円居の夜
ゼミ生からの夕飯の誘いを、真人は申し訳なさそうに断った。
今日は予定があって、また誘って欲しいと言うと、足立と倉田は目を丸くして顔を見合わせていた。
夕方、真人は迎えのMAZDAに乗り込んだ。鞄を座席の横に置いて、代わりにお菓子とメッセージ集を膝に抱えた。
表紙の陽キャ先生と目が合って、思わず笑みが溢れた。
「……なんか、いいことありました?」
小鳩の問いに、真人ははっと顔を上げた。
「いや、行きと顔つきが全然違うから」
「……はい。今日、行けてよかったです」
「わあ。そう言ってもらえたなら、私も嬉しいです」
「……小鳩さんは、お仕事長いんですか?」
真人が遠慮がちに尋ねると、バックミラー越しの小鳩と目が合った。
「今年で、四年目です。昔はお世辞にも素行が良いとは言えなくて。今の社長に拾ってもらって、何とかやれてます」
「……小鳩さんが?」
「はい。今は猫をかぶっています」
「猫……」
「朝の神谷さんほどではありませんけど」
真人の顔が赤くなると、小鳩はカラカラと笑った。
MAZDAはバーバー・サンライズの店舗前で真人を降ろした。
「私、このまま事務所戻ります。帰りは、この車で日下さんが帰られますので」
真人が深々と頭を下げていると、仕事中だった春枝が店舗のドアから出てきた。
「今日はどうも、まひちゃんのことをありがとうございました」
頭を下げる春枝の隣で、真人ももう一度深くお辞儀をした。
MAZDAのエンジン音が遠ざかっていき、真人がそっと頭を上げると、春枝がにっこり微笑みかけた。
「おかえり。大学、どうだった?」
「見て。お菓子たくさんもらったの。春枝さんも、お仕事の手が空いたら食べて」
「あら! すごいわねえ、こんなにたくさん。よかったねえ、まひちゃん」
「……うん」
真人が照れくさそうに頷いたのを見届けて、春枝はまた仕事に戻って行った。
裏口の襖を開けてタタキで靴を脱いでいたら、ハクの足音が近づいてきた。真人がハクの名前を呼ぶと、走り寄ってきたハクが真人に飛びついて、真人の頬をペロペロと舐めた。
「ねえ、ハク。教採のお勉強してもいいと思う?」
真人が尋ねると、ハクはワン! と吠えてくるりと回った。
ちょろいなあ、おれって。
子どもたちからのメッセージで、急に勇気出てきちゃって。
ハクを抱きしめていると、勝手口がガラッと開く音がして、しゃがれた犬の鳴き声が聞こえた。ハクがぴんと耳を立てて、真人の腕からすり抜けると、裏口の襖に向かってワンワンと吠えた。
「こんちはー。あれ?」
恰幅のいい、物腰の柔らかそうな青年が右手に手提げ桶を携えて立っていた。その横で、リードに繋がった真っ白な大型犬が舌を出して首を傾げている。
情報量が多い。
固まっている真人に呼応するように、青年も真人を視界に捉えてぽかんと口を開けた。
一瞬の沈黙は青年のサモエドによって破られて、駆け出したかと思うと真人めがけてタックルをかました。そのまま倒れ込んだ真人に覆い被さって匂いをクンクンと嗅ぎ回った。
「おお。ケンちゃん。なんだ、銀時まで連れてきたのかよ」
真っ白な雲の視界の奥で、照夫の声がした。
「こいつが来るとうちが毛まみれになるんだよなあ。よっこいせ」
照夫がサモエドを抱き上げて、ようやく真人の世界に色が戻った。
銀時と呼ばれたサモエドは、今度は照夫をペロペロと舐めている。
「かわいい……」
真人がぽつりと呟くと、銀時が、(おれのこと?)と嬉しそうに耳をパタパタさせて、真人の膝に前足でタッチした。
真人が口元を押さえて絶句していると、ハクが唸って真人の背中を突いた。
「ごめん。浮気じゃないよ。ハクも可愛い」
真人は前方の銀時と後方のハクを同時に抱きしめて、深いため息をついた。
「ごめんね、うちの犬がやかましくて。おれ、大垣です。君が、神谷くん?」
やや出遅れた大垣が、申し訳なさそうに真人に話しかけた。
「……はい。すみません。サモエドの衝撃波に言葉が出なくて」
「ケンちゃん、今日は泊まりか?」
照夫が大垣に尋ねると、大垣は首をブンブンと振った。
「いいえ。日下くん、今日中に帰ると言ってましたし。入れ替わりで帰りますよ。ねえ?」
大垣が真人の方を向いて苦笑いを浮かべた。
……なんで急に同意を求めた。
真人が怪訝な顔で首を傾げると、大垣は焦ったように目を逸らした。
大垣が持ってきた手提げ桶の中身は、おはぎらしい。銀時とハクがイタズラしないよう、台所のテーブルに避難させた。
銀時とハクがテーブルの下でかくれんぼを始めた隙に、真人は大垣に声をかけた。
「大垣くん、医大生って聞きました」
「えっ。あ、はい!」
なぜか真人と話すときだけ挙動不審な大垣は、敬語で真人に返事した。
「忙しいのに、すみません。今日は、大学だったんですか?」
「はい。まだ、院生なんです。二浪してて」
「二浪?」
おれと同じだ。
一瞬口をついて出そうになった。
少し悩んでから、真人は、「おれも大学四年生です」とだけ、小さく答えた。
「そうなんだ。じゃあ、学生同士ですね。よろしくお願いします」
大垣は相変わらず少し強張った顔のまま、ぺこりと頭を下げた。
晃の友達なのに、大垣は年下の真人にも礼儀正しい。
「本当に、晃のお友達?」
真人がまじまじと見上げると、大垣は思いきり目を逸らしてしまった。
あれ? もしかして本当は友達じゃないのか。晃と、一体どういう関係なのだ。
真人が疑心暗鬼で大垣の顔を見つめると、大垣は逃げるように顔を思いっきり逸らした。
「……晃のいちばん好きな食べ物、なんだか知ってますか?」
真人は大垣の顔を見上げて尋ねた。
「え? なんだろ。一番? 全然わかんないな」
ますます怪しい。真人は眉間に皺を寄せた。
「あ、そういえば。日下のやつ、空手の合宿で、カレー十杯食ってたから、カレーじゃないですかね」
大垣の早口回答に真人は目を丸くして、口角を上げた。
「ケンちゃーん。もう少しでお店閉めるからあ」
今度は春枝がお店から顔を出した。手を振る春枝に、真人が手を振り返すと、春枝は両手でピースした。
「今日はすき焼きよ。楽しみにね」
春枝の去り際の台詞に真人は目を輝かせた。
「聞いた? すき焼きだって」
「……日下不在の間に、おれがこんなに歓待してもらって良いんだろうか」
「いいよ。晃も、ケータリングでお寿司食べるって言ってたもん」
話しかけると露骨に目を逸らす大垣に、真人はふと質問した。
「大垣くん、晃からは大垣、って呼ばれてるのに、照夫さんと春枝さんからはケンちゃん呼びなんですね?」
大垣は一瞬だけ目を合わせて、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「……もともとは、日下からもケンちゃんって呼ばれてたんですけど、中学の多感な時期を経て、お互い苗字呼びになりました」
「ふーん。じゃあ、アキラちゃん、って呼んでたんですか?」
「アキちゃんです……スミマセン」
なんで謝るのか。真人はむっと顔を顰めた。
「おれ、そんなに絡みづらいですか?」
「わ! ち、違います! 決してそんなことはない! そうじゃなくて、あの、あまりにも……こう……」
口ごもる大垣が話を続けるのを待っていたら、ハクが真人の脚に前足をかけてだっこをせがんだ。真人が抱き上げると、われも、われも、と銀時が尻尾をふりながら真人の太ももに飛びついた。
「大垣くん来たって、晃にLINEしよ。大垣くんクイズ、晃にも出してやる」
居間へとてくてく歩き出す真人を目で追いながら、大垣は頭を抱えた。
聞いてない。
無理、美人。助けて。
っていうか、変人。
助けて、日下!
台所で大垣が人知れず頭を抱えていると、スマホに通知が入った。晃からだった。
『大垣のこと信用してますので 夜露死苦ゥ』
大垣はこの時、はじめて親友に殺意を抱いた。
こたつテーブルに置いていた子どもたちからのメッセージ集を自称大垣に見つけられてしまい、真人はしぶしぶ見る許可を出した。大垣は興味深そうに熱心にカードを読み、目を輝かせた。
「すごいなあ。めちゃくちゃ心がこもってる。実習、楽しかった?」
真人は大きく頷いた。
「大垣くんは、お医者さんになるんですか?」
「えっ。あ、はい。その予定です」
「なんでなろうと思ったの?」
「ええと。おれ、叔父が医者で。叔父さんに憧れて、医者になりたかったんです」
「ふむふむ」
「それがきっかけかなあ。いや、でも、いちばんの理由は、日下がいじけてた時期のことかなあ」
「いじけてたって?」
真人が首を傾げると、大垣が慌てて口を押さえた。
「おれには言っちゃだめな話?」
大垣はまた目を逸らした。
「大垣くん、さっきからおれをからかってませんか?」
「からかってないです! 今のなし! ちょっと、一旦忘れて。お願い、お願い!」
大垣が手を合わせて謝罪のポーズを採った。
これ、晃でも見たことある。道場の流派で謝罪方法が決まってるのだろうか。
「まひちゃーん。今のうちにお風呂入ってきなさい」
春枝が台所から声をかけた。
「はーい」
真人が返事をしていると、大垣が所在なさげに頭を掻いていた。
「……一緒に入ります?」
真人が尋ねると、一瞬で顔を真っ赤にした大垣が手をブンブン振って拒否した。
「冗談ですよ。大垣くん、へんなの」
真人がカラカラ笑いながら浴室へ消えていくのを見送って、大垣は膝をついて項垂れた。
ガスコンロの上に乗せられた漆黒のすき焼き鍋を中心に、真人たちは膝を寄せ合った。
照夫がつまみを回して、火力を調整したあと、大ぶりの牛脂を入れた。そのままざるに入れられたネギを箸でつつきながら炒めると、脂がぱちぱちと跳ねた。
サシの入った牛肉を追加すると鮮やかな赤があっという間に色を変える。料理酒を加え、醤油。最後に、計量スプーンで掬ったラカントをたっぷり入れて、照夫は火を消した。
「よし。食え!」
真人と大垣は、照夫が取り分けた肉とネギを溶き卵につけて、口の中に招き入れた。
肉の旨みと、ネギのトロトロの食感。あまりの衝撃に、二人は言葉を失った。
「そうだ。お酒出しましょうか。ケンちゃん、お酒飲む?」
春枝が尋ねると、大垣は首を振った。
「一応ぼく、今日は見守り隊として参加してるので。なあ?」
大垣は銀時の肩を叩きながら答えた。別で茹でてもらった肉を頬張っている銀時には、大垣の声は聞こえていないようだ。
「いいよ。平気。お酒、飲みなよ」
真人は春枝が注いだジンジャーエールに口をつけながら言った。
「まひ男、飲めないのか」
「飲めないです。匂いだけでぽわーってなる」
「あらやだ。そこの襖開けちゃいましょ。換気換気!」
「……いいのかなあ」
大垣がひとりごとのようにぽつりと呟いた。
「サモエド、飼うの大変ですか?」
「えっ。ああ、まあ。北方犬なので、エアコン完備です。今年は涼しいから、銀時も過ごしやすいみたいですよ」
「銀時、ごはんはたくさん食べる?」
「もちろん。この見た目と運動量ですから」
真人からの質問に答える間に、大垣は春枝の持ってきた缶ビールをグラスで受け止めた。
「まひ男。Mステつけるか?」
上機嫌な照夫が真人に尋ねた。
居間の真っ黒な大きなテレビ画面。真人はここに来てから一度もついているところを見たことがなかった。
きっと、晃が春枝と照夫に根回ししていてくれたのだろう。
「お父さん、まひちゃんに無理させないで」
春枝が窘めた。
真人は焼き豆腐を飲み込んで、漸く言葉を口にできた。
「……見たい。つけてください」
口角を上げた照夫がリモコンのボタンを押すと、大画面に発泡酒のCM。まだ番組の開始前だった。
真人は反射的に目を瞑ってしまった。
「大丈夫?」
向かいの大垣が小声で心配そうに尋ねた。
「CMが苦手なの」
真人は目を瞑ったまま答えた。
「そっか。音量減らす?」
大垣の提案に、真人はこくこくと頷いた。
箸を置いて膝を抱える真人の横に、ハクがぴったりと寄り添うと、銀時も負けじと反対にお座りして、狛犬のように真人を囲んだ。
「神谷くん、目、開けて。始まったよー」
大垣が肩をトントンと優しく叩いた。
真人が目を開けるのと同時に、テレビのボリュームも大きくなった。
「あった、あった。見て~。昔のライブツアーのペンライト。納戸にあったのを持ってきたわ」
二階から戻ってきた春枝が真人と大垣にペンライトを配り、すぐに自分の持つペンライトを赤に光らせた。
「私、宗馬くん推しなの」
真人はペンライトを二回押して、黄色に切り替えた。大垣は、空気を読んで何となく青を光らせた。
続々と登場する出演者。二時間スペシャルということもあって、ステージ上には大勢のアーティストが並んでいる。
“ARC”の三文字が画面にテロップで流れ、センターの宗馬を筆頭に、凌也、晃の順で登場。
「きゃー、宗馬くん!」
アリーナ席を陣取っている春枝に対抗して、真人もハクと銀時を連れ立ってテレビの前へと移動した。
赤色ペンライトを握りしめて宗馬の名前を連呼している春枝に負けじと、真人も黄色のペンライトをブンブンと振った。
「……このスカしてる男が、朝この家から出て行ったことを考えると味わい深いものがある」
誰にも聞こえない独り言を呟いて、大垣は一人で笑った。
「見て、晃だよ! かっこいいねえ、ハク」
真人も緊張してきた。ハクを抱き寄せて、画面の向こうの晃を見つめた。
どうか、晃が歌詞を間違えませんように。
音を外しませんように。
テレビを見ている人たちに、かっこいいって知ってもらえますように。
晃、やっぱしスタイルめちゃくちゃいい。アーティストがずらっと並んでるなかで、骨格のバランスの美しさが目を惹く。
髪の毛、ワックスつけてるなあ。
ちょっとお化粧してるのかな?
唇の色が違う気がするなあ。
「とちるなよ、バカ息子ー!」
照夫の野次に真人ははっと我に返った。
立ち位置について、宗馬が腕を振り上げた瞬間、三人がバク転。
真人は思わず叫んでしまった。
怪我してない? と真人が慌てる間に、アップテンポの曲がどんどん進んでいく。
披露しているのは新曲らしい。
知らないことが、ちょっと悔しい。
拍手と歓声が画面越しに鳴り響いて、真人はほっと安堵のため息を漏らした。
「結構良かったんじゃない?」
満足げな春枝に対して、照夫は耳を穿りながら笑った。
「まだまだ。グルーヴ感が足りん、あの山吹色」
ステージ終わってしばらくしても、余韻は残ったままだった。真人はぱちぱち、と画面を見つめて拍手を続けた。
「さあさあ、参観も終わったし、大垣くんの持ってきてくれたおはぎを食べましょうかね」
春枝はペンライトを握ったまま、台所の手提げ桶を持って居間に戻ってきた。
手提げ桶に被せられた布巾を取ると、ずんだ、つぶあん、きなこの三色の大ぶりなおはぎが視界に飛び込む。
「すき焼きのあとにこのサイズ、でかいなあ」
大垣が苦笑すると、真人は目を輝かせて、きなこ味を指差した。
「これ、食べたい。いい?」
「もちろん。どうぞ」
ずっしりと重いおはぎを小皿に取って、フォークで切りながら食べると、甘くて優しい味が口の中にとろける。
「……おいしい」
真人はほっとため息をついて、目を閉じた。
「ケンちゃん、最近はどうなんだ。カンナちゃんは元気か?」
照夫が瓶ビールを大垣に注ぎながら尋ねると、大垣は苦笑しながらずんだのおはぎを手に取った。
「実は、振られてしまいました」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
カンナを知らない真人までつられて反応してしまった。
「もう、向こうは社会人だし。なんか、職場でいい人がいたみたいです。はあ。きつ」
「なぁんだよ。そうだったのか。飲め飲め!」
思い出したことが悲しいのか、それとも言って気が抜けたのか、やや背中の丸くなった大垣は、真人と目が合うと困ったように笑った。
「早く自立したーい! わーん!」
大垣が手をついて天井を仰いだ。真人もこくこくと頷いて、おはぎを口に運んだ。
すき焼きの残り香と、甘いおはぎの匂いに混じって、ビールの匂いが部屋に漂う。
真人はおはぎを完食すると、こたつテーブルにあご乗せてぼんやりと息を吐いた。
ハクに背中をつつかれて振り返ると、座布団を口に咥えていた。
真人は座布団を受け取り、頭に敷いて体を畳に沈めた。
笑い声が、眠りかけた真人の周りをゆっくり巡っている。
みんなの声がするなあ。
これが、円居なのかなあ。
遠き 山に 日は落ちて
星は 空を ちりばめぬ
昔、じいちゃんが歌詞を教えてくれたな。
円居って、楽しいなあ。
*
ジャージ姿の晃が帰宅したのは、日付を跨ぐ数分前のことだった。
晃が大汗をかいて裏口の襖を開けると、灯りのついた居間には、座布団を枕に仰向けで寝息を立てる真人と、その両サイドに銀時とハクがくっついて爆睡していた。
「……あれ?」
こたつテーブルの奥では、照夫と大垣が顔を赤くして潰れている。
「おかえりー。大盛り上がりだったわよー」
風呂上がりの春枝が出てきても、晃は何も答えず、充満する酒の匂いのなかで穏やかに眠る真人の寝顔を見つめていた。
「……ポンデリング、買って来たけど、誰か食う?」
晃が居間のメンバーに訴えても、いびきしか帰ってこなかった。




