クレパスの伝言
網戸の向こうから、遠くを走る車の音が微かに聞こえた。
肌寒さに薄く目を開けると、もう見慣れた木の天井が見えた。
わずかな薄明かりのなかで、そっと視線を移すと、壁掛け時計の針は、午前四時を少し回っていた。
もう、六月十九日だ。
胸の奥が、すうっと冷えていくのを感じて、思わず身体が固まった。
とうとう、来てしまった。
咄嗟に晃の姿を探すと、並べて敷いた布団の反対側に、半分くらい身体をはみ出してうつ伏せで寝息を立てている晃の顔があった。
昨夜まで握られていた手は宙ぶらりんで、真人は震える息を吐いた。
“助けて”
心の中で晃を呼んだ。
起こしちゃいけないと思いながら、真人は恐る恐る晃の手に指先を伸ばした。
晃の手の甲に、そっと触れた瞬間、晃の腕が大きく動いて、目を閉じたまま真人の手をぎゅっと握りしめた。
「……まひとぉ」
真人はぽかんと晃を見つめた。
握られた手は温かかった。
朝から、真人と視線が合わない。
おはよう、と話しかけてもどこか上の空。
今日が桜桃忌であることや、スケジュールのことを考えて憂鬱なのだろうか。
「体調大丈夫か?」
居間のこたつテーブルの前でぼんやりと荷造りを進める真人の背中に声をかけると、真人は振り返らないまま首を縦に振った。
「無理すんなよ。移動中でも、無理だったら小鳩に言え。おれも、LINEできるだけ見るようにする」
晃が屈んで真人に目線を合わせた。
「……晃」
「ん?」
「昨日……なんか、変な夢みた?」
「……え?」
「夢」
憂げな真人の視線が晃を捉えた。
晃はゆっくり真人の肩を掴んだ。
「も、もしかして、おれ、なんか言ってた?」
真人はぷいっと顔を背けた。
「言った?! 寝言?! え、何言った?! どこまで言った?!」
真人はむうっと口を尖らせた。
「……おれのこと、勝手に夢に登場させてたのかよ」
「うわあ! お願いだから教えて!」
「いいから、お仕事行きなよ。別に怒ってない」
「本当だな!? 絶対だな!?」
晃が真人の肩を揺すっていると、インターフォンが鳴った。
「もっちーか? 早えな」
慌てて晃がボストンバッグを肩にかけたのと同時に、裏口の襖が勢いよく開いた。
「おっはー!」
がっしりとした身体に搭載された大音量スピーカーの朝の挨拶に、真人は自分の髪が揺れた気がした。
「もっちー、声でかい」
「ねえ、この子? この子が神谷くんだよね? よろしく! おれ、望月! 晃のジャーマネ」
「圧。ほら、真人がびっくりしてんだろ」
真人はリュックを握りしめて、目を輝かせた。
「……不死身の、杉元さんだ」
望月と晃が眉を顰めるのに構わず、真人は顔を綻ばせた。
「不死身の杉元さんだ。初めまして。おれ、神谷真人です」
真人が深々と頭を下げると、望月が目を丸くして自分の顔を指差した。
「……おれ、山崎賢人ってこと?」
「ってか、小鳩は? MAZDAの鍵渡したいんだけど」
「待ってよ。今の話詳しく。どういうこと? おれ、山崎賢人に似てる?」
すごい。杉元さんが喋ってる。
小鳩さんがアシィリパさんみたいだったら最高なのに。
真人が小鳩の登場を今か今かと待ち構えていると、「失礼します」と女性の声が勝手口から聞こえた。
「真人、紹介するね。こっちのうるさいのがARCのチーフマネの、望月。こっちのしっかり者が、小鳩」
晃に紹介されたスーツに身を包んだ女性は、口角を上げて会釈した。
「よろしくお願いします。今日は自分が神谷真人さんをお守りします」
「どう? こっちは、誰に似てそう?」
望月が手をかざして真人に通常ボリュームで内緒話した。
「……真希波さん」
「マキナミ?」
「な、なんでもないです! 小鳩さん、どうぞよろしくお願いします」
真人が顔を赤くしてペコペコ頭を下げて挨拶をするうちに、春枝と照夫も居間に集合して、望月たちに深く頭を下げた。
「どうもどうも。うちのバカ息子がいつもお世話になっています」
「いや、まったくです! いちばん世話がかかるんですよ、晃くんは」
望月と両親の会話を背に、晃は靴を鳴らして、ネイビーのキャップを被った。
「真人、今日は遅くなるかもしれないけど、もっちーの車でちゃんと帰るから」
「……うん」
「じゃーね、神谷くん! こばちゃん、神谷くんのこと、よろしくねえ!」
望月の運転するマネージャー車の出発を見送ってから、真人もMAZDAの後部座席に乗り込んだ。
晃を乗せたマネージャー車は、日野の住宅街を抜け、甲州街道へ向かった。
「神谷くんって、写真で見るよりずっと可愛いね!」
望月がハンドルを回しながら、後部座席で頬杖をつく晃に声をかけた。
「少し元気になってたんじゃない? 晃の励ましの成果だといいね」
「……」
「……なんでキレてんの?」
「ちゃんと前見て、もっちー」
「だって、機嫌悪いから。どうしたの?」
「……寝言言ったらしい」
「晃が? 何て言ったの?」
望月は半笑いで後ろをまた振り返った。
「……知らねえ。でも、なんか真人が夢の中で笑ってたのは覚えてる」
「えっ。それでキモがられてんの?」
「言うなよ、そういうこと! 傷つくだろうが!」
晃は頭を抱えた。
「仕事、仕事! 一旦忘れる、集中する! くっそおおお!!!!」
*
バックミラー越しの真人の真顔を視界に入れて、小鳩は苦笑した。
「そんな、借りてきた猫みたいに。リラックスしてください、神谷さん」
「……ハイ」
背筋をピンと伸ばして、リュックを胸に抱えた真人は、真正面に顔を固定してぴくりとも動かない。
「大学の前で降ろしたあと、車を停めて近くで待機します。一限のゼミのあとに、学生生活課とお話しされるんですよね?」
「……ハイ」
「私も同行しましょうか?」
「……お恥ずかしながら、そうしていただけると嬉しいデス」
真人が恥ずかしそうに訴えると、小鳩は苦笑した。
「わかりました。良かったら、お昼は大学の食堂で一緒に食べますか?」
真人は息を呑んだ。
「……そ、それは流石に大丈夫です! ほんとに、気にしないで! 午後の予習しないとだし!」
小鳩は笑いながら了承した。
日下家を出て二十分ほど経った頃、真人を乗せたMAZDAは大学の正門前に着いた。
大学の門を行き交う学生たちを目にして、真人の手が僅かに震えた。
「では、また十時半に、八号棟で待ち合わせましょう」
真人は鞄に忍ばせていた防犯ブザーを首にかけた。
大丈夫。おれは、ひとりじゃない。
真人はリアドアを勢いよく開けた。
「小鳩さん、本当にご親切にありがとうございます。行ってきます」
教育実習以降、一回も顔を出せていないゼミ。
立川で晃に会ったとき、痩せた、って言われたな。ゼミの皆、死神を見るような目で見るかも。
真人は一度スマホを取り出して、改めてグループLINEを開いてみた。
ずっと未読のままになっていたメッセージが、五十件。
数字にギョッとしながら開いてみると、卒業制作の話を中心に話題が展開しているようだった。
その中に、足立からのメッセージがひとつ。
“綾波、生きてる?”
真人は足を止めた。
送信日時、六月五日。もう二週間も無視している。やばい。
気づくのが遅すぎた。どうしよう、あと一分くらいでゼミ棟に着いてしまう。
もう少し迂回してから行くか? いや、それより早く謝ったほうがいいだろうか。
どうしよう、どうしよう。
逡巡しながらゼミ棟の階段を登り切ったときだった。
「綾波?」
背後から声が聞こえて、真人はおそるおそる振り返ると、足立が目を大きく見開いて立ち尽くしていた。足立の手からプラスチックの飲み物カップが滑り落ちて、グシャッと廊下に音が響いた。
「あ……」
真人が口をパクパクさせている間に、足立は飲み物のカップを飛び越えて、真人に飛びついて抱きしめた。
「馬鹿野郎! どこ行ってたんだよ!」
怒っている口調なのに、肩口に額を寄せた足立の声は濡れていた。
「あだっちー、綾波、固まってるよ」
倉田が苦笑して足立の背中をトントンと叩いた。
「綾波、本当にどこ行ってたの? 皆心配してたんだよ。綾波、立川で死んでるんじゃないかって」
「……」
倉田が二人を交互に見やりながら苦笑した。
「まあ、とにかく良かったよ。あだっちー、綾波のこと、放してあげて」
「……ごめん、足立さん。あの、おれ……」
締め付けられるのはどうしても身体が慣れない。申し訳なく思いながら、真人が足立の肩にそっと手を添えると、足立が腕で顔を覆った。
「良かった、綾波が生きてて」
固まっている真人の周りに、ゼミ生たちが廊下に集まって円になった。
植草が足立に便乗しようと腕を伸ばすと、倉田が植草の手を掴んで締め上げた。
*
カメリハで照明が点いた瞬間、目がチカチカした。久しぶりの立ち位置、イヤモニ、カメラの赤いランプ、スタッフの声。情報量に身体の反応がわずかに遅れる。
リハが終わって袖にはけた途端、一気に疲れが来て、晃は楽屋のテーブルにだらんと突っ伏した。
「ありゃ、体力バカが珍しくへばってる」
凌也がクエン酸を飲みながら晃を見下ろした。
「一週間でこんなに鈍るとは。恐ろしいな」
真人も、今日こんな感じで大学に行ってるのかな。
晃が深く息を吐いて目を閉じていると、真人からの通知が届いた。
『小鳩さん 優しい』
『学生生活課との面談終わった。小学校から、実習のお手紙貰った。嬉しい』
晃が口元を緩めてスマホをスクロールしていると、宗馬が後ろから声をかけてきた。
「晃、神谷くんの友達の薫くんって知ってる?」
「……あァ?」
一瞬で鬼の形相に変貌した晃の顔に、宗馬は持っていたハンバーガーをひっくり返してしまった。
「ごめんなさい! 何でもないです!」
「……今、なんつった。おれが今世界で二番目に嫌いなやつの名前言わなかったか」
「え! 何で? 薫くんって悪いやつなの?」
宗馬は落としたハンバーガーを拾い、凌也の後ろに回り込んで助けを乞うた。
「宗馬、なんでそいつの名前知ってんだよ」
宗馬が凌也に目配せすると、凌也が口を開いた。
「昨日、白石エマから聞いたんだって。千木良いのりと仲良くて、現場に遊びにきてたらしい」
宗馬は口をきゅっと結んで頷いた。
「……で、そいつがなんだって?」
「一昨日、白石エマと榊がバーで飲んでるときに、薫くんと小競り合いになったらしい」
「小競り合い?」
「うん。神谷くんの話題で喧嘩になったような言い方だったんでしょ?」
凌也が水を向けると、宗馬がこくんと頷いた。
「晃は晃で、神谷くんから薫くんのことは、何て聞いてるわけ?」
「……真人の中学の同級生のはずだ。今は疎遠になってると聞いてる」
晃が答えると、凌也が満足そうにニヤッと笑って、デスクに広げられていた望月のノートパソコンの前に座った。
「中学ねえ。神谷くん、出身、北杜でしょ。部活とかわかんない?」
「……サッカーの応援に行ったことあるって言ってたような気がする」
「ふーん。サッカー部か?」
カチャカチャとタイピングしている凌也の横に、顰めっ面の晃と困惑の宗馬の顔が並んだ。
「浜野……こいつか? 真原中学のサッカー部」
市大会の結果を載せた地域紙の古い記事に、集合写真と選手名が残っていた。
「三谷?」
キャプテンの欄に、聞き覚えのある名前を見つけて、晃は画面を睨んだ。
「このキャプテンの名前、聞いたことある」
「ふーん。じゃ、こっちから調べてみるか。ああ、このキャプテンの子、最近結婚したのね? 結婚式の写真がインスタに上がってるね。薫くんも、メンションされてる」
「こいつか。こいつが……へえ?」
晃の声がまた低くなった。
「ねえ、凌也、どうしよう! 晃がどんどん怒るよ!」
「三谷くんのインスタから薫くんのアカウントに飛んだけど、ありゃ。この子、ほとんど写真載っけてないよ。もっかいさっきの集合写真に戻すわね」
赤い顔の新郎の周りで肩を組む男たち。二次会か何かだろうか。その中で、あまり浮かない表情に見える、浜野薫。
「……今、東京にいるってことだよな」
「そうね、たぶん。ふうん。まあ、顔と名前さえわかればあとはこっちのもん」
「……よくわかんないけど、凌也が味方で本当に良かったと思う、おれ」
宗馬がぽそりと呟いた。
「あァ、白石のファンアカウントが、昨日白石が上げてた写真からバーを特定してるね。六本木だわ」
パソコンの画面に映る白石の笑顔と、シャンパングラス。
そのグラスに反射した男の影に、晃は目を凝らした。
*
真人が休んでいる間、ゼミ生たちの間で配られていたお菓子を、倉田が律儀にとっておいてくれたらしい。
ビニール袋いっぱいにぶら下げて、小鳩と一緒に学生生活課との面談に向かった。
体調のことや、通院の予定。
来月の教採については、体調を見て受験するかどうか判断することを伝えた。
帰り際、教務課から声をかけられた。
実習先の新町小から、子どもたちの手紙を預かっていたのに、自分がちっとも大学に来ないせいで渡せなかったらしい。
紐で括られた画用紙の表紙に、“真人先生へ”というタイトルと、相変わらず陽キャすぎる似顔絵が描かれていて、真人は苦笑した。
小鳩と一旦別れたあと、どうしても中身が見たくなり、自習室の中に入って角の椅子に腰掛けた。
添えられていた茶封筒を最初に開くと、松下先生からのメッセージが入っていた。
神谷先生
三週間、お疲れ様でした。
自分の指導方針として、一律に感謝の手紙を書かせることはしていなかったのですが、子どもたちがどうしても先生にお手紙を書きたいというので、有志でやりなさいと伝えたところ、子どもたちがこのようにまとめて持ってきました。
ちゃんと、クラス三十二人、全員提出したようです。笑
僭越ながら、子どもたちのかいたメッセージをひとつひとつ読ませていただきました。
たった三週間でよくもまあこれほど好かれるものだなと、少し神谷先生のことが羨ましくもあります。
きっと子どもたちは、これから続く長い人生のなかで、神谷先生のことをずっと覚えていることでしょう。
神谷先生も、これから始まるであろう教員生活のなかで、あの三週間に感じたことを、どうか忘れないでくださると嬉しいです。 松下瞳
鼻を啜りながら手紙を封筒にしまって、咳払いをしてから、真人はメッセージをめくった。
まひと先生へ
先生がおすすめしていた、金子みすゞさんのししゅうを読みました。
私のお気に入りは、「見えないもの」です。
まひと先生が言っていたことににているなあと思いました。
わたしも1さつ、先生におすすめします。アーノルド・ローベル『ふたりはともだち』です。 絵梨花
絵梨花からのメッセージにはカエルのイラストが描き添えられていた。
次のページには、カクカクとした形の歪なひらがなが並んでいた。
まひとせんせい
せんせいとまたおにごっこがしたいです
せんせいのこと大すきでした しげる
なんども書き直したひらがなのあとを、真人はそっとなぞった。
次のページを捲ると、今度はバランスの取れた綺麗な字と、丁寧なイラスト。
真人先生へ
先生、元気ですか。
先生が、見えないものを見ようとする授業をしたせいで、私はあれからいろんなことを考えています。
もしかしたら、この世界って、自分が見えているのとは違うように人から見えてるんじゃないかな、とか。
おなじけしきを見て、きれいだねと言っても、おなじことを考えてるわけじゃないのかも、とか。
そう思ったら、世の中のことが少しむずかしく思えて、だけどちょっぴり何もしない時間が楽しくなりました。
また、新町小学校に来て。 ひかり
まひと先生
まひと先生をはじめて見たとき、ぼくは先生のことイケメンっていったけど、イケメンなことより、ずっといいところがたくさんある先生です。
ぼくは、まひと先生みたいな先生になりたいです。 かん太
涙を拭う手が追いつかなくて、ぱたぱたと落ちる雫がメッセージを滲ませてしまう。
最後のページには、メッセージが何も書かれていなかった。
メッセージの代わりに、クレパスで丁寧に採色された美しい一枚のイラストが目に飛び込んできた。
落下しながら閃光を放つ、装甲トラック。その操縦席に乗っている、二人組の警察官。
警察官のひとりが腕を伸ばした先に、大きな翼の生えた、白いワンピースの天使。
真人がイラストのページをそっと裏返すと、小さな文字でこう書き添えられていた。
On Your Mark
あってますか? 渚




