最悪の食べ合わせ
燦々と降り注ぐ朝日に瞼を開くと、いつもの晃の部屋の天井が見えた。
うたた寝してからの記憶がない。誰かが運んでくれたのだろうか。
横を向くと、うつ伏せに眠りこけている晃の姿があった。半袖短パンで、身体を大の字に広げた晃は、昨日、ステージの上でスポットライトを浴びて輝いていたアイドルとは思えなかった。
真人は膝を抱え、晃の様子を観察した。大きく開かれた口からは、ギザギザした切縁が覗いていて、寝息が漏れるたびに背中が大きく上下している。
大型犬みたいだ。この歯に噛まれたら、痛いのかなあ。
真人が指をゆっくりと口元に持って行ったとき、スマホから通知が鳴った。
はっとしてスマホを手に取ると、LINEの通知の一番上に、ゼミのグループトークから数件メッセージが届いていた。
『綾波復活』
全員の集合写真の真ん中に、自分のなんとも言えない真顔が写っていた。
『夏休み入る前に、みんなでゴハン行きましょう!』
「……」
みんな、優しい。
おれ、全然皆と仲良くしてこなかったのにな。
いいのかなあ。
何度か推敲して、真人はメッセージを打ち込んだ。ほっとため息をつくと、他にも未読の通知が溜まっていることに気づいた。
雪子から、一件。昨日の夕方に来ていたようだ。
真人は慌てて通知を開いた。
『お久しぶりです お元気ですか?
桃の季節になりましたので、日川白鳳を送ります
明日の午前着です 受け取りお願いします』
良かった。普通の用事だった。
日川白鳳だって。あれ、おいしいよなあ。
……ん? 明日の午前?
「……いまじゃん」
もしかしたら、既にヤマトが来ているかもしれない。
しかも、立川。取りに行かないといけないのか。
うわ、まじで無理だ。どうしよう。
膝を揺らしてうんうん唸っていると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。
ひとまず、下に降りて考えることにした。
「おはようございます」
真人が声をかけると、春枝が振り返ってにっこりと挨拶を返した。
「すみません、寝落ちしたみたいで」
「いいのよ。まひちゃんが楽しそうで私も嬉しかったわ」
昨日のどんちゃん騒ぎを思い出し、真人は顔を赤くして小さく頷いた。
「居間、見た? とんでもないことになってるわよ」
呆れたような春枝の言葉に促され、真人が台所のすりガラスの引き戸をそっと開けると、照夫と大垣、それからハクと銀時が無残な姿で横たわっていた。
「晃ったら、まひちゃんのことだけ上に回収してったのよ。ケンちゃんとの扱いの差が酷いわよね」
後ろで春枝が笑った。
大垣と照夫はそれぞれの音域で鼻を鳴らして、銀時とハクは真人の抜けた穴を埋めるようにぴったりくっつき合って寝ていた。
「ほら、そこの二人と二匹、邪魔! いい加減起きなさい!」
春枝がお玉でフライパンを叩いて、ようやくハクが目を覚ました。
*
「ああ。それならおれが取りに行くよ」
味噌汁を啜りながら晃が答えた。
「でも……」
真人が二の句を告げられずにいると、晃は首を振った。
「真人はここに居な。雪子さんには、何か返信したのか?」
「まだ。話すことが多すぎて、どこから言えばいいか……」
「まあ、とりあえず桃はおれが受け取るから。そのあとにでも、ゆっくり考えようぜ」
「……ありがとう」
しゅんと肩を落とした真人の向かいで、状況がよく飲み込めていない大垣が口を開いた。
「おれ、晃が戻ってくるまでここに居ようか?」
真人は首を振った。
「ううん。平気。昨日、とっても楽しかったから」
晃がちらっと真人の顔を見てから、大垣に視線を移してニヤッと笑った。
「ねえ、二人とも呼び方、ケンちゃんとアキちゃんに、戻せば?」
真人の発言に二人が同時に味噌汁を吹いた。
「きったね、こぼした……お袋、台拭き!」
「そこにあるよ、神谷くん、取って、ちがう、横」
「何で? 何で二人とも、やめたんですか? そっちのほうがいいよ、絶対」
口元を汚した二人に向かって真人は訴えた。
「だって、仲良しなのに。大垣くん、本当はケンちゃんって呼ばれたいとか、ないんですか?」
真人が首を傾げると、大垣はうっと目を泳がせた。
「……やっぱし。ねえ、晃。大垣くん、晃にケンちゃんって呼ばれたいんだよ、きっと」
「ちげーよ。そうじゃねえ。あと、こいつをケンちゃんって言うな」
「なんで?」
不服そうに眉間に皺を寄せた真人は、はっとして口を開けた。
「あっ、わかったぞ。おれがお邪魔虫なんだ。おれがいるから、カッコつけてるんだろ」
「ちげえわ。くそ、なんでこう……ああああ! 大垣! こいつにわかりやすく説明しろ。医大生だろうが」
晃が真人を指差しながらこたつテーブルを乱暴に拭くと、大垣が怒り肩で言い返した。
「医大生関係ねーだろ。ってか、おれ、もっと感謝されて良くないか? 日下に嫉妬される筋合いねーんだよ」
「はあ? 嫉妬? 何言ってんのコイツ」
真人そっちのけで、二人は喧嘩を始めてしまった。
おれはただ、二人がケンちゃん、アキちゃん、って仲良くしてるところを見たいだけなのに。
騒ぎを聞きつけた銀時とハクを両サイドに従えて、真人は二人の応酬をしばらく見守った。
*
つい、来てしまった。
Googleマップで何となくの外観は知っていたけれど、改めて見ると息子の住むアパートの外観は何とも安っぽい。
真人は、自分の来訪にむっとするだろうか。それとも、案外喜んでくれるだろうか。
朝から特急と在来線を乗り継いでの長旅。流石に少し疲れた。
昨日の夕方に送ったメッセージがなかなか既読にならないことでやきもきしたが、特急に乗っているうちに既読がついて、雪子はやや安堵した。返信は、まだ来ない。
できたら、家の中も見たいんだけどな。
ちゃんと片付けてるのかしら、あの子。
階段下の集合ポストに、息子の部屋番号を見つけて、雪子は目を丸くした。
ポストには、溢れんばかりのチラシ。雪子の機嫌は一気に下降した。
ポストを勢いよく開いて、チラシの束を手に掴むと、雪子は階段を一段一段踏みしめながら上った。
もう、いつもこうなんだから。だらしない!
インターフォンを押そうとした、その時だった。
誰かが階段を勢いよく上ってくる音がした。思わず振り返ると、ネイビーのキャップをかぶり、マスクをつけた青年が雪子の姿を捉えて大きく目を見開いた。
「す、すみません!」
雪子は咄嗟に謝ってしまった。青年は驚いた表情のまま、雪子が抱えた桃の平箱に目を移して、頭を抱えた。
誰、この人。
雪子が思わず後ずさると、玄関ドアに踵をぶつけてしまって、ゴン、と鉄の鈍い音が響いた。
踊り場に立ち尽くす青年はマスクを取り去って、雪子を見上げた。
「おれは、日下晃。真人の友人です。あなたは、真人のお母さんですか」
気圧されちゃだめ、雪子。
向こうがわりかしイケメンだからって、気弱になったらダメよ。
「そうです。今日、桃を届けにきたんです。今からインターフォンを押すところなんで」
雪子はくるっとドアの方を向いてインターフォンに手を伸ばした。
「真人は、来ないです。ってか、そこに居ないです」
「……はあ?」
雪子は構わずインターフォンを連打したが、晃の言うとおり真人は出てこない。
「あの子、どこ行ってるのよ。チラシもこんなに溜めて」
痺れを切らした雪子はスマホを取り出した。
「待ってください。真人に電話するつもりですか?」
スマホをタップする雪子の手がぴくりと震えた。
「止めた方がいいです。真人、こんな騙し討ちみたいな方法でお母さんが来たと知ったら、ショック受けると思います」
「……」
雪子は晃を睨みつけながら、スマホをゆっくりと下ろした。
「……あの、ここで話すのもなんなんで、場所変えませんか」
晃は肩をすくめて、右手で外を指差した。
「コインランドリーの横に確か、モーニングやってるカフェがあったはずです」
この友達、何なのよ。
真人のこと、めちゃくちゃ知ってるじゃん。
*
やらかした。
雪子さんが小柄なせいで、真人の部屋の前に立っていることに気づくのが遅れた。
くそ。桃回収のついでに、真人の家に防犯カメラ付け直すつもりが。これじゃ無理だな。まあ、そんなこと言ってる場合じゃねえか。
二人がけの席に向かい合わせに座った雪子は、華奢な身体を夏らしい水色のワンピースで包み、麦わら帽子を膝の上にちょこんと乗せていた。
ずいぶん若いな。春枝とはおそらく一回り以上年が離れている。
あと、すごい睨んでる。
たぶん威嚇のつもりだ。真人と一緒。かわいい。
さきほど雪子の前で、ついいつもの調子で真人と呼んでしまったことが悔やまれた。
初対面の親相手なら真人くんだったか。くそ、対面のタイミングといい、第一印象最悪じゃねーか。
お互い何となく頼んだコーヒーにはまだ手をつけておらず、向かいの雪子は膝の上の麦わら帽子を握りしめたままだった。
「……飲みません?」
晃が声をかけると、視線を外さないまま雪子はカップを手に取った。
「熱っ」
雪子のカップが揺れて、咄嗟に晃は席を立った。
「大丈夫ですか?」
息子とは違い、雪子はどうにかコーヒーを零さず、カップを立て直した。そのまま一気にコーヒーを啜って、皿にカチャリと置いた。
「うちの子、どこにいるか教えてもらっていいですか」
「……おれの実家です」
「あなたの?」
「はい。一週間前から。彼、体調崩してて、半ば強引にうちに連れ込んでしまって」
「……何、それ。聞いてない」
雪子の怒りを滲ませた声。多少は取り繕えば良かったかと晃は後悔したが、もう遅い。
「体調崩してたというのは、どういう理由? 本人はなんて言ってるんですか?」
「体調崩してた原因や詳細は、おれの口から本人の承諾なしに言えません」
「……」
「雪子さんは、今日、真人と会ってどうするつもりだったんですか?」
雪子は口をへの字に曲げた。
「顔を見たかったんです。でも、言ったら断られると思った」
「はあ」
「親なんだから、心配するのが普通でしょう。あの子、昔から何も言わないの。ほっといて、っていう態度のくせに、ほっとくとどうなるかわかったもんじゃない」
「まあ、それには概ね同意しますが……」
雪子はテーブルの上の右手を固く握りしめた。
「いつも、蚊帳の外。こんなに心配してるのに、空回りしてばっかり。でも、あなたには相談してたんだ」
雪子は目を伏せた。
「全然頼ってもらえない。大事なことはいつも教えてくれない。情けないです」
晃は胸ポケットからハンカチをそっと差し出した。
「おれが支えになってるかはわかりません。ただ、もし彼が前を向けるようになっているとしたら、それは本人の力です。おれは応援しただけ」
「……」
「おれも、何回か喧嘩しました。境界を踏み間違えたこともあります」
晃は苦笑してコーヒーカップを手に取った。
「真人は、怒りませんでしたか」
「怒られましたよ。なので、謝りました。結果、年貢を要求されてます」
「……謝ったら、許してもらえたんだ」
雪子は目を逸らした。
「家族との連絡が滞っていることは、本人も心苦しく思っているようでした」
「……そうですか」
「ですから今日、雪子さんがここに来ていたことを知ったら、少なからず動揺すると思います」
「……」
「今日こうして雪子さんと会ったことは黙って、家に帰ることもできます。どうしますか」
「……それは」
「まあ、黙っとく場合は、後で真人から連絡来たときに種明かししないでほしいですけど」
晃は言いながら笑った。
「……お言葉に甘えてもいいでしょうか」
雪子は頭を下げた。
「日下さんのご実家は、どちらなんですか」
「日野です。まあまあ近いですよ」
「ご家族にも、ご迷惑をおかけしているんでしょうか」
「両親がすっかり気に入っちゃって、おれが邪険にされるくらいには仲良く過ごしてます」
「……そうですか」
雪子は苦笑して息を吐いた。
「ご迷惑をおかけしたことと比べたら、お礼にもなりませんが、この桃を日下さんにお渡ししてもいいですか?」
雪子は足元のカゴに入れていた平箱を取り出して、テーブルの上に差し出した。
「知らなかったとはいえ、息子がご迷惑をおかけしている身で、出会い頭にあんな言い方で問い詰めてしまって、申し訳ありませんでした」
「……いえ」
「ご両親になんてお詫びすればいいものか、見当もつきません」
もう一度深く頭を下げる雪子に、晃は嘆息した。
どうしてこの家の連中は、揃いも揃って自己嫌悪が趣味なのか。
「お気持ちは受け止めますが、真人はもう成人男性です。本人よりも早くお礼やお詫びの方法を考えていただく必要はないです」
「……」
「本人がちゃんと元気になって、そのときに本人から何か申し出があれば、またそのときに考えます。それで、どうでしょうか?」
「……はい」
「今日のところは、桃をありがたく頂戴して帰ります」
晃から受け取ったハンカチを押し当てて、雪子は頷いた。
「……息子のこと、ありがとう」
「……はい」
*
晃の出発から遅れること一時間。
ようやくシジミの味噌汁が効いた大垣は、お土産のポンデリングを三つ取って、日下家から出立した。
一人と一匹を見送った後、真人はハクを抱きしめたまま、すぐさま二階の布団に潜り込んだ。
布団の中から頭をほんの少し出してLINEを開くと、ハクが隣で画面を覗き込んだ。
……まだヤマト、届かないのかなあ。
居間のこたつテーブルに置かれたミスドの箱には、五個、ポンデリングが残っている。
晃が帰ったら、桃と一緒に食べたいのになあ。
ポンデリングだけで十個も買っちゃって。バカじゃないのか。
晃、年貢を早く終わらせるつもりだな。
毎年、ちょっとずつでいいのに。
真人がうつ伏せになって唸っていると、ハクがペロペロと頬を撫でた。
もし、時間局が待ち構えてて、晃が誘拐されてたらどうしよう。
もし、家の中のゴキブリが大繁殖しててテラフォーマーしてたらどうしよう。
もし、何らかの特殊能力によってボンビーが立川の家に戻ってたら。
晃が、ボンビラス星に連れて行かれてたら、どうしよう。
真人は布団の中で膝を抱えた。
……晃に甘えっぱなしだ。
母さん、どうしてたかな。連絡取ってなかった間、元気だったかな。
真人は晃の机に置かれた昨日のお菓子の袋と、子どもたちからのメッセージカードを見た。
体調の報告、晃の家にお世話になっていること。今の体調なら、伝えられる気がする。
そうだ。今、電話をかけてみるっていうのは、どうだろう?
自分から雪子に連絡したと晃に伝えたら、帰ってきた晃も、結構喜ぶんじゃないか?
「真人、話せたのか。良かったなあ」
そんなことを言って目を細める晃の顔が頭に浮かんで、真人は鼻息荒く画面をタップした。
*
「すみません、電話来ました」
雪子がスマホを取り出して、画面を確認すると、あっと口元を押さえた。
「……真人からです」
晃は目を丸くした。
「おれ、席外しましょうか」
晃が尋ねると、雪子は首を振った。
「いや、ここ、居てください。緊張するので!」
顔を青ざめている雪子の訴えに、晃は宙に浮かせた腰を再び沈めた。
「……もしもし」
『あ、母さん? あのさ……LINE見た。ありがとう、桃』
真人の声が通話口から漏れ聞こえて、晃は苦笑した。
「……迷惑じゃなければ、食べて」
『迷惑じゃないよ。あのね、おれ、実はちょっと体調崩してたんだ』
雪子がちらっと晃の顔を見ると、晃はゆっくり頷いた。
「……そうだったの。大丈夫なの?」
『うん。友達が助けてくれて。今、友達の家に居候してる』
「そうなの。じゃあ、友達にも桃を分けてあげてよ。立川には取りに来れそう?」
『友達が今、取りに行ってくれてる』
「そっか。よかった」
『今度、母さんにも友達のこと紹介したいんだ。めちゃくちゃいいやつなんだよ』
晃はニヤける口元を手で押さえた。
「うん、わかった。じゃあ、また連絡して。私にも、何かできることがあったら言ってほしい」
『……なんか、母さん、元気なくない?』
真人の声に雪子は眉を顰めた。
『母さん、どうしたの。いつもならもっと色々言うのに』
やめろ真人。せっかくのいい雰囲気が。
晃は冷や汗をかきながら会話の行方を見守った。
「そんなことないです。私も、色々考えたの」
『そうなの? そっか。母さんこそ、何か困ったことがあったら、言ってね』
「……うん。ありがとう」
*
「電話、できた」
真人は一言呟いて、ガッツポーズした。
「電話した。怒られなかった、ちゃんと会話ができた、ねえ、ハク、すごいよ、やったあ!」
真人は布団を跳ね除けてハクを高く抱き上げた。




