つきで真人を睨む兄が、明らかに劣等感に苛まれているのが見て取れて、榊は高揚感に包まれた。
かつて歯牙にもかけなかった愚かな弟が、足元にも及ばないほど美しい人間を連れてきたことが、悔しくてたまらない。そんな兄の心境を感じて、愉快でたまらなかった。
「真人は、大切な後輩です。友人と呼ぶにはあまりに親密だし、だからって恋人というわけでもない、不思議な関係」
ね、と榊が真人に微笑みかけると、真人は緊張した面持ちで、小さく頷いた。
嘘は吐いていない。
おそらく、この道ならぬ想いに名前をつけたくなかったのだろう。
二人の関係は、二人だけが理解していればいい。感染症の流行る街のなかで、この神楽坂の部屋がまるで二人だけの繭のようだった。
この想いは、一生続くのだと信じて疑わなかった。少なくとも、これまで出会った相手に感じたものと、真人への想いが同じだとは思わない。これほどまで心が通じ合い、お互いを求め合う関係は存在しなかった。
だから、いつものように繭を閉じたあの夜が、最後になるなんて。
「榊。ちょっとツラ貸せ」
事務所に懐かしい瓶子の顔があった。二人きりで話したいと言う瓶子に誘われ、事務所の奥の部屋へと案内した。
「古巣に何の用?」
「契約やら、版権やらの手続きで色々とな。あと、お前」
榊は向かいのソファに座り、机の上に小さな錠剤の入った袋を置いた。
「見覚えあんだろ」
瓶子の落ち着いた声とは裏腹に、榊は息を呑んだ。
「真人のカバンに入ってた」
「……」
「本人は気づいてねえ。頭痛いって現場で寝込んでやがるから、おれが汚ねえカバンの中身ひっくり返して、常備薬のロキソニン探してやったんだよ」
「……」
瓶子はため息をついて項垂れた。
「飼い犬に手を噛まれるとは、このことだな。お前には、がっかりだ」
がっかりだ、という瓶子の言葉が、頭にズキンと響いた。
「誰がスカウトしてやったと思ってんだよ……ふざけやがって」
「……誰かに話した?」
榊が尋ねると、瓶子は顔を伏せたまま肩を揺らして笑った。
「社長にチクってやるかとも思ったよ。ただ、真人はそれを悲しむだろうからな」
瓶子は顔上げた。もう笑みは消えていた。
「お前に良心が残ってんなら、真人から手を引け。おれに言われたことも伏せろ。こうして直接交渉に来てやったことに感謝しろ。最大の譲歩だ」
「それは欺瞞だ。嘘吐きめ。あんた、真人が好きなんだろう。だから真人を問いただせないし、おれをクビにもできないんだろ。見た目に反して、純情じゃん」
榊が鼻で笑うと、瓶子が襟元に掴み掛かった。
「知ったふうな口を聞くなよ、クソガキ」
「残念だけど、その薬は真人も何度も使ったよ。おれだけじゃない。共犯だ」
瓶子の目が大きく見開かれた。
予想だにしていなかったらしい。榊は思わず笑ってしまった。
わずかに力の緩んだ瓶子の腕を振り解いて、榊は息を整えた。
「瓶子さんが思うほど、真人は無垢な子じゃないよ。最近は向こうから求められることも多いし」
瓶子の眼光に迷いが見えた。哀れだった。
たとえおれが真人を捨てたところで、真人がお前に振り向くことなんて、金輪際ないというのに。
惨めな横恋慕に同情して、榊は要求を呑んでやることにした。
真人と別れるとなれば、欲求を満たす別の方法を考えなければならない。
ちょうどいい塩梅の女を、真人の事務所で見繕った。
少し話せば、すぐに向こうは乗っかってきた。そこでやっと、踏ん切りがついた。
「真人、ごめん。他に好きな人ができたんだ」
嗚咽を漏らしながら榊が訴えると、真人は意外にも取り乱すことはなかった。
「わかった。じゃあ、もう、お別れってことなんだね」
真人は困ったように笑うと、荷物を片付け始めた。
そのか細い背中があまりにも不憫で、榊は堪らず後ろから抱きしめた。
「ごめん。でも、真人ならわかってくれるよな。昔みたいに、普通の友達に戻ろうよ」
「……うん」
真人は胸元の榊の手を握り返した。
別れから二週間後、マンションのインターホンが鳴った。真人だった。
別れの日に儚げな笑顔を浮かべていた真人は、瞳に涙をいっぱいに浮かべてドアの前に立っていた。
「無理。友達に戻るとか、そんなの無理だ」
泣いている人間を無碍に追い返すのも気が引けて、一旦部屋に招き入れたものの、連絡もなしに現れたのが心底不愉快だった。
もう、べつの恋人と交際していたし、今更あの乱れた生活に戻るつもりもなかった。
やっと健全な方向に歩き始めたところで、なぜ過去に縋られるのかと榊は舌打ちした。
「じゃあ、何。またここに来たいってこと? おれに構ってほしいわけ」
真人は問いかけには答えず、さめざめと泣くばかりだった。これでは話にならないではないか。
「おれは、友達に戻りたい。この前、そう言ったよな。狡いよ、後から無理だなんて」
「そう思おうとしたけど、無理だった。だって、忘れられない。忘れられるわけ、ない」
余程に自分のことが好きだったのか。
誰かから別れを切り出される痛みを、榊はまだ知らない。真人がこれほど泣くということは、自分が想像する以上に置いていかれる側というのは苦しいものなのかもしれないと思った。
「時間がかかってもいいよ。いつか真人が、おれのことを理解してくれたらいいって思う」
榊が真人を抱きしめてそう言うと、真人は榊のシャツに縋り付いていつまでも泣き続けた。
一ヶ月後、真人が映画の仕事を降板するという話を聞き、榊は真人のスマホに電話をかけた。
しかし、LINEを入れても一向に返事はなく、電話も繋がらない。
しばらくして、真人からメッセージが届いた。
『もう関わりたくありません』
『LINEも電話も、もうしないでください』
LINEはブロック、電話は着信拒否。
あまりに露骨な拒絶の態度に、喩えようのない怒りが込み上げた。
そうだ。真人は、昔からこう。
流れる雲のように心が移ろいやすくて、おれが他の人間と親しくすれば嫉妬し、友達に戻ると了承しておきながら無理だと騒ぐ。
別れの後は押しかけて縋り付いたくせに、今度はこうして逆恨みのような態度を取ってみせる。
これじゃあ、まるでおれが悪い人間みたいだ。
これほどまで手をかけ、愛を注いだ相手に対して、この仕打ち。
ふざけるな、と、文句を言ってやりたかった。
真人は仕事に戻らなかった。
現場でたまたま見かけた瓶子が、何やらくたびれた顔をして、廊下の壁に背中を預けているのを見つけた。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったのに、目の奥に宿した諦観の色を見て、つい、「何かあった?」と尋ねた。
「真人に、会ってきた」
瓶子はそう言うとネクタイを緩めて息を吐いた。
「へえ。山梨まで行ったのか。どうしてた?」
「……あれは、相当厳しい」
「真人のこと、諦めるの?」
榊の問いかけに、瓶子は視線を落とした。
「……ああ、そうだな」
「嘘吐き。諦めないだろ、あんた」
瓶子の目がゆらりとこちらに向けられると、榊は鼻で笑った。
「あんた、真人を生かすのも殺すのも、こっちの世界でないと気が済まないくせに」
「黙れ、クソガキ」
低い声と共に顔を上げた瓶子のオールバックが乱れ、榊はわずかにみじろいだ。
「お前のせいだ。あいつは……」
そこまで言って、瓶子は口をつぐんだ。
「……的外れな推理ごっこをする暇があったら、仕事に集中しろ」
瓶子は吐き捨てるようにそう言うと、その場を立ち去った。
それ以来、瓶子とは連絡を取らなかった。
結局、真人はこの世界には向かなかったのかもしれないと榊は思った。
あれこれと世話を焼いたものの、かえってそれは本人のためにならなかったのかもしれない。
すっかり心が折れて田舎へ引っ込んでしまった真人に、芸能界で活躍する自分が関係修復を迫るのは、本人の自尊心を大きく傷つけることになるだろう。
それに、真人はまだ子どもだから、まだおれの気持ちを正しく理解できないだけ。
いつか、ちゃんと回復したときに、きっとわかってくれるはずだ。
こうするしかなかったのだと。
誰かと誰かが愛し合う以上、全員を幸せにするのは無理なのだ。
真人との交流を諦めて、榊は目の前の恋に没頭することにした。
しかし、その恋も、一年も持たずに終わってしまった。
真人を失ったことへの対価としては、随分とつまらない余興だった。
真人との別れから五年。
真人が瓶子と面談のために赤坂へ来るらしいと聞いたときは、やっぱりかと思わず笑ってしまった。
やはり、あの男は諦めていなかった。
さて、今更真人と会って、何をどうするつもりなのやら。
商品として使えるのであれば、まだいいが、そうでなければ、自分の手元で朽ちるのを楽しむつもりだろうか。
悪趣味なやつ。
おれは、そんな悪どい人間じゃない。
もし瓶子が真人を手籠にするつもりなら、おれが助け出してやらなきゃな。
だから、待ち伏せすることにした。
面談がある日。瓶子の根城の前で、真人が出てくるのを今か今かと待ち構えた。
真人はおれの顔を見るなり、ガタガタと震え出した。
相変わらず、失礼なやつだ。
そう言ってやりたいのをグッと堪えて、榊はその肩に触れながら、持っていた紙袋にささやかな贈り物を捩じ込んだ。
「久しぶり。元気だった?」
真人は無言で逃げ出した。
榊は黄昏に消えていく真人を目で追いながら、スマホを開いた。
真人の動きが止まったのは、あの、神楽坂駅。
懐かしい場所の聖地巡礼でもしているのかと思えば、ネットでは人助けがリアルタイムで騒ぎになっている。
「もしもし。瓶子さん、久しぶり」
瓶子は何も聞き返さず、黙って最後まで聞いていた。
瓶子との取り引きに成功し、真人の新しい住所も手に入れた。
ようやく真人と分かり合える日が来るかもしれないと心躍らせたのに。
真人のまわりの連中は、おれのことを理解しようともしないで、おれが悪人だという物語に耽溺している。
晃くんは、真人から何か聞いているだろうか。
真人は、おれのことを晃に何か話したろうか。
いまだにおれのことを恨んでいて、まるで悪魔のように話しているとしたら、どうだろう。
そんなの、あんまりじゃないか。
おれは、普通に仲良くしたいだけなのに。
お前の自己憐憫のために、おれを悪役にするのかよ。
榊は徐ろにスマホを取り出した。
「ねえ、ARCの連絡先知らない?」
開口一番、千木良にそう尋ねると、千木良はいつになく無愛想に、『知らない』と答えた。
「宗馬と共演してたろ。交換してないのか」
『してない』
「他のメンバーは」
『知らない。っていうか、やめなよ、もう、神谷くんの周囲嗅ぎ回るの』
「何だよ、その言い方」
スマホを握りしめて、榊は吐き捨てるように言った。
お前のせいだ。
あのとき、お前のことを好きにならなければ。
お前なんかに目移りしたから、真人はおれの前からいなくなったんだ。
「……おれは、別に真人のことで連絡したいわけじゃない。ただ、仲良くなりたいだけ」
榊は弱々しい声を作って、千木良に訴えた。
『……それ、本当?』
「勿論。知ってるんだろ、教えてよ」
電話の向こうの千木良はため息をついて、榊にショートメールを送った。




