みみっちい男
朝、晃は不機嫌だった。
無言で茄子の煮浸しを口に運んだかと思うと、手を合わせて一番に二階に上がって行った。
「まだ怒ってるのかしら」
春枝が思い出したように笑った。
昨晩、照夫は真人を駅に送り届けたあと、日野駅舎の向かいの歩道で晃の到着を待っていた。
二人で仲良く改札を出てきて、そのあと。
「青春だなあ」
抱え上げられた真人がゆっくり着地するのを見届けて、クールに踵を返したときだった。
「あれ? 晃、あれ、照夫さんじゃない?」
たぶん、晃も自分と同じ顔をしていたに違いなかった。
故意ではない。故意ではないし、おれは全然悪くない。
見張れと言ったのは息子。おれは遂行しただけなのに。
MTBを押す晃の前を、真人と一緒に歩きながら帰る間、背中に刺さるような視線がついて回った。
「まさか、待っててくれたなんて。駅の中で一緒に待っててよかったのに」
「いーんだよ。雨、止んだし。それにおれは邪魔者みたいだしな?」
後ろの息子に聞こえるようにわざと言うと、咳払いが返ってきた。
「照夫さん、カットありがとうございました。前髪だけでもずいぶん気分違います」
「だろ? まひ男はデコ出す方が似合うぞ」
「……まひ男?」
聞いたことのない息子の低い声が聞こえて、照夫は思わずニヤけそうになる口元を覆った。
*
「昨日の埋め合わせがしたい。出かけるぞ」
朝食の皿を洗い終えて、春枝と一緒に洗濯物の仕分けをしていたら、部屋から出てきた晃がぼそっと呟いた。
何のことだかピンと来ていない顔で真人は首を傾げた。
春枝は聞こえないふりをして洗濯機のスイッチを入れている。
お袋、恩に着る。
「どこ行くの?」
言ったら真人は喜ぶだろうか。それとも、そこで聞き耳を立てている春枝に無理をさせるなと止められるだろうか。
「ゆうえん」
晃が言いかけたとき、食後のハクがランドリールームに駆け寄ってきた。
晃の脇をすり抜けて、ハクは真人にタックルをかました。
「ハクも一緒にお出かけする?」
晃はハクを睨みつけた。
「ハクは置いていく」
「えっ。だめなの?」
真人の困惑した声に合わせて、ハクが「ワン!」と晃に向かって吠えた。
「よみうりランド、確か木曜日は休園日じゃなかったかしらね」
全てを見透かした春枝が、独り言のように呟いた。
「……休園日……だと?」
「よみうりランド? 晃、よみうりランドに連れて行ってくれようとしてたの?」
真人が目を丸くして晃に尋ねた。
「言ってねえ。別に。よみうりランドとは言ってねえ。ただ、前に井の頭公園のよくわかんねえ乗り物でテンアゲしてたから」
「ああ。あれは本当に楽しかったねえ。でも、ハクは遊園地に連れて行けないよ?」
真人がよっこいしょ、とハクを抱き抱えると、くぅーん、とわざとらしくハクが鳴いて、ペロペロと真人の頬を撫でた。
「ねえ、ハク、寂しいって言ってるよ。やっぱし、近くの公園とかにしよ」
待て。落差が酷すぎるだろ。
晃が口元を歪ませていると、脳内の宗馬が肩を叩いた。
「素直に、昨日のこと謝りなよ。“急にいなくなってごめんね”って言えばいいじゃん。別にお詫びで遊園地に行かなくてもいいと思う」
横から宗馬に凭れて凌也が囁いてきた。
「違う違う、宗馬。こいつ、デートしたいだけ。井の頭公園を自分の手で上書きしたいのよ」
うるせえ。脳内で急所突いてくるんじゃねえ。あと、デートじゃねえ。
「ドッグランとか行くー?」
真人が腕の中のハクに尋ねると、ハクがご機嫌に「ワン!」と返事した。
「いいわねぇ。多摩川の土手でピクニックしてきたら。おにぎりつくってあげる」
「わあ。いいんですか?」
「……どいつもこいつも」
晃はグシャグシャと頭を掻きむしった。照夫が洗面所から
「まひ男ー! おれのシャツも追加で頼む!」
と叫んでいた。
「……ドッグランかよ」
誰に言うでもなくぶつぶつと呟きながら、晃は荷物を準備した。水、タオル、防犯ブザー、ハクの登録証、マナー袋。
事前登録の条件も、きっちりクリア。照夫が散歩がてら連れていくため、ハクは常連らしい。
昼飯、どこで食うかなあ。犬連れて行ける店か。ま、何軒かあるだろ。
とにかく、早いとこ出よう。どんな横槍が入るか分かったもんじゃねえ。
二階の洗面所で身だしなみを整えていると、部屋から真人の声が聞こえた。
「晃」
「なに?」
「おれ、へんじゃない?」
不安そうな真人がドアから顔を覗かせた。
「見して」
晃が言うと、真人がしずしずとドアから出てきて、手を後ろに引っ込めた。
タートルネックばかりだった真人の服は立川に残したままだったので、実家に取ってあった古着を何着か、真人に渡したのだった。
真人が選んだのは、生成りの丸首シャツと、グレーのパーカー。自前のテーパードパンツの裾をじっと見て、晃の視線に耐えていた。
「似合ってんじゃん」
首の傷にガーゼを当てるのは嫌なのだそうで、そのまま剥き出しになっている。それが心配なのだろうか。
「これ、被る?」
晃はいつものネイビーのキャップを真人に差し出した。
「日よけにもなるし、ちょうどいいんじゃねえか」
一度被ってみるものの、サイズがブカブカで真人は口をへの字に曲げた。
芸能人のプライドが若干傷つきながらも、晃が頭のサイズに留め具を調節してもう一度手渡すと、小さく「ありがとう」と呟いた。
天気は曇り。降水確率は運良く10%。
自分も変装用に黒のバケットハットを被り、準備万端。
フル充電するようしつこく言っておいたスマホを真人が充電コードから抜いたのを見て安堵していたら、春枝がキッチンから顔を出した。
「おにぎりたくさん作ったの。遠足に持って行って」
「わあ。こんなにたくさん? いつ作ったの?」
「うふふ。こんなのすぐよぉ」
──終わった。
「おたからだねえ、ハク」
真人が渡された風呂敷を大事に受け取ると、ハクが尻尾を振って匂いを嗅いだ。
「何味だろう?」
「鯖に、ふきのとうに、シシトウ味噌と、あと梅干し」
「……絶妙に具がじじくせえ」
思わず口をついて出た文句に、真人が振り向いた。
「やだねえ、人の作ったものにいちゃもんつける人」
「ワン!」
両親の見送りを背に、晃は真人とハクと、曇天の空の下を歩き出した。
「行ってらっしゃーい!」
「まひ男、無理すんなよ」
振り返らない晃とは正反対に、真人は角を曲がるまで手を振った。
*
凌也は五日前のLINEを見返していた。
チャットの相手は、実姉の美弦。
『みちるたまー。千木良いのりってご存知?』
『名前は知ってる。何、炎上?』
『まだ。榊普との接点、掘って』
『また碌でもないことしてる』
『おたく、暇でしょ』
『殺すぞ。コミケで忙しいっつってんだろ』
このやりとりがすべて同時刻に収まっている。流石ネット廃人。
神谷真人の家にわざわざやってきている状況からして、紙袋のAirTagは、おそらく榊の仕込んだもの。
なぜ、千木良いのりの名義になっていたのか。それに、なぜ千木良が病院まで送り届けたのか。
瓶子名義でも御域関係者名義でもなく、なぜ所属俳優である千木良が、そんなことを。
千木良いのりは「榊に近く」「使いやすい」「切り捨てやすい」「足がついても榊本体に届きにくい」人間ってことか。
恋人か、愛人、セフレ、あるいは元カノ? 榊に惚れてる後輩?
探ってること自体バレると面倒だから、芸能人の友達にも聞けないしねー。
飲み会までにみちるたまから返事来ないかなあ。
自宅のパソコンで、タブを開きまくって御域所属の俳優のインスタをスクロールするのにも疲れてしまった。
夜の戦場に備えて、一旦寝るとしますかね。
凌也はベッドに寝そべって大欠伸をした。
晃、何してんだろ。よもや、おれと宗馬が夜に千木良いのりと飲むなんて思ってもないんだろうなあ。
ま、言ったら絶対来るしな。ややこしくなるから黙っとこ。
眠りに落ちかけたとき、スマホが鳴った。通知の“みちるたま”の文字に、凌也は歯を剥き出しにして飛び起きた。
*
むかつく。
何なんだよ、アイツ。
昨夜の、真人の親友面した男。
芸能人様が話しかけてやってんのに、あの態度。類は友を呼ぶっていうか、所詮、真人の友達──いや、マブダチ、だっけか。
真人、おれのことアイツに言ってたんだ。ふうん。
被害者ヅラして、とうとうアイツに泣きついたんだ。で、結局拗れてんのか。
不憫なやつ。不器用なんだよな、昔から。
「ねえ、話聞いてる?」
合同スタジオのカフェ。
人けもまばらなこの時間帯に、この場所で寛ぐのが榊の日課だった。
台本を読み込んでいると、たまにこうして連絡が来て、たわいない話をしては彼女は去っていく。
だが、今日の彼女は少し不機嫌だった。
「ねえ、なんでAirTag私が入れたことにしたの? 私、瓶子さんから怒られたんだけどな」
レモネードをストローで口に含みながら、彼女は拗ねたようにそう言った。
榊は台本に目を通したまま答えた。
「ああ、ごめん。なんか、話大きくなっちゃったね。ただからかうつもりで入れただけだったんだけどさ」
そう答えると、ふーん、まあ、いいけど、といのりはネイルアートの指をしげしげと見つめた。
「いいよねブレイムは、なんでももみ消してくれて。だからってあんまり調子乗ったらだめだよ?」
いのりがいたずらっぽく笑った。
「私、ARCの宗馬くんに飲みに誘われたんだー」
千木良がストローを弄びながら榊に上目遣いで言った。
派生グループ同士の旧知の仲ということもあり、二人がこうして仲睦まじく話していることを勘繰る人はほとんどいない。
「宗馬くん、かっこいいけど、ちょっとおバカちゃん。普のほうがいいな、やっぱり」
「何、またおれと付き合いたいわけ?」
「別に」
いのりは目を伏せた。
「……エマと付き合ってんの、普」
一段低くなった声。榊は笑った。
「未練たらったらじゃん。知りたいの?」
「エマはやめときなよ。あんまりいい子じゃない」
いのりの剣呑な物言いに、つい榊は興味を持った。
「エマはいい子じゃないんだ? どうしてそうおもったの?」
「意地悪だから。すごく、人のこと見下してる。普は、そうじゃないじゃん。なんていうか、皆に優しいでしょ?」
榊は目を丸くした。
「だから、ああいうのと付き合うの、やめた方がいい。性格悪いの移ったらやだ」
いのりはそう言ってストローを口に含んだ。
「いのりは、おれのこと優しいって思う?」
榊が尋ねた。いのりはストローから口を離して頷いた。
「思う。優しい。あのとき、泣いてたじゃん」
「あのとき?」
「神谷くんと喧嘩したとき。神谷くんが悪いと思う、私。普に依存しすぎ。でも、神谷くんのこと突き放したとき、泣いてたでしょ、普。神谷くんが可哀想だって」
「…あァ」
「優しいなって思った。辞めちゃったこと、責任感じてるんでしょ? 気にすることないよ。この世界って、メンタル強くないと持たないし」
先ほどまでの苛立ちが嘘のように凪いだ。
そうだ。おれは、誤解されてばっかりだ。昔から。
いじめっ子だとレッテルを貼られて、真人には自分を苦しめたと恨まれて。
「嬉しい。わかってくれるんだ、いのりは」
榊は思わず口元を押さえた。
いのりは小さなポーチからハンカチを差し出して、クスッと笑った。
「良かったら、普も来る? 飲み会」
「……?」
「ARCの宗馬くんと、もう一人来るよ。ちょい髪長めの、凌也くん。晃くんは来れないらしくて」
「……」
「今日の撮影の後、何もないでしょ? 瓶子さん、今トラブル処理でテンパってるからたぶん怒らないよ」
「瓶子さんのことなんかどうでもいい。晃くんは、来ないのか……晃くんと、仲良くなりたかったんだけどなあ」
「なんで?」
「晃くん、前に雑誌で仕事したことあって。真人の新しい依存先になってないか、心配してんの、これでも」
そうだ。おれの本心はこっち。
昨晩は二軒目で酔ってたし、エマの言い方に悪ノリしてしまったのが良くなかった。
おれは、クズなんかじゃない。
「あはは。何それ、最悪じゃん。サークルクラッシャーってこと? 令和のオノ・ヨーコじゃん」
千木良は手を叩いて笑った。
「凌也くんってすごく頭良いらしいよ。バカ二匹の飼い主、ってファンから言われてるんだってさ。普と話し合うんじゃない?」
「晃くん、バカに見えないけどな」
「ね。でもファンから見ると頭の悪いシベリアンハスキーなんだって。ちょっとわかるかもしれない」
千木良はケタケタ笑いながら頰に手を当てた。
「じゃ、一人追加でいいね? 六本木に二十一時。普、よろしくね」
*
「……すっぱい」
多摩川の土手。ドッグランではしゃいだのが老体に響いたハクは、ピクニックシートの隅でぐうぐうといびきをかいている。
「晃、食べない?」
「食いさしを寄越すなよ」
「だって、残したら春枝さん悲しむよ。証拠隠滅、お願い」
「……ったく。色気のねえラインナップだなあ。そうだ、天むす、追加で入れたって言ってなかったか?」
「もう食べた」
「は? 二個あったろ」
「……」
「ふっざけんな! どう考えても一個はおれのだろ。なんで二個とも食ってんだよ」
「晃、みみっちい。アイドルのくせに」
梅干しを一口齧っただけなのに、なぜかタネまで含んでしまった真人は、コロコロと片方の頬を膨らませたまま五百ミリのペットボトルの水を飲んだ。
「おいしい」
「タネ入れたまま水飲むな。詰まるだろ」
「飲み込んだら引く?」
「引く。食うな。歯ァ欠ける」
「でも、まだ味する」
「飲むな。あと出せ」
「……ほしいの?」
「ほ・し・く・ね・え! ぜんっぜん、ほしくねえ! なぁんでそーなるんだよ! ったくもうあああああ!!」
「ふはは。晃、怒りすぎ」
真人はクスクス笑って、ピクニックシートにごろんと寝そべった。




