あなたのことが好きだった
「明日の大学なんだけどさ」
家までの帰り道、真人に桃のジェラートを買った。
外のテーブル席に座ると、真人はもそもそとジェラートを頬張り始めた。
「大丈夫だよ。おれ、一人で行けるよ?」
照夫や春枝に送り出してもらうことを真人は頑なに断った。仕事の邪魔をしたくないらしい。
「いや、その話なんだけど。うちの社長が……真人に謝りたいって言ってるらしい」
真人はびくりと肩を震わせた。
「……できるだけ、真人のこともサポートしたいって。だから、明日の大学さ、うちのスタッフに送迎を頼もうと思ってる」
真人は目を伏せ、小さく「だれ?」と尋ねた。
「誰って、知らねーだろ。女性のマネージャーさん。小鳩って人」
「こばと?」
「名前はハトだけど、ジークンドーやってる人。真人の通学に付き添ってもらえたらと思った」
「……いいのに」
真人は肩を落とした。
さっきまで美味しそうに頬張っていた桃のジェラートを、苦い顔で噛んでいる。
「芸能界のやつに頼むの、嫌か?」
真人はしばらくして、首を振った。
「晃がそうしたほうが安心するなら、そうする」
歯切れの悪い答えに晃が息を吐くと、真人が遠慮がちに尋ねた。
「鷹見さん、おれに謝るって、なんのこと?」
「……そりゃ、真人を置いて辞めてったこととかじゃねーの」
「……別に、いいのに」
真人の顔はすっかりくもってしまった。
アイスを食べ終わってから話せばよかったと晃はすぐに後悔した。
ただ、言えてないことはまだまだ、たくさんある。
晃は苦笑して、話しかけた。
「それとさ、明日の夜なんだけど」
真人がぴくりと肩を震わせた。
「……そばにいてやれなくて、ごめん」
「……いいよ、別に」
「一つ、これも提案なんだけど。大垣ってやつ、呼んでいいか」
「だれ?」
「おれの幼馴染。医大生。真人をなるべく一人にしたくねーから、呼ぼうと思って」
「……晃の、幼馴染」
復唱する真人に晃が頷いた。
「そ。いい奴だよ」
「大垣くんをおうちに呼ぶの? 一緒にお留守番するってこと?」
「まあ、そう。あと、アイツ犬飼ってんの。だから、犬もついてくるかも」
「何犬?」
「サモエド」
「サモエド?」
真人の顔がぱあっと明るくなった。
「サモエドが来るの? すごい。でも、ハクは? ハク、びっくりしないかな。サモエドって大きいよ?」
「ハクも、何回か会ったことあんだよ。わりとハクの言うことは聞くんだぜ」
目を輝かせて頷いていた真人は、またすぐに口をへの字に曲げて肩を落とした。
「……大垣くん、おれのこと、怒らないかな。晃に迷惑かけるなって」
晃は首を振った。
「そんなやつじゃねえよ。ってか、いいんだな? 呼ぶぞ。医大生と、サモエド」
真人の世界がいっぺんに銀世界に変わるのが見て取れた。真人は溶けかかったアイスを口に含んで、首を傾げた。
「……晃は、ジェラート食べなくてよかったの?」
「聞くの、おっそ」
「甘いの苦手だから?」
「あと、ひと口でいい人だから」
「……あげないよ?」
真人はジェラートカップを懐に抱えて眉を顰めた。
「みみっちいのはどっちだよ」
晃は笑ったが、真人は眉間に皺を寄せたまま、スプーンを口に運ぶ速度を早めた。
「……あとさ」
「まだあるのかよ」
「チャットGPTに書いてた文章」
桃の甘さを台無しにする話だとはわかっていた。でも、ここで言わねばならなかった。
「あれ、おれ、読んでなかったことにしてない。ちゃんと、受け止めてるから」
「……」
「今すぐ、何か言おうとしなくていい。言葉にならないことは、無理に話さなくていいから」
「……うん」
「だから、また、何か言いたくなったら言って。ちゃんと、聞く」
「……ありがとう」
真人は袖で伏せた顔をぐっと拭った。
「……ひと口、食べていい」
頭を垂れた真人がそっと差し出したスプーンには、ほとんど液体になった薄紅色のジェラートが乗っていた。
大きく口を開けて頬張ると、勢い余ってプラスチックのスプーンがバキッと音を立てて折れた。
結局、真人にめちゃくちゃ嫌われた。
*
凌也と宗馬は望月の車に乗り込み、六本木へと向かった。
「もっちー。今日のことって、将軍にバレてる?」
後部座席の凌也が運転席の望月に尋ねた。
「うん。バレてる。流石にチクった。ごめんね」
「いや、いいよ。おれらももっちーが後で怒られるのは嫌だもん」
「バレてるけど、あの人、止めなかった。結果はちゃんと報告してとは言われたけどね」
車はトンネルの中へ入り、オレンジ色のライトが体を下から上へと無機質に撫でていく。
「あのさ……凌也」
隣の宗馬がトーンの低い声で呟いた。
「ん?」
「前に、うちの将軍、神谷くんのマネージャーしてたって言ってたよね」
「言ったねぇ。どうかした?」
「何かボタンが掛け違えてなかったら、ARCのメンバーに、神谷くんも居たのかなぁ、って」
宗馬は肩を落とした。
オレンジのライトが宗馬の顔を掠めるたびに、涙を浮かべた宗馬の顔が見えた。
「お前さ、ノーテンキが取り柄なのに、たらればの想像で自分を責めるなよ」
凌也が苦笑いを浮かべると、宗馬は小さく頷いた。
飲み会の開始時刻は、二十一時。
場所は六本木のスイートルーム。
Waypointからは、ARCのメンバー、宗馬と凌也。
御域プロダクションの俳優、葦原太一と、千木良いのり、大手のBAから、俳優の榊普。
合計五人の若手芸能人と、付き添いのマネージャーが三人。
明日の仕事に差し支えないよう、二時間で強制終了という約束になっている。
……クッパ追加されてんじゃん。
宗馬がいのりから受け取ったメンバー表を見返して、凌也は舌なめずりをした。
*
アラームを朝六時にセットして、ARCのLINEにメッセージを送った。
いつもならすぐに既読になるはずが、一向に返信がない。
凌也のラジオは土曜日だし、宗馬も収録は終わっているはずなのに。どこかに飯でも行ってんのかな。
「真人、もう電気消す?」
スマホをスワイプしながら尋ねたものの、タオルケットを頭まで被って布団に埋まっている真人からは返事はなかった。
いつの間にか、こっちの部屋で寝るのが定着してしまった。六畳に布団二枚は狭いんだよ。別にいいけど。
明かりを消すと、網戸越しの街灯が部屋を藍に照らした。
晃は仰向けになったまま大垣とのトークルームを開いた。
『あした何時くらいに行けばいーの』
大垣からの雑なメッセージに晃も返信を打ち込んだ。
「真人、まだ起きてる?」
晃が小声で尋ねると、真人がそっとタオルケットから頭を出した。
「おはぎ食えるかって。明日、大垣が持ってくるってよ」
「……食べたことない」
「じゃ、食え」
晃は笑って返信を送った。
「……晃」
「なに?」
「大垣くんって、晃のマブダチ?」
「いつの時代の言葉だよ」
晃は肩をすくめた。
「晃のマブダチ、会うの楽しみ」
真人は目を細めた。
「そう送っとく。大垣に、真人の体調のこと、少し伝えといていいか」
真人はこくんと頷いた。晃はまたスマホを握って、メッセージを打ち込んだ。
網戸から湿った風が吹き込む。
明日は、また雨に戻るのだろうか。
「……薫の話、していい?」
真人の声に、スマホを打つ手が止まった。
薫。真人の過去の知り合いか。
真人を見ると、少し恥ずかしそうに眉を下げ、こちらの顔色を窺っていた。
「いーよ」
晃は身体を横に向け、肘をついて頭を起こした。真人はほっとしたように目を細めた。
「……薫はね、おれの大事な友達だったんだ。中学二年のときと、三年のとき、同じクラスだった」
「へぇ」
晃が興味を示すと、真人はほっとしたように頷いて、続けた。
「薫もね、昔の漫画とか、アニメとか好きだったから、よく話したりしてさ」
「……オタク仲間?」
「そうかも。でも、仲良しなことは、他の人には内緒だったんだ。おれと仲良くしたせいで薫に迷惑かけるの、嫌だった」
「……うん」
晃は深く息を吐いた。
「高校の美術部のみんなのことも、大好きだったけど、一番大事だった友達は? って聞かれたら、薫。中学のときはずっと、心開けるの、薫しかいなかったから」
「……念のため聞くけど、男だよな?」
真人はキョトンとした顔をして、その後一拍遅れてくしゃっと笑った。
「ふふっ。そこは大事だね。ははっ、女の子の薫、想像したら面白い」
揺れるタオルケットから覗く真人の肩が寒そうで、ほんの少しだけ上に掛け直した。
「薫が女の子だったら、どんな感じだったのかなぁ」
「……知らねえけど」
晃は目を逸らした。
「美術部のみんなのことも大好きだったけど、薫は特別だった。なんていうのかな……薫は、ひとりだけで良かったんだ。薫がひとり、居てくれたから、中学で嫌なこといっぱいあっても、頑張れた。だから、薫には感謝してる」
「……」
「……薫は、おれのこと好きじゃなかったかも」
真人の声が震えた。
「おれは、薫のこと、大好きだった。でも、薫は、そうじゃなかったのかも」
「……」
「大好きな友達に、雑に扱われて、そのまま放っとかれて、本当に悲しかった。おれ、薫に怒った」
「そうだったんだ」
真人はへの字に曲げた口を解いて、小さく漏らした。
「怒んなければ良かった、って思う。怒ってなければ、今頃、まだ友達でいられたかも」
タオルケットの下からはみ出た真人の手が、震えていた。
「……握っていい?」
晃が尋ねると、真人は小さく頷いた。
そっと握った手は、思ったより小さく、汗で湿っていた。
「……怒んなければ良かった、は違うだろ。友達に雑に扱われたら、おれだって怒る」
真人は首を振った。
「そんなこと、ない。おれが、高望みだった。友達なら、困ったときに、当たり前に寄り添ってくれるって、思い上がってた。でも、向こうにだって、都合あるじゃん」
「そうだな。でも、だからって友達を雑に扱っていいわけじゃねーだろ」
真人は顔を顰めた。
「……晃に言いつけてるおれ、ださい。薫に見放されたこと、晃に言いつけてるの、めちゃくちゃ、ださい」
真人は苦しそうに息を吐いた。
晃は空いているもう片方の手で暗闇をまさぐって、ボックスティッシュから何枚か取り出した。
「友だち、もういらない、って思った。作ったら、依存する。そんなやつ、友だちなんかつくったらダメって思った」
「……そっか」
「大学でも、話しかけてくる人からずっと距離とって、これでいいんだって思った。でも、ずっと、ずっと考えてた、昔のこと」
「薫が恋しかったのか」
晃が尋ねると、真人は鼻を鳴らして頷いた。
「どこから間違えたのかな、って何回も思い出してた。どこからやり直したら、今も仲良くできてたんだろって」
握った手の指先に、ささくれの感触があって、逆立てないように下からそっとなぞる。
「薫、夢にも、何回も出てきた。自分から、“二度と顔見せんな”って怒って突き放したくせに」
「……真人が?」
「めちゃくちゃ怒った。大噴火した」
晃はぽかんと口を開けた。
そこまで怒ったのか。真人が?
いや、確かに、おれが立川に押しかけたときも怒ってたな……いや、あれは可愛いもんだったけど。
我を忘れて怒り狂う真人も、見てみたい気もした。ほんの少しだけ。
「自分から突き放しといて、いつまでもいじけて、本当に、ダサい。だからって、仲直りも、無理なんだ。まだ、まだ、怒ってる、薫に」
横たわる真人の瞳から、涙がこめかみを伝わった。
晃は握っていた手に力を込めた。
「……そうかよ。おれが、こーやって聞いてても、友だちは薫ひとりか?」
「……」
「教えてよ。真人、メッセージの最後、書き途中だったろ。“もし、それでも晃が”って」
「……」
「あれ、続き何だったの。聞かせてよ」
真人の涙に濡れた目が、ようやく晃を見た。
「……おれが、友達だって言ったら?」
「ちがう」
「じゃあ何だよ」
晃がじれったそうに尋ねると、真人はぽつりと呟いた。
「もし、それでも晃が、友だちのふりしてくれたら、いいな、って」
「……はあ?」
「嘘でいいから、友だちって、言って。おれのこと、本当は、嫌いでもいいから。本当は、面倒だって思っていいから。それでも、晃が、おれの前では、友だちって言ってくれたら、嬉しい」
真人はしゃくり上げながら訴えた。
「晃、嘘でいいから。嘘でいいから、おれは、真人の友だちだよ、って、言って」
「……」
「薫で空いちゃった穴に、晃のこと埋めて立ち直ろうとしてる自分が、大嫌いだ」
真人の瞳から、大粒の涙が溢れて流れていく。
「晃だって、おれがめんどくさいやつだって、もう十分わかっただろ。こんなやつだから、友達なくすんだよ」
真人は顔を隠すように布団に顔を埋めた。
「……嘘じゃねーと、友だちになっちゃダメなのかよ」
真人は大きく頷いた。
「おれに、そんな資格ない。全部、読んだろ。ドン引きしただろ」
「してない」
「嘘だ! ドン引きしたから、出てったくせに」
真人は握られた手を振り解いてぐしぐしと顔を乱暴に拭った。
「……まあ、そう思われてもしゃーないけど。厳密には違うよ」
晃はティッシュをもう一度追加して、真人の顔に当てた。
「……鼻、かめるか?」
ブーッと音がしたあと、重くなったティッシュをぽいっとゴミ箱に入れて、晃は苦笑した。
「まだ、話してないことだってある。いっぱいある。全部聞いたら、おれのこと、嫌いになる」
「そーかよ。じゃ、いいじゃん、今のところは友だちで」
「……」
「食いさし寄越されるし、天むすは食われるし、散々だったけど、楽しかったぜ? 今日の散歩」
「……嘘だ」
「嘘じゃねえよ」
「……じゃ、もっかい、友だち、って言って」
真人が晃のシャツの裾をつまんだ。
「友だち。真人は、おれの、大事な大事な友だち」
真人は情けない声で泣いた。晃のシャツに縋り付いて、グシャグシャの顔を擦り付けて、声を押し殺して涙を流した。
胸元に真人の涙が沁みて、晃は目を泳がせた。
手のポジションを考えていたら、真人が、また顔を上げて、訴えた。
「薫のこと、大好きだった」
「うん」
「本当に好きだった」
「うん」
返事をするたび、シャツ越しに、熱い息が何度も沁み込んでくる。
「火村さんも、大好きだった。おれ、最後の最後に、意地悪なこと言った。そのまま、お別れになっちゃった」
「……そうだったのか」
「晃……いなくならない?」
晃はゆっくり頷いた。
「なんねーよ。喧嘩したって、嫌われたって、勝手にいなくならない。約束したろ?」
「おれ、薫のことも、そう思ってたのに……」
すん、と鼻を鳴らして、真人は震える瞼を閉じた。
晃はしばらく黙ってから、口を開いた。
「……トトロに、カンタっているだろ」
真人の目が薄く開いた。
「おれ、あいつが好きでさ。オカンからの当たりキツいし、先生には叱られるし、誰にも褒められねえのに、サツキのこと一生懸命助けようとするだろ」
真人が涙の残った目で、晃を見た。
「ああいうふうになりてーなって、子どもの頃、思ったんだよな」
晃は真人の手を握り直した。
「友達が雨に濡れてたら、自分のボロ傘を貸してやれるやつでいたい。友達が泣いてたら、一緒に迷子を探しに行けるやつでいたい」
「……」
「できてるかな、真人に」
真人の眉が、ゆっくり下がった。
「真人は、大事な友達だから。おれ、友達には、そういうやつでいたいんだけど」
晃は握った手を少し揺らした。
「……そのあたり、どう?」
晃が尋ねると、真人はこくんと頷いた。
「カンタ、預かった電報でサツキが泣くし、池でサンダルが見つかったことも、サツキに言わなきゃいけない」
「……そうだな」
「サツキのこと、大好きなのに、嫌な役回り引き受けるんだ、いつも」
晃は苦笑した。
「カンタ、えらい。誰も褒めなくても、おれ、カンタのこと、大好き」
眉を下げて呟く真人に苦笑して、涙で張り付いている髪をそっとつまみ、耳の後ろへよけた。
「怒ってるときも、泣いてるときも、笑ってるときも。全部引き受けるのが、友達だろ」
晃が言うと、真人の握り返す力が強くなった。
「……それにさ、友達はひとりじゃなくていい」
「……」
「真人が少しずつ心を開けるやつが周りに増えたら、いいなって思う。寂しいって素直に言うの、苦手だろ」
真人は小さく頷いた。
「今すぐじゃなくていい。これから先、ゆっくり見つけてけばいいよ」
「……見つからなかったら?」
「慰める。どんまい、って」
真人はほんの少しだけ笑って、晃のシャツに顔を埋めて、息を吐いた。
落ち着かせるように、タオルケットを肩までかけ直してから、背中をトントンと叩いていると、次第に鼻を啜る音が小さくなり、真人は寝息を立て始めた。
晃はスマホを開き直し、大垣とのトークルームにメッセージを打ち込んだ。
『何でだろう。友達の仲違いの愚痴が、全部失恋話に聞こえた』
返事はすぐにきた。
『何、それ。どういうこと?』
『おれもわからん。今、過去の友達とやらにめちゃくちゃイライラしてる』
『それって』
大垣の的外れな推理が展開されるより早く、晃は「ちげーよ」と独りごちて、そのまま目を閉じた。




